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 その夜も、私はショールを羽織ってアルムガルト邸の窓辺に立ち、藍色の夜空に光る蝶を放っていた。


 だけど今回、蝶の目的地は、ヴュートリッヒ邸じゃない。


 私は蝶を皇都の中心ーーーー皇宮へ向かわせていた。


 いつものように蝶の目を通して、脳裏に送られてくる映像を頼りに、私は飛ばす方向を決める。


(あの部屋ね)


 そして皇宮の、無数にある窓の一つに、ヨルグ殿下の姿を見つけた。


 ヨルグ殿下はまるで目印のように、出窓に腰かけ、夜空を見上げていた。


 今までは、ヴュートリッヒばかりを監視していた。ヨルグ殿下が戻ってくるまでは、ヴュートリッヒが政治の中心だったからだ。


 でも今後は、政治の台風の目になるのはヨルグ殿下だ。だから監視対象をヴュートリッヒから、ヨルグ殿下に移すことにした。


 ヨルグ殿下は平民のような服を着て、くつろいでいた。クリストフの話では、殿下は貴族らしいかっちりとした服を嫌い、動きやすい服を好むらしい。公的の場で、まわりが正装させても、すぐに着崩してしまうそうだ。


「殿下、寒いですから窓を閉めてください。風邪を引きますよ」


 補佐官らしき人物が、ヨルグ殿下に近づく。確か彼は、バスラーという名前の宮中伯で、ヨルグ殿下の補佐をしていたはずだ。


「北部で生きてきた俺が、このていどで風邪を引くとでも?」

「はいはい、そうでしたね。殿下は下手すれば、屋内でも凍傷を起こすような極寒の地に暮らしていたんですね・・・・」


 バスラー伯爵は、屋内で凍傷なんて信じられないとぶつくさ言いながら、書類の山をテーブルに置いた。


「明日もやることは山積みなんですから、早く寝てください」

「・・・・しかし、本当にすんなりと事が運んだな」


 バスラー伯爵の話を、ヨルグ殿下はまったく聞いていなかった。


「何の話です?」

「皇太子に選ばれたことだよ」

「・・・・ああ」


 ヨルグ殿下は、喜んでいるように見えなかった。皇太子になれたという実感を、当の本人が感じていないのだろうか。


「モルゲンレーテでは、絶対的な力で開国した皇祖は神に等しい存在ですからね。皇祖を崇めるあまり、皇都に巡礼に来る人までいるほどですよ」

「・・・・真偽がわからない伝説上の存在を、この国の連中が馬鹿みたいに崇めているのは、心底理解できないな」


 夜空を見上げながら、ヨルグ殿下は呟いた。


(皇祖の再来と呼ばれている本人が、それを言うの?)

 思わず、心の中でツッコミを入れてしまった。


 モルゲンレーテで皇子として生まれたわりには、ヨルグ殿下は皇祖にたいする関心が低く、熱狂する人々を冷めた目で見ているようだった。生まれは皇都だけれど、庶子に落とされて以降は、ずっと北部で過ごしてきたからだろうか。


「だけど殿下は、この国に根付いた皇祖信仰のおかげで、皇太子に選ばれたんですよ?」


 殿下の感慨に、バスラー伯爵は説教で水を差した。


「だから皮肉ったりせずに、素直に皇祖様に感謝すべきです」

「まあ、それには同意する」


 その意見には、ヨルグ殿下は言い返さなかった。バスラー伯爵のほうがその素直な反応を訝しんだのか、間の抜けた顔になる。


「どうしたんですか? 殿下が僕の意見に素直にうなずくなんて、本当に気持ち悪いですよ」

「喧嘩売ってんのか」


 バスラー伯爵は書類で頭をはたかれ、首をすくめる。


「・・・・この国に根付いた馬鹿げた信仰のおかげで、俺は皇太子になれた。それは認めるって言ってるんだよ。・・・・皇祖信仰がなかったら、七剣の力を見せつけても、皇太子になれなかったかもしれないからな」


 ヨルグ殿下はもう一度窓枠に座りなおして、腕を組む。


「ーーーーだからその信仰とやらを、この国の腐った根幹を潰すために、思う存分利用してやろうじゃないか」


 続く言葉は不穏だった。殿下の素直な反応に驚いていたバスラー伯爵も、眉をひそめている。


(・・・・不穏な言葉だ)

 そんな不穏な言葉を口にするヨルグ殿下の根底に、この国にたいする憎しみがあるように感じられて、背筋が寒くなった。


「・・・・殿下」

「なんだ?」

「即位したら、この国を滅ぼしたりしませんよね?」


 バスラー伯爵も、私と同じ不安を感じたようだった。

 ヨルグ殿下は、バスラー伯爵の言葉を鼻で笑う。


「滅ぼしてほしいのか?」

「まさか! その逆です」

「だったら安心しろ。俺は、穏健派を気取っているクソ親父が野放しにしてきた腐った連中を、徹底的に叩き潰したいだけだ」

「ちょっとやめてください! 陛下になんてことを・・・・誰かに聞かれたら、どうするつもりですか!?」


 殿下が陛下のことをクソ親父呼ばわりしたことに、バスラー伯爵は慌てふためいていたけれど、当の本人は平然としていた。皇国広しと言えども、陛下のことを、〝クソ〟呼ばわりするのは、ヨルグ殿下だけだろう。



「小心者だな。誰も聞いてないから、安心しーーーー」



 ヨルグ殿下の声が、まるで糸を切られたように、不自然に途切れる。


「どうしたんですか?」


 伯爵が殿下に近づき、顔を覗き込もうとする。


 でもその前に、ヨルグ殿下が腕を前に突き出す。


「喋るな。ーーーー誰かに聞かれてるようだ」


「え? 誰かに盗み聞きされてるってことですか!? そんな! 今の会話を暴露されたら・・・・!」


「心配するな。今の会話が外に漏れることはない」


 慌てふためく伯爵に、ヨルグ殿下は冷笑を返す。



「ーーーー盗み聞きをするような奴が、自分から悪事を暴露するはずがないからな」



 ヨルグ殿下が腕を動かすと、虚空に光る文字が浮かび上がった。



 ーーーー突如、私が飛ばした蝶は、雷のように天から降ってきた光の柱に貫かれていた。



「痛っ!」



 手の甲に痺れるような痛みが走って、思わず苦痛の声を上げてしまう。



 ーーーー蝶が送ってきた映像は、途切れていた。残ったのは、手の甲の激痛だけ。紋章はその痛みに抗議するように、光の強弱を繰り返している。



(気づかれた・・・・?)


 殿下の攻撃魔法に、ホワイトレディの蝶を粉微塵に打ち砕かれたのだと、少し遅れて理解した。驚きから、しばらくの間呆然としてしまう。


 ヨルグ殿下は、目の前に現れた蝶が、蝶に擬態した別の何かだと見抜いた。今まで誰にも見抜かれたことはないのに、彼だけには擬態が通じなかった。


(どうして? 同じ召喚術師だから、召喚術の気配に聡いの?)


 ひらひらと舞う蝶を見ただけで、蝶に擬態した別の何かだと、気づけるはずがない。ヨルグ殿下が気づいたのは、本能的に違和感を感じたからなのだろう。そうとしか考えられなかった。


 だとしたら、今後はヨルグ殿下のことを、ホワイトレディの力で監視できないことになる。


(これは本当に、手強い相手だわ)


 今まですべてのことを意のままに操ってきたアリアドナですら、ヨルグ殿下には手を焼いている。ーーーーあのアリアドナですら持て余しているような存在を、私達がうまく御しようなんて、甘い考えだったのだ。


 ディートマル陛下は皇帝という絶対的な地位にいながら、まわりの顔色をうかがい、穏健派という言葉を隠れ蓑に、貴族達に操られてきた。そのせいで政治においては、決断力を発揮することができなかった。だから逆に、強い皇族の復活という妄執もうしゅうに取りつかれたのかもしれない。


 ヨルグ殿下は、ディートマル陛下とは真逆の性質を持っている。ヨルグ殿下が皇位についたら、ディートマル陛下を操ってきた貴族達も、今までのように尊大にはふるまえないだろう。


(これが吉と出るか凶と出るのかはーーーー)



 ーーーー誰にもわからない。





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