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寒蝉鳴(ひぐらしなく)
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ヒグラシの鳴く声がする。この時期にうるさいほど聞こえる虫の鳴き声のうち、ヒグラシの声を取り立てて美しいと感じる人間はそれなりにいるだろう、とチカは考える。
実際にチカもヒグラシの鳴き声は好きなほうだ。美しくもどこか物悲しさがあるその声を聞けば、記憶がないのに郷愁をかき立てられる。
チカ自身、どういう吹き回しかはわからなかったが、もっとヒグラシの鳴き声を聞いていたくなった。
窓に近づき、大きな出っ張りにランタンを置いて、空いているスペースに腰を掛ける。
窓に張りつけられた木の板の隙間から、夕暮れの少し涼しくなった風が吹き込んでくる。隙間を覗き込むと、鮮烈な夕日が目を焼かんばかりに飛び込んでくる。もうすぐ日が沈み、一日が終わる。そうするとなんだか気が急いてしまうのは、なぜだろう。
永遠にこの日々が続いて行くのがよいことなのか、悪いことなのか、思いを馳せる。永遠にこのまま。……果たして己の記憶はいったいいつになれば戻るのだろうか? チカは得体の知れない不安感に襲われる。
白い薄手のワンピースの下で汗ばんでいたはずの肌から、急に汗が引いたような気持ちになる。先ほどまで暑さを感じていたのに、なんだか手の先が冷たくなっていくような気がする。
「なにやってんだ」
呆れた声が廊下の向こう側からやってくる。景色の見えない窓へと向けていた目を、声のしたほうへと向ける。
確認するまでもない。声をかけてきたのはアマネだった。
日暮れを迎えて完全な闇に包まれつつある“城”の内部を、アマネが持つランタンの光が照らし出す。その明かりを見て、チカは無意識のうちにホッと息を吐いていた。
「アマネこそどうしたの?」
けれども先ほどまで感じていた、得体の知れない不安感や、根源の知れない郷愁を悟られたくなくて、チカの口からはついそっけない言葉が出てきてしまう。それでもアマネは気にした様子もなく、チカのそばへと歩み寄る。
「いつまでも帰ってこないから……」
アマネは若干言い淀んで、言葉を尻すぼみにする。
チカは常々、アマネは年長者に見えるのに、こういうところは反抗期の素直になれない弟みたいだなと思っていた。もちろん、そんなことを言えばアマネが怒りそうなので、絶対に言わないが。
言葉遣いも荒いし、素直ではないし、いつも仏頂面だし……けれどもこうしてチカのことを心配して捜してくれる。チカは、アマネのそういうところは素直に好ましいと感じていた。
しかしこうしてアマネがチカのことを心配してくれるのは、記憶を失う前のチカが遺してくれた、財産のように感じてしまう。それはひねくれた考え方だとはわかっている。けれどもいつまで経っても記憶が戻らない現状では、そんな風に考えてしまうことは多々あった。
素直に考えれば、記憶を失う前も、記憶を失ったあとも、チカはチカ。同じ人間なのだ。スワンプマンのごとき経緯もなく、同じ肉体で同じ魂で――ただ以前までの記憶がないだけ。
ワンピースの下で、汗が引いていく。チカは、急に己がどう思われているのか怖くなってきた。みんな、やっぱり記憶を取り戻して欲しいとは思っているだろう。そうして実際に記憶が戻れば、きっとなんでこんなにも思い悩んでいたのかすら、わからなくなるに違いなかった。
きっとそれは幸せな結末だ。けれどもその結末には、今のチカはいないような、そんな気がして――。
「なに考えてんだ?」
アマネの言葉にハッと我に返る。
「いや……記憶が戻ったら今の私ってどうなるのかなって考えてただけ」
「……どうなるもなにもねえだろ。多重人格とかじゃねえんだから」
