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しおりを挟むーーーーアリアドナの明るい言葉とは対照的に、私の結婚生活は悪夢そのものだった。
「邸宅のことはすべて、クロエに任せてある。だから君は、おじい様の世話だけしてくれればいい」
私が子供のころに婚約し、結婚した相手、ジャコブ・フォン・ファンクハウザーは、結婚式の日に、私にそう言い放った。真っ白な神殿の、天窓からの突き刺さるような陽光を浴びながら、私は雷に打たれたような心境だった。
(・・・・クロエ? 誰のこと?)
突然のことに呆然とする私の前に、黄金色の髪をなびかせながら、一人の女性が颯爽と現れる。
それが夫の愛人だという事実を知ったのは、皇都にあるファンクハウザーのタウンハウスに入った後だった。
ファンクハウザー家は、モルゲンレーテ建国時から続いている由緒ある家門で、皇帝から塩の売買の管理を任されていた。小さな領地からの収益は大した額ではなく、塩の専売の管理で得られる収益が、主な収入源だった。
「あなたの部屋はそこよ」
はじめて邸宅に入った私を屋根裏に案内したのは、愛人のクロエだった。
「ハインリッヒ様のお世話以外、あなたは何もしなくていいから」
「なぜあなたがそんなことを決めるの?」
「呆れた。ジャコブの言葉を、もう忘れたの?」
クロエはわざわざ顎を上げて、私を見下ろした。
「邸宅のことは、すべて私が担ってるの。使用人も私の言うことしか聞かないから、何を言っても無駄よ」
クロエの言葉は真実だった。
使用人達はクロエの指示には従順に従うのに、私の指示は聞き流す。結婚前にすでに、家主であるジャコブがクロエに伯爵夫人の権限をすべて与えてしまっていた。しかも結婚後もジャコブは私を空気のように扱うから、使用人もそれに倣っているようだった。
ーーーーこの家では、妻という言葉は空っぽの箱のようなもので、私の居場所は、ファンクハウザーの広い邸宅のどこにもなかった。
ジャコブは結婚前に爵位と家督を継いで、ファンクハウザー伯爵と呼ばれるようになっていたけれど、実際のところ家門の実権はいまだに、先々代の当主のハインリッヒが握っていた。
ジャコブの父親は若くして亡くなってしまったため、幼いジャコブの代わりに祖父であるハインリッヒが家門の実権を握り、そのままになってしまったそうだ。
ハインリッヒは卒寿近い老人で、すっかり足腰が弱り、杖がないとまっすぐ立てないような人物だった。けれど古木のような、その弱々しい外見とは裏腹に、邸宅の使用人達はハインリッヒのことを心から恐れているようだった。
「おじい様を世話することが、君の役目だ。今日からおじい様の部屋に食事を運んでくれ」
ーーーーハインリッヒが恐れられる理由は、ジャコブに食事を運ぶように指示されたことで、私も知ることになった。
「食事をお持ちしました・・・・」
扉を開けた時、老人は棚の近くの、アームチェアに深く腰掛けていた。
私が食事をどこに置こうか迷っていると、老人は棚の表面を指の関節で、コンコンと叩く。
(そこに置けってことなのね)
薄暗い部屋の奥に座ったハインリッヒは、何とも言えない不気味な雰囲気を漂わせていた。背が曲がって身体は小さく見えるのに、眼光だけはぎらぎら光っているように見えたのだ。
「失礼します」
その空気に気圧された私は、食事を置いて、すぐに退室しようとした。
「・・・・っ!」
だけどハインリッヒに背を向けたところで、背中に衝撃があった。激痛と驚きで、私は崩れ落ちる。
ーーーー振り返ると、鞭を持ったハインリッヒがいた。
理由も教えられないまま、何度か鞭で打たれたあと、私は泣きながら、ジャコブの執務室に駆けこんだ。
「・・・・おじい様には少し気難しいところがある。だが鞭で打たれた原因は、君にあるんだろう?」
私が事情を話すと、ジャコブは溜息まじりにそう言った。
「え?」
「おじい様が鞭を使うのは、ミスをした使用人を罰するためだ。君の失敗に、おじい様が怒ったんだよ」
「失敗なんてしてない!」
「わめかないでくれ。・・・・まだ仕事が残ってるんだ。出て行ってくれ」
「・・・・・・・・」
ーーーーハインリッヒは老いてなお、きわめて凶暴な人物で、些細なことで暴力を振るう人物なのだということを、後日知った。
使用人は日常的にその暴力に晒され、当主であるジャコブですら、祖父を恐れているのだという。彼は、祖父の前では子犬のように背中を丸めているそうだ。
しばらくして私は、ハインリッヒが男性よりも女性を狙っていることに気づいた。邸宅で働く人間全員が、ハインリッヒの凶暴性の被害に遭っていたけれど、もっとも狙われていたのは若くて美しいメイドだった。
彼はメイドを執拗に痛めつけ、彼女達の悲痛な声を聞くと、目をぎらつかせる。
ーーーー意味のない暴力は、彼の変質者的な側面を満足させるためだけのものだった。ハインリッヒが直接女性に触れることはなかったけれど、彼にとっては暴力と悲鳴が、それの代わりだった。
本来なら邸宅の女主人であるはずの私も、その暴力とは無縁ではいられなかった。ハインリッヒは暴力に杖や火かき棒、時には馬用の鞭すら使うことがあった。
私や、邸宅で働く女性達が被害に遭っていても、他の人達は見て見ぬふりをした。悲鳴や助けを求める声すら、聞き流されてしまう。
ジャコブもその一人だ。彼はクロエのことは守ったけれど、私のことは守ってくれなかった。教えてくれることすらなかったのだ。
ジャコブは祖父の暴力の原因が何なのか、知っているはず。なのに暴力を受けた側に非があると責めることで、家門の体面を守ろうとしている。
メイドの中には、ハインリッヒの部屋に呼ばれたまま、行方不明になってしまった子もいるらしい。ーーーー死ぬまで殴られることはないだろう。そんな私の甘い考えも、その話を聞いて打ち砕かれた。
私にできることといえば、ハインリッヒが気に入らないことをしてしまったら、ひたすら謝りながら痛みに耐え、彼の怒りが静まることを祈ることだけだった。暴力は過酷で、鞭によって皮が剥がれて、背中は一生消えない傷で覆われることになった。
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