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第六章 逃走劇の始まり
しおりを挟むゴボゴボゴボゴボッ……。
陳嬋は、両手を耳に当てて悲鳴をあげる。やはり出てくるのは気泡ばかりだった。
ひとしきり叫んで、というか気泡を出して少し落ち着きを取り戻した陳嬋は、あごを下げて自分の身体に視線を落とす。そこにあるはずの美しいバストラインが見えない。なぜか屈強な体躯が甲冑に包まれており、うちわのように大きな手には指毛まで生えている。
(なんなの? この筋肉の塊みたいな身体は? どうしてこんなことに?)
陳嬋は、ゴボゴボと気泡を口から出しながら、必死でガラスをたたく。
その音に振り返った呂布は、急いで培養ケースに駆け寄った。
魂が入れ替わった呂布と陳嬋は、不思議そうにお互いを見つめあう。
ドンドンドン!
呂布は猛然とガラスをたたくが、ケースはびくともしない。
一方、陳嬋はケースの外にある「Open」と書かれた赤いスイッチを発見し、それを指さしながら呂布に「押せ」と身振りで伝える。しかし呂布がスイッチに手を伸ばすと、すぐに飛んできた警備員らに羽交い締めにされ、もみあいになった。
三国第一の戦神として名をはせた呂布なら、警備員が何人かかってこようと、まとめて始末することなど赤子の手をひねるよりたやすいことだ。けれど陳嬋の身体ではその能力を発揮することができない。ただ身を守るために、すばしっこく動き回り、相手の攻撃を左右にかわすことで精一杯だった。
しかし呂布は見逃さなかった。
「すきあり!」
あっというまに警備員を振りきって、赤いスイッチを押す。なぜかガラスケースが液体ごと消え、陳嬋がその場にへたりこむ。呂布は息つくひまもなく、再び警備員に囲まれる。
その時、ジェイソンが会場に駆け込んできた。
「やっと来てくれた!」
呂布の姿をした陳嬋は泣きながらジェイソンに抱きついた。
しかしジェイソンは、けげんそうな顔をして陳嬋を押しのける。
「やめてくれ。男に興味はない……」
しかしすぐに思いなおす。
「てか、あんた強そうだな。一緒にうちのお嬢様を守ってくれないか? 謝礼はするから!」
「ねえ、それより私……の身体、どうして警備員と戦ってるの?」
「あんた呂布なんだろ? なんでなよなよしてんだ?」
培養ケースの表示にチラリと目をやり、ジェイソンは不思議そうな顔をする。けれど深く考えているひまはない。
「頼むから力を貸してくれ。行こう!」
ジェイソンは落ちていたスタンバトンを拾いあげ、呂布の姿をした陳嬋を促す。そして陳嬋の姿をした呂布のほうへ走っていった。
「待ってよ……」
ジェイソンを追いかけようとする陳嬋の前に警備員が立ちはだかる。
「ジェイソンのバカ! なんで私を置いてくの!」
陳嬋はやみくもに腕を振りまわし、押し寄せる警備員をなぎ倒しながらジェイソンを追いかける。ふと後ろを振り返ると、気絶した警備員が大量に倒れていた。
(何? この身体、めっちゃ強くない?)
