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55_弾む心
しおりを挟む――――少しずつ空に、溌溂とした赤が芽生えていく。
遠くに見える、宦官の列を眺めながら、私は清和殿前の広場の階段を下りていった。
深く、息を吸う。
はじめて皇宮に足を踏み入れた時から、ずっと緊張感に支配されてきた。落ち着いた気持で深呼吸をするのは、久しぶりだということに気づく。
これからは、何度もこの景色を見ることになるのだろう。
最初に見た時は、皇宮の広さに感動したけれど、これから何度も見ることになると思うと、感動は薄れてしまった。
(・・・・腹をくくるしかない)
逆らえぬ運命なら、受け入れ、従うまで。ずっとそうしてきたはずだ。
――――私と俊煕殿下の間にある〝ご縁〟とやらが完全に切れるまで、私は政治の一部として、ここで働くのだ。
(雲来旅館に戻って、仲弓さんに事情を話さないと)
気持ちを切り替えて、また歩き出そうとした瞬間、何かが足に引っかかった。
「あー・・・・」
靴を固定していた糸が、切れてしまったようだ。
(どこかで、針と糸を借りないと・・・・)
針と糸を借りて、靴が足から外れないようにしなければならない。
「嶺依殿!」
俊煕殿下の声が聞こえて、広場の向こうを見ると、走ってくる人影が見えた。
「よかった、まだここにいたんですね」
急いできたのか、殿下の息は切れている。腕の中には、包みがあった。
「殿下、私にご用でしょうか?」
「今後も、一緒に働けると父から聞きました」
「え、ええ、陛下の計らいで、登用してもらえることになりました」
「それではまだしばらくの間、ともにいられますね」
俊煕殿下は嬉しそうに、そう言ってくれた。
殿下の視線が、私の足元に落ちる。
「靴紐がまた切れたんですか?」
「ええ、もう古い靴ですから。・・・・この靴、私の家族が作ってくれたものなんです」
私の故郷では、身に纏うもの――――服も、靴も、帽子や手袋も、髪飾りですら、すべて手作りだ。店もなく、行商もあんな僻地まではやってこない。
「困りました。新しい靴を買わないと・・・・」
「では、これを使ってください。さっき、店でいい品を見つけたので」
それは、薄青色の長靴だった。
革製で、足に固定するための紐がいくつもついている。実用性に重きを置いた作りをしていた。しかも実用性を重視しながらも、可愛らしい花と蝶の刺繍が施してあって、見栄えもいい。
「蝶の刺繍・・・・」
「嶺依殿は多分、蝶が好きだと思ったので」
「え? 蝶が好きだと、言ったことがありましたか?」
確かに私は、蝶が好きだ。特に鮮やかな羽の色が好きで、ひらひらと舞う様子を、いつまでも眺めてしまう。
でも今までの会話を思い返してみても、蝶が好きだと伝えた記憶がない。
「ええと・・・・庭で蝶を眺めていましたし、蝶の種類にくわしいようでした。それに、屋台では蝶の小物ばかり見ていたでしょう? だから、蝶が好きなのかと思っていました。・・・・違いましたか?」
「いいえ、殿下がおっしゃるとおり、私は蝶が好きです」
殿下は、私のことをよく見てくれていたようだ。
「知っている職人が作ったものなので、動きやすさは保証します。この靴は革と薄手の布でできているので、この地域でも履きやすいはずです。高価なものは使いにくいとおっしゃっていたので、値段が高くないものを選びました」
玉の腕輪を高価すぎると断ったから、俊煕殿下はきっと、値段が高すぎないものの中から、私が気に入るものを探してくれたのだと思う。
でも、私の価値観では、それは十分すぎるほど高価な物だ。
「殿下、お気持ちはありがたいのですが、これは受け取れません・・・・」
すると、俊煕殿下は俯いてしまった。
その顔を見ると、私まで悲しい気持ちになって、必死に言葉を探す。
「この贈り物が、気に入らないわけじゃありません。むしろ、とてもいい品だと思います。・・・・ただ、私の立場では、皇子である殿下からは、恐れ多くて、贈り物を貰うことなんてできません」
すると、殿下は真剣な顔になる。
「今だけは皇子としてではなく、一人の人間だと考えてもらえませんか?」
「・・・・・・・・」
「それにこれは・・・・送りものではなく、お礼の品なんです」
「お礼の品?」
「あなたと仲弓殿は、叔父上の命を救い、報奨金と引き換えに、正廷の命も助けてくれようとした」
「・・・・あの時の言葉は、余計だったと思います。陛下は私が何も言わなくても、正廷様のお命を奪うことはなかったでしょう」
「たとえそうだったとしても、あなたは弟を助けるために、報奨金を投げ打ってくれた」
弟、という言葉にハッとする。
俊煕殿下と正廷様は、兄弟ではないと証明されてしまった。
それでも俊煕殿下は変わらず、正廷様のことを弟だと思っているようだ。血の繋がりはなくとも、一緒に育ってきた。俊煕殿下にとっては、それだけで十分なのかもしれない。
「・・・・あの時の、あなたの言葉が嬉しかった。だからこれは、あの時のお礼なんです」
「・・・・・・・・」
私は、靴を抱きしめる。
これ以上は、断り続けるほうが失礼になると思った。
「・・・・ありがとうございます、殿下。大切に使わせてもらいます」
俊煕殿下の顔に、ぱっと笑顔が花咲く。
「一度、履いてみてもらえますか? 足の大きさが合っているかどうか、確かめたいんです」
「はい」
靴を置いて、足を入れる。
その靴は、私の足にぴったりとはまった。おまけに軽くて、布の部分は風通しがいい。
「とても軽いです」
気持ちまで軽くなって、私は弾むように歩く。
「よかったです」
「おや、その靴、履いてみたのか」
階段を上ってきた浩成様と、出くわす。
「動きやすいか?」
「ええ、動きやすいです」
「そりゃよかった。・・・・その靴を見つけるのに、何時間もかかったんだ。せめて気に入ってもらえないと、こっちも甲斐がないってもんだ」
「え?」
「殿下の贈り物捜しに、俺も付き合わされたってことだよ。殿下は何時間も商店をまわって、ああでもない、こうでもないと・・・・」
「浩成!」
殿下が、浩成様の口を塞いだ。――――塞ぐというよりは叩くような鋭い音がして、浩成様は目を白黒させる。
「は、はは・・・・それでは俺達は、これで失礼します」
殿下は、浩成様の腕を引っ張っていく。浩成様は余計なことを言ったと気づいたのか、ずっと項垂れていた。
俊煕殿下達の後ろ姿が見えなくなっても、私は長い間、そこに立っていた。
(・・・・殿下はこの贈り物を、時間をかけて探してくれたんだ)
この靴が軽くて、動きやすいのは、ただ腕がいい職人が作った、ということだけが理由じゃないだろう。
私が飾り気よりも実用性を取ると知って、殿下は私が気に入るものを、時間をかけて、探し出してくれたのだ。
――――その気持ちが、どんな高価な贈り物をもらった時よりも、嬉しかった。
胸に手を当てると、早くなった鼓動の振動を感じた。
突然役目を命じられ、不安で憂鬱な気持ちになっていた。
だけど俊煕殿下のおかげで気持ちは軽くなり、今は皇宮で過ごすことになる日々に、期待を感じている。
(・・・・これからは、誠心誠意殿下にお仕えしよう)
そう決めて、私は軽い靴で、弾むように足を前に出した。
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