バケモノ王子とその先生

やなぎ怜

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 その夜は、久しぶりに悪夢ではない夢を見た。しかし、他愛ない夢だ。先生が出てきて、ただ他愛ないおしゃべりをするだけの。

 目が覚めればじっとりと全身に汗をかいていた。覚醒と同時に、じんわりと全身に熱い血が巡って行くような感覚がある。

 鎧戸の隙間からは鬱陶しくない朝の陽光が部屋へと差し込んでいる。日光を鬱陶しく思うようになったのは、いつからだろうか? 俺の私室は昼間でも両開きの鎧戸の片側は閉め切っている。

 俺の眠りは浅く、何度も何度も覚醒してはまた無理に夢へと落ちて行く。そしてめまぐるしく展開する夢は、いつだっていいものではなかった。

 他愛ない夢を見るのは久しぶりだった。不快な感覚を引きずらないままに起床したのは、いつぶりだろうか?

 先生が――俺のもとへとやってきたから?

 馬鹿馬鹿しく、短絡的でひどく単純な結論だ。そんなものは偶然に過ぎない。

 先生は確かにどこか浮世離れしたところがある。俺たちにはできないことをさらりとやってのける。そういう超越的で超然とした雰囲気があり、実際にそうだった。

 だからと言って俺の精神を今すぐに改善させるなどということが、先生にできるはずもない。ましてや夢に干渉するなどということは。

 それでも先生との夢は俺を幾ばくか冷静にした。

 昨日の時点で先生に酷い言葉を投げかけて、ことさら傷つけるような素振りで脅しつけた自覚はあった。けれども先生はそれに不快そうな顔をすることはなかった。その事実が、俺の心に重くのしかかる。

「しばらく、ここにいてもいいか」と先生は言った。ということはまだこの屋敷のどこかにいるのだろうか? 「勝手にしろ」と俺が言ったのだから、先生は本当に勝手にしてしまうだろう。

 言葉の裏を探ることなく額面通りに受け取る。先生はそういうところがある。他人の機微がわからないわけではないのだが……。

 のろのろと無駄に広く冷たいベッドから起き出して、鎧戸を片側だけ開く。差し込んだ陽光の中で、きらきらと埃が舞っている。この屋敷のどこかに先生がいると考えると、掃除をしていないことに対して急な後悔を覚える。

「勝手にしろ」。俺が放ったぶっきらぼうな言葉が、何度も脳裏で繰り返される。

 己に失望し、後悔を覚えるのはもう何度目かわからなかった。人は生きて行く内でそうやって我が身を振り返り後悔することは、きっと一度はあるだろう。けれども俺のそれは、だれよりも多い自信があった。

 敵の抵抗が思いのほか激しく、ギャスパルの救援が遅れたとき……撤退する本陣の殿しんがりを務めたウジェニーの体が大砲に貫かれて崖下へと落ちて行ったとき……。数えきれないほどの後悔が、どっと俺の胸に押し寄せる。

 気がつけば俺はまた涙を流していた。しかしその涙はなんなのだろう? 喪われた仲間たちを思って泣いているのか……ただひとり残ってしまったバケモノの自分を哀れんでいるのか。

 涙などもう流したくもないのに、俺の双眸からはハラハラと涙が流れ、頬を濡らして行く。

 このままではまぶたがまた腫れてしまう。先生にそんなところは見られたくなくて、海嘯かいしょうのように押し寄せる後悔を、俺は胸の奥深くに押し込めた。それは刺さったトゲを深く突き刺すような行為だと、半ば理解しながら。

「おはようジル」

 私室から隅に埃が溜まった廊下へと出れば、すぐに先生とかち合った。……もしかして、俺が出てくるのを待っていたのだろうか? 定かではないが、先生と朝から顔を合わせるのは久しぶりで、なんだか昔へとまた気持ちが戻されそうになる。

 ああ、そういえばまだ顔を洗っていない。寝汗をかいた無頓着な服のまま、外にある井戸へと向かおうとしていたのだ。

「……おはよう。先生」

 思ったよりも苦しそうな声が出て、こちらが動揺してしまう。

「先生」。そう呼びかけることの懐かしさに、胸が潰れてしまいそうだった。

 先生はそんな俺をまた水晶のような瞳で見つめるばかりだ。その目は俺のなにもかもを見透かして、丸裸にしてしまってもおかしくない、妖力のようなものが感じられた。

「顔を洗いに行くのか?」
「……ああ」
「それじゃあ身支度を終えたら朝食にしよう」
「先生……」
「ん?」
「昨夜は、どこに……」

 先生の目を――戦争が始まる前……あの日からずっと変わらない、先生の目を見ていられなくて、俺は自然と視線をそらしてしまう。

 そうして次に口にしたのは、当然の疑問だった。

 この屋敷にも当たり前だが客室はある。あるが、もういつから掃除をしてないのか覚えていない。俺が離れに使用人たちを追いやってからだから……。もう、思い出せないくらい長いこと掃除がされていないのは確実だ。