ジェイソンが呂布に駆け寄り、手首をつかむ。
「嬋ちゃん、大丈夫ですか? 逃げましょう」
「やめろ、俺は男になど興味ない!」
呂布はジェイソンの手を振り払う。
「うん? どこかで聞いたセリフ……」
混乱するジェイソンの背後から「嬋ちゃん?」という声が聞こえ、慌てて言い直す。
「社長、大丈夫ですか?この状況は一体……?」
「とりあえず、ここから逃げるのが先よ!」
呂布の姿をした陳嬋が答える。
「あんたには聞いてない!」
そう言ってにらみつけてくるジェイソンの頭を、陳嬋は後ろからはたく。
「車はどこなの? 早く言いなさい!」
「入口に停めてます……」
ジェイソンは頭をさすりながら、あっさり口を割る。
「ここを突っきろう!」
巨体の陳嬋が、きゃしゃな呂布の手を引いて走る。
(この身体、意外に便利かも。どうせ自分のじゃないから、ケガしても気にしなくていいし)
そんなことを思いながら、早速、目の前に現れた警備員に体当たりをくらわせ、吹き飛ばす。ジェイソンもそのあとに続く。3人は、警笛がけたたましく鳴り響くフロアを走り抜けてエレベーターに駆け込んだ。
世界貿易ビルの前に見慣れた車が停まっている。3人は大急ぎで車に駆け込んだ。運転席に乗り込みハンドルをにぎったジェイソンが、後部座席の呂布を振り返る。
「社長、どちらに?」
呂布は知らん顔をして窓の外を見ている。
「龍門のマンションには戻れないから、海辺の別荘に行って!」
陳嬋は前髪のスタイルを整えながらジェイソンに命じる。屈強な戦神の姿で、やたらヘアスタイルを気にする陳嬋に的確に指示され、もう何から質問すればいいのか分からなくなったジェイソンだったが、追ってきた警備員が目に入り、とにかく思いきりアクセルを踏み込んだ。
バックミラー越しに呂布を見ると、手から血が流れている。
「社長、手にケガをしてるじゃないですか!」
ジェイソンは、すぐさま自動運転に切り替え、ダッシュボードから絆創膏を取り出すと、呂布に差し出した。
呂布は相変わらず窓の外の風景に見入っている。代わりに陳嬋が絆創膏を受け取り、「ほんとだ。バイ菌でも入ったら大変」と言いながら、慣れた手つきで呂布の傷口に貼る。
呂布は「たいしたことはない」と、不服そうに手を引っ込めた。
その時、車内に着信音が鳴り響いた。ジェイソンが腕時計に軽く触れると、ディスプレーに端整な顔立ちの男性が現れる。
「アイク、今どこ? こっちは社長と海辺の別荘に向かってる」
「え? なんで? アタシはさっき世界貿易ビルに着いたとこなんだけど、えらい騒ぎになってるよ? ……ところで、嬋ちゃんの隣にいるマッチョなイケメンは誰なの?」
「まったく……、男にはめざといんだから。ごちゃごちゃ言ってないで、すぐ別荘に来て!」
呂布の姿をした陳嬋が心底あきれたような顔をする。
「うそ、話し方が嬋ちゃんにそっくり! あんたたち、もしかしてタダならぬ関係とか?」
「黙れ、若造!」
「やだ、びっくりした。うちの嬋ちゃんったら、ご乱心?」
アイクは大げさに驚いてみせる。
「ま、そんなこともあるかもね。アタシのほうが先に着くと思うから、じゃあ別荘で会いましょ」
一方的に通信を切られ、ジェイソンは、ぽかんとした表情で呂布と陳嬋を交互に見比べた。
「ハア……」
陳嬋は、ジェイソンの態度を気にするようすもなく、大きなため息をついた。こめかみを指で押さえ、難しい顔をして考え込む。
(小説の中じゃ、よくある現象だけど……。これが夢じゃないとしたら、もしかして私はこの男と身体が入れ替わった?)
ただならぬ殺気を感じ、陳嬋が顔をあげると、呂布がものすごい形相でこちらをにらんでいた。頭が割れるように痛くて、反応する気になれない。
(今はとにかく休みたい。でも、身体を取り戻す方法を考えないと……)
しかし、ついに呂布が苛立ちをあらわにする。
「俺の身体を返せ!」
怒鳴りながら、陳嬋の肩をつかんで激しく揺らす。
「ちょっと何するの! 乱暴はやめて!」
ジェイソンが慌ててとめに入るが、一向に騒ぎが収まる気配はない。
一方、Z社の展示会場では、招待客らの仮面があちこちに散乱し、台風一過の様相を呈していた。
仕立てのいいスーツに身を包んだ中年の男が苦々しい表情で警備隊長を手招きする。
「防犯カメラの映像をチェックして、すぐに侵入者の行方を追え。それから、警察には強盗が入ったと通報しろ」
「あの……、何を盗まれたと説明すれば? とても『呂布』とは言えないかと……。それに呂布が女性を連れ去ったような……」
警備隊長は、男の冷ややかな視線に圧倒され身体が震えている。
「そこは、うまくやれ」
「はい!」
その場に直立し、警備隊長は敬礼する。
男はそれには目もくれず、腕時計の通話ボタンを押す。一瞬、呼び出し音が鳴ったが、すぐに切断され「通話中」のメッセージが表示された。
「通話拒否か?」
男は眉をひそめ、不服そうにつぶやいた。
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