「いや、まあそうなんだけどね」
チカは誤魔化すように乾いた笑いをこぼすことしかできない。
だがアマネはじっとチカを見ていた。見られているほうであるチカは、自然と居心地が悪くなる。
「忘れ去られるのが怖いなら」
アマネがみじろぎもせず言うので、チカは薄ら笑いを浮かべるのをやめた。
「おれが代わりに全部覚えておく。お前自身が忘れちまうようなことも、全部」
今度はチカがじっとアマネを見る番だった。
「それは……ムリじゃない?」
「あ?」
「いや、だって、色々なことはいつかは忘れちゃうものだよ。歳取ったりしたときとかさ。永遠なんてないんだし」
チカはなぜ自分でもこんな風にアマネの言うことを否定しようとしているのか、わからなかった。いつものチカだったら適当に愛想笑いをして、礼を言って終わらせただろう。アマネの言葉が思いやりから出ているだろうことはわかっていたから、なおさら。
けれども永遠など存在しないと思って、永遠を口にするのは不誠実だと思った。だからチカは、「ムリだ」と言った。チカは永遠を信じていないから、受け入れられなかった。
だけど、アマネは。
「お前より記憶力には自信がある」
「ええ~……」
「実際、お前は記憶喪失になったじゃねえか」
「いや、それとこれとは違うでしょ……?」
「また色んなこと忘れても、おれが教えてやる。……それでいいだろ」
なんだか力業で押されてしまった気がする。けれどもアマネのそういうところは、不思議とイヤではなかった。
アマネはチカのそばにいてくれるらしい。そしてまた記憶喪失になっても世話を焼いてやるということらしい。
アマネは、チカと違って永遠を信じているのだろう。信じられるのだろう。ずっとチカのそばにいられると。……それは少しうらやましかった。
「帰るぞ」
アマネが強引に話を切り上げて背を向けてしまった。
チカはあわててランタンを手に、アマネを追う。
やがて追いつき、アマネの隣に並んだ。
「……ありがとね」
チカがそう言うと、アマネは犬が唸るような、「ああ」とも「うん」ともとれるような、かすかな声を出して応えた。
実際にチカもヒグラシの鳴き声は好きなほうだ。美しくもどこか物悲しさがあるその声を聞けば、記憶がないのに郷愁をかき立てられる。
チカ自身、どういう吹き回しかはわからなかったが、もっとヒグラシの鳴き声を聞いていたくなった。
窓に近づき、大きな出っ張りにランタンを置いて、空いているスペースに腰を掛ける。
窓に張りつけられた木の板の隙間から、夕暮れの少し涼しくなった風が吹き込んでくる。隙間を覗き込むと、鮮烈な夕日が目を焼かんばかりに飛び込んでくる。もうすぐ日が沈み、一日が終わる。そうするとなんだか気が急いてしまうのは、なぜだろう。
永遠にこの日々が続いて行くのがよいことなのか、悪いことなのか、思いを馳せる。永遠にこのまま。……果たして己の記憶はいったいいつになれば戻るのだろうか? チカは得体の知れない不安感に襲われる。
白い薄手のワンピースの下で汗ばんでいたはずの肌から、急に汗が引いたような気持ちになる。先ほどまで暑さを感じていたのに、なんだか手の先が冷たくなっていくような気がする。
「なにやってんだ」
呆れた声が廊下の向こう側からやってくる。景色の見えない窓へと向けていた目を、声のしたほうへと向ける。
確認するまでもない。声をかけてきたのはアマネだった。
日暮れを迎えて完全な闇に包まれつつある“城”の内部を、アマネが持つランタンの光が照らし出す。その明かりを見て、チカは無意識のうちにホッと息を吐いていた。
「アマネこそどうしたの?」
けれども先ほどまで感じていた、得体の知れない不安感や、根源の知れない郷愁を悟られたくなくて、チカの口からはついそっけない言葉が出てきてしまう。それでもアマネは気にした様子もなく、チカのそばへと歩み寄る。
「いつまでも帰ってこないから……」
アマネは若干言い淀んで、言葉を尻すぼみにする。
チカは常々、アマネは年長者に見えるのに、こういうところは反抗期の素直になれない弟みたいだなと思っていた。もちろん、そんなことを言えばアマネが怒りそうなので、絶対に言わないが。
言葉遣いも荒いし、素直ではないし、いつも仏頂面だし……けれどもこうしてチカのことを心配して捜してくれる。チカは、アマネのそういうところは素直に好ましいと感じていた。
しかしこうしてアマネがチカのことを心配してくれるのは、記憶を失う前のチカが遺してくれた、財産のように感じてしまう。それはひねくれた考え方だとはわかっている。けれどもいつまで経っても記憶が戻らない現状では、そんな風に考えてしまうことは多々あった。
素直に考えれば、記憶を失う前も、記憶を失ったあとも、チカはチカ。同じ人間なのだ。スワンプマンのごとき経緯もなく、同じ肉体で同じ魂で――ただ以前までの記憶がないだけ。
ワンピースの下で、汗が引いていく。チカは、急に己がどう思われているのか怖くなってきた。みんな、やっぱり記憶を取り戻して欲しいとは思っているだろう。そうして実際に記憶が戻れば、きっとなんでこんなにも思い悩んでいたのかすら、わからなくなるに違いなかった。
きっとそれは幸せな結末だ。けれどもその結末には、今のチカはいないような、そんな気がして――。
「なに考えてんだ?」
アマネの言葉にハッと我に返る。
「いや……記憶が戻ったら今の私ってどうなるのかなって考えてただけ」
「……どうなるもなにもねえだろ。多重人格とかじゃねえんだから」
「いや、まあそうなんだけどね」
チカは誤魔化すように乾いた笑いをこぼすことしかできない。
だがアマネはじっとチカを見ていた。見られているほうであるチカは、自然と居心地が悪くなる。
「忘れ去られるのが怖いなら」
アマネがみじろぎもせず言うので、チカは薄ら笑いを浮かべるのをやめた。
「おれが代わりに全部覚えておく。お前自身が忘れちまうようなことも、全部」
今度はチカがじっとアマネを見る番だった。
「それは……ムリじゃない?」
「あ?」
「いや、だって、色々なことはいつかは忘れちゃうものだよ。歳取ったりしたときとかさ。永遠なんてないんだし」
チカはなぜ自分でもこんな風にアマネの言うことを否定しようとしているのか、わからなかった。いつものチカだったら適当に愛想笑いをして、礼を言って終わらせただろう。アマネの言葉が思いやりから出ているだろうことはわかっていたから、なおさら。
けれども永遠など存在しないと思って、永遠を口にするのは不誠実だと思った。だからチカは、「ムリだ」と言った。チカは永遠を信じていないから、受け入れられなかった。
だけど、アマネは。
「お前より記憶力には自信がある」
「ええ~……」
「実際、お前は記憶喪失になったじゃねえか」
「いや、それとこれとは違うでしょ……?」
「また色んなこと忘れても、おれが教えてやる。……それでいいだろ」
なんだか力業で押されてしまった気がする。けれどもアマネのそういうところは、不思議とイヤではなかった。
アマネはチカのそばにいてくれるらしい。そしてまた記憶喪失になっても世話を焼いてやるということらしい。
アマネは、チカと違って永遠を信じているのだろう。信じられるのだろう。ずっとチカのそばにいられると。……それは少しうらやましかった。
「帰るぞ」
アマネが強引に話を切り上げて背を向けてしまった。
チカはあわててランタンを手に、アマネを追う。
やがて追いつき、アマネの隣に並んだ。
「……ありがとね」
チカがそう言うと、アマネは犬が唸るような、「ああ」とも「うん」ともとれるような、かすかな声を出して応えた。
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