 そんなところで、先生は寝たのだろうか? そう思うと急に恥ずかしさが湧いてくる。

「ああ」と先生は今気がついたとでも言わんばかりの、なんてことないというような態度で答える。

「客室の場所がわからなかったから、離れに聞きに行って、そこに泊まった。……駄目だったか?」

 先生の言葉は端的すぎて色々と情報が抜け落ちているのだろうな、ということをうかがわせた。

 まだこの地に残ってくれている使用人は、いずれもバケモノになる前の俺を知っている古参ばかりだ。だからこそ俺の身を哀れんで、冷遇されているというのにまだついていてくれる。

 急に己がしている仕打ちの子供っぽさに気づいて、俺はまた恥ずかしい気持ちになった。一度、詫びを入れるべきだろう。それであっさりと許されるとは思わないが……。

「使用人たちは……なにか言っていたか?」

 ソワソワとその場にじっとしていられない気分に襲われて、俺は目を泳がせる。

 しかしそのあいだも、先生はじっと俺を見ていた。じっと、視線をそらすことなくその美しい瞳に俺の姿を映し続けている。

「特に、なにも」
「そうか……」

 先生が嘘を言っているとは思えなかった。否、思いたくなかったのかもしれない。先生だけは綺麗なまま、清廉潔白なままなのだと、俺は思いたかったのかもしれない。

 翻って俺は、あまりにも汚れすぎた。前線に立ち、敵兵をほふり、その血肉を身に浴びすぎて、おかしくなってしまった。

 戦争へ行っておかしくなってしまったのは、俺だけではないらしい。極限の非現実は人の心を壊す。俺も壊れた。

 けれども戦争へ行かなかった人間は……いや、それどころか、同じ戦争へ行った人間ですら、心を壊した者を白眼視する。

 俺はそれが見ていられなくて……いや、もしかしたら俺は俺のために、そういった人々を哀れんでいるのかもしれない。死んで行った仲間たちを悼むように、戦争へ行って勇敢に戦って、そして心を壊していった者たちを哀れんでいるのかもしれない。

 いずれにせよ、俺が公爵領で得た収入をそういった帰還兵たちの支援に充てていることは、他人の嘲笑を生んでいる。心を壊した者は、もともと心の弱い者なのだと、そう言いたげに。

 ああそうだ。俺は心が弱い者なのだ。けれども、俺以外の心を壊してしまった従軍兵たちが、心が弱かったなどと嘲ることはできなかった。否、それどころかそのような嘲りを口にする輩に対し、怒りさえ覚える。

 ……先生はどう思うだろう? 先生も、同じように俺と怒ってくれるだろうか?

 親の顔色をうかがう幼子のような心境で、俺は先生の顔を見た。先生が怒ったところは、見たことがなかった。先生はいつだって冷静に、問題点を指摘するときはこちらがおどろくほど淡々と告げてきた。それを聞き入れない馬鹿は俺たちの中にはいなかったので、だから、先生が本気で怒ったところは見たことがなかった。

 先生が怒るとすれば、それはどんなときだろう? 俺はしばし夢想するが、さっぱり思いつかなかった。

「ああそうだ。朝食は私が運ぶ。……だから顔を洗いに行くかどうか聞いたんだった」
「……なぜ?」
「体調を崩したと言っていた。一宿の恩があるし、私が朝食を運ぶことになった」

 直感的に、使用人は嘘をついているのではないかと思った。俺が、先生と話す時間を与えたい。それで、なにかが変われば。……そんな切実な願いのようなものを敏感に察知して、俺はいたたまれない気持ちになった。

 不思議と腹立たしくはなかった。単純に先生といっしょにいられるのを――うれしく思う自分に気づいたし、気を回してくれる使用人に対しては、申し訳なさが勝った。

「それで、朝食を一緒にしてもいいかと聞きにきたんだ」
「それくらい……好きにすればいい」
「ありがとう」

 先生はにこりとも微笑まずに淡々と礼を言う。……礼を言うべきなのは、多分俺の方だろう。

 けれどもまるで思春期の子供のような気恥ずかしさが先だって、どうしても口からその言葉が出てこない。

「先生……」
「どうした」
「その……」

 去ろうとする気配がしたので、俺は思わず先生を呼び止める。

 先生はやはりあの日からずっと変わらない目で、俺を見ていた。

「昨日は……すまないことをした」
「昨日?」
「その……乱暴に扱って、暴言を吐いた。本当にすまない。先生が悪いなどと、思ってもいないことを言った……」
「ああ」

 先生は一度瞬きