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 それからも私は、ヨルグ殿下の部屋の灯りが消えることがないように、心がけた。


 監禁生活の中でも、できるだけヨルグ殿下が穏やかに過ごせるようにと、心を砕いていたら、いつの間にか殿下の脱走未遂の回数は減っていた。

 だけど残念ながらまだ、脱出を諦めたわけではないようだ。ただ、私達が危害を加えることはないということだけは信じてもらえたようで、以前のように何が何でも脱出しようとする動きはなくなっていた。

 私のほうは、ヨルグ殿下に朝夕の挨拶をしに行くたびに、変装のことをいじり倒されるので、ペストマスクは封印し、顔の上半分だけを隠すベネチアンマスクに替えてみた。ついでにウィッグも、本来の髪色に近い紫色のものと取り替えた。


「どうですか?」


 ヨルグ殿下に新しい変装姿を披露すると、殿下は値踏みするように、頭頂から爪先まで見下ろす。


「そっちのほうが似合ってるじゃないか」

「お褒めいただき、感謝します」

「別に褒めてないぞ。前よりはマシってだけで」

「・・・・そこは素直に、似合ってるだけでよくありませんか?」

「でもその仮面、簡単に外れそうだな」

「それならご心配には及びません。この仮面には魔法がかかっていますからね。解除の言葉を唱えないかぎり、外れることはありません」


 簡単に外れるような仮面では意味がないので、魔法がかかっている品物を購入した。暗証番号のように、決まった言葉を唱えないかぎり、顔からは外れないという便利な代物だ。


「そんな魔法道具まであるのかよ・・・・」

「殿下にも一つ、買ってきましょうか?」

「いらない」


 ヨルグ殿下と顔を合わせれば、そんな軽口を叩きながら過ごす日々が、数週間続いた。




 そんなある日、問題が起こった。



「・・・・!」


 夜になり、いつものようにヨルグ殿下の部屋に向かっていると、部屋の中から高い音が響いてきた。何かを落としたような音だった。


「どうしました!?」


 慌てて閂を開け、部屋の中に入る。



 目に飛びこんできたのは、苦しそうに喉を押さえてうずくまっている、ヨルグ殿下の姿だった。ひっくり返った食器が落ちていて、嘔吐の形跡があった。



「殿下!」


 慌てて駆け寄って、殿下の顔を覗きこむ。


 ヨルグ殿下は苦しそうに顔を歪め、喉をかきむしっていた。殿下の口からは、ひゅーひゅーと隙間風のような音が聞こえてくる。


(息ができないの?)


 嘔吐に呼吸困難、蕁麻疹のような症状が表れている。私は医者じゃないから病気にはくわしくないけれど、映画の中で、キャラクターが同じような症状に苦しんでいる場面を見たことがあった。


 ひっくり返った食器に目を向ける。内容物は、床に散らばっていた。


(もしかして、食物のアレルギー症状なの!?)


 毒の可能性はない。ヴュートリッヒの内通者がまぎれている可能性も考慮して、ヨルグ殿下に出す食事は毎回、ちゃんと毒見をしているからだ。



 ーーーーでももし食材の中に、ヨルグ殿下が重度のアレルギー症状を引き起こすものがまじっていたのだとしたら。





「な、何事ですか!?」


 遅れて部屋に入ってきたバルドゥールさんが、苦しんでいるヨルグ殿下を見て、目を見開いた。


「バルドゥールさん、ボールマンさんを呼んできてください! それから、薬も持ってきて!」


 隠家に常駐している医者の名前が、ボールマンさんだった。殿下の監禁が決まった日に、怪我や病気に対応してもらうため、大金を払って雇っていた。


「薬、ですか? どれを持ってくればーーーー」

「全部です!」

「わかりました!」


 バルドゥールさんの慌ただしい足音が、遠ざかっていく。


 とにかく、発作を抑える薬を飲まさなければならなかった。だけど医者の到着を、悠長に待っているわけにもいかない。


「ぜえ・・・・!」


 息ができない苦しさでパニックになっているのか、ヨルグ殿下は喉をかきむしり、喉はひっかき傷だらけになっていた。このままだと、自分をもっと傷つける恐れがある。


「腕を押さえるのを、みんな手伝って!」

「は、はい!」


 ヨルグ殿下の自傷行為を止めるため、私達は協力して、殿下を押さえつけようとした。

 でも、ヨルグ殿下は暴れることをやめなかった。


「うわあっ!」


 片腕の一振りで、ヴォルケのメンバーは弾き飛ばされてしまう。二人がかりで押さえつけていたのに、二人ともあっさり突き飛ばされてしまったのだ。

 ヨルグ殿下が怪力だと知っていたけれど、大人数人を片腕で吹き飛ばせるほどだとは思っていなかった。パニックになって、脳のリミッターが外れているのかもしれない。


「ヨルグ殿下、落ち着いてください!」


 私は殿下の腕にしがみついて、全体重をかける。


 でも、無駄だった。


「っ!」


 跳ね上がるように、後ろに動いた殿下のこぶしに、側頭部を殴られて、目の奥で火花が瞬いた。


 肩を壁にぶつけて、崩れ落ちる。それからつかの間、動けなかった。対応しなければと思っているのに、眩暈と耳鳴りがひどくて立ち上がれない。


「殿下! 落ち着いて!」


 ヴォルケのメンバーが取り押さえようと必死になっているのを見て、自分を取り戻すことができた。


 私はまた立ち上がって、殿下の腕に抱きつく。


「・・・・っ!」


 ヨルグ殿下の爪に引っかかれ、腕に、血の赤い線が走った。


「薬を持ってきました!」


 数人がかりで何とか押さえつけている間に、ボールマンさんが駆けつけてくれた。


「発作を抑える薬です! この薬を飲ませてください!」


 ボールマンさんから薬を受け取り、ヨルグ殿下の口の中に入れる。それから吐き出すことができないように、強引に顎を閉じた。喉の動きで、殿下が薬を飲みこんだことがわかった。


「ヨルグ殿下、落ち着いて、深呼吸をしてください」


 薬を飲んだからといって、すぐに発作が収まるわけじゃないから、苦しそうに息をする殿下に、話しかけ続ける。


 しばらくすると薬の効果が表れたのか、ヨルグ殿下の呼吸が落ち着きはじめた。


「症状が完全に収まるまでは、力を緩めないで」


 ヴォルケのメンバーに手足を押さえてもらっている間に、私はヨルグ殿下の後ろにまわる。そして殿下の身体にできるだけ負担をかけずにすむように、後ろから抱きかかえるような体勢で、彼の動きを封じた。



 しばらくすると、ヨルグ殿下の手足から力が抜けていく。重く沈んだ瞼も、完全に閉じてしまった。


 彼の口に耳を寄せ、呼吸音を確かめる。穏やかな寝息が聞こえた。


「もう、大丈夫みたい・・・・」


 それでようやく、私達は気を抜くことができた。



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