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第三章 記憶のかけら
しおりを挟む視界の中の車がどんどん迫ってくる。呂布に首を絞められたせいで、ジェイソンが運転する車は知らぬうちに対向車線を逆走していたのだ。
ジェイソンは猛然とハンドルを切る。間一髪のところでなんとか衝突を回避し、車を路肩に停止させた。
対向車の運転手が窓から顔を出し「ふざけんな! 窒息プレイなら家でやれ!」と、罵声(ばせい)を浴びせて走り去っていった。
さすがの呂布もあっけにとられている。ジェイソンは呂布の腕が緩んだすきに素早くドアを押し開け、逃げるように車をおりると街路樹に手をついて肩で大きく息をした。
(危なかった……。あと少し遅かったら大事故になってた……)
今さらながら恐怖が襲ってくる。
車の揺れが収まると、呂布は早くも落ち着きを取り戻していた。
(ふん、俺は暴れる赤兎でさえ乗りこなしていたんだ。これしきの揺れで振り落とされるわけがなかろう。とにかく、この呂布は簡単には死なぬということだ! たとえ地獄に落ちようと、必ず生き返って憎き曹操の首を取る!)
呂布は車のドアを蹴り開け、意気揚々と狭苦しい車内から外に出る。
ところが……。
「ぬわっ!」
道路に足をつき、尻を持ちあげた瞬間、呂布はしたたかに足首をひねり地面に崩れ落ちた。
(足かせか……?)
足元のハイヒールを見つめ、ぼう然とする。しかしすぐに気を取りなおしハイヒールを足先からもぎとった。素早く立ちあがり、このいまいましい「足かせ」を少しでも遠くに放り投げてやろうと振りあげた手の動きがピタリととまった。
呂布は刮目(かつもく)し周囲を見渡す。
シルバーグレーの高層ビルの狭間をさまざまな種類の乗り物が川のように流れていく。目の前にそびえる豪華な建築物がひときわ存在感を放っている。このテクノロジーに満ちたきらびやかな世界に、呂布の頭は追いついていかない。
突然、脳内に電流が走り全身が震えた。手に持っていたハイヒールがバタバタと地面に落ちる。呂布はまっすぐ立っていられなくなり、身体を車にもたせかけた。
「うっ…」
短くうめき、額を手で押さえる。
「頭の中に浮かんでくるこの光景は一体……」
呂布の意識が誰かの記憶の渦に飲み込まれていく。それは、ある女の子の出生から始まる成長過程の記憶だった。
病院のベッドに赤子を抱いた若い女が座っている。ベッドのそばにいる男は、おどけた顔をして赤子をあやしている。どうやらふたりは夫婦らしい。
「えらくしわくちゃだな?」
男のデリカシーのない言葉に、若い女は顔をしかめる。
「ひどい! 生まれたばかりの赤ん坊はみんなこんな感じでしょ。この子はきっと美人になるわ!」
「じゃあ名前は美人って意味の『嬋(せん)』にしよう。虫偏じゃなくて女偏のほう。この子は陳嬋だ」
男は満足そうに微笑んだ。
場面が一転し、さっきの夫婦は白黒の遺影におさまっていた。祭壇のそばで泣きじゃくる少女の陳嬋を、中年の男が慰めている。
「嬋、もう泣かないで。パパとママはお空に行ってしまったけど、叔父さんがそばにいるからね」
そう言いながら陳嬋を抱きしめている男の顔は、いかにも狡猾(こうかつ)そうで、あの曹操にそっくりだった。
「曹叔父さんがパパとママの代わりに嬋を育てるからね。これからは私が嬋のパパだよ」
記憶の断片が、徐々に薄れていく。
呂布は憤怒の形相で、人さし指を天に突きあげた。
「おのれ曹操、貴様だったか! 必ずや貴様を殺す!」
一部始終をそばで見ていたジェイソンは困惑の表情を浮かべている。
次の瞬間、さらに激しい電流が呂布の脳内を突き抜けた。
「あーーーーー!」
目を血走らせ、腰の横で拳をかたく握りしめた呂布は、天を仰いで雄叫(おたけ)びをあげる。
この時、陳嬋の姿をした呂布の左目には陳嬋の意識が、右目には呂布の意識が宿っていた。そして左目の陳嬋は、何かの液体に浸っている自分の姿をぼんやりと眺めていた。身体の周りには小さな気泡が無数に湧きあがっている。
「助けて!」
突然、耳元で女の声が聞こえた。
「お前は誰だ?」
右目の呂布が尋ねる。
意識が遠のき、呂布は目を閉じた。すると頭の中に次々と新しい情景が浮かんでくる。どうやら、さっきまで見ていた世界にワープしてしまったようだ。
甲冑(かっちゅう)を着た自分が、怪しげな液体で満たされた透明な容器の中に立っている。周囲には細かい泡が浮かび、髪が海藻のように揺れている。
「私は……あなたよ!」
液体の中の自分が、女の声で話しかけてきた。
陳嬋の姿をした呂布は、容器に駆けよった。容器の中の呂布も手を伸ばしているが、ガラスの容器が互いを隔てていた。その後方には、稲妻を横に倒したような形をした模様がぼんやりと見え隠れしている。
「俺の身体を返せ!」
陳嬋の姿をした呂布は怒鳴った。けれど液体の中の自分の身体は消えかけている。
「Z社へ来て私を助けて!」
自分の身体が液体の中で手を伸ばしながら、女の声で叫ぶ。だがそれを最後に、その身体は忽然と消え、液体の中には気泡だけが残った。
呂布も慌てて手を伸ばしたが、もうガラスの感触はなく、まるで手応えがない。そのうち周囲の景色が全体的にかすみ完全に消失した。
呂布がかっと目を開けた。瞳には固い決意の色が浮かんでいる。
「……社長、大丈夫ですか?」
ジェイソンが心配そうな顔をして呂布に近づいた。
「ズット社に案内しろ」
「それは……」
ジェイソンは焦っていた。「Z」の言い間違いであることはすぐに察しがついたが、陳嬋にZ社の件を知られたくない理由が10万通りはあるのだ。背中を嫌な汗が流れる。
呂布はジェイソンのネクタイをつかんで自分の前に引き寄せる。
「言え!」
ドスをきかせて命令するが、身長差のせいでジェイソンを見あげる形になる。
「ズット社……? もしかしてZ社ですか?」
呂布の腕にますます力が入り、ふたりの顔が異常に接近する。
ジェイソンはゴクリとつばを飲み込み、(近すぎるって!)と心の中で叫んだ。
「それだ。どこにある?」
陳嬋がなぜZ社の所在を知りたがっているのかは分からないが、この状況でシラを切れば、第一秘書としての立場が危うくなる。
「ゼ……Z社はですね、確か今日、世界貿易ビルで展示会を開催しているはずです」
「そのビルとやらはどこにある?」
そう言って呂布は、さらに顔を近づける。ジェイソンは鋭い眼光に射すくめられ、震える指で呂布の背後にそびえるひときわ豪華な建築物を指さした。
「そ……そちらです」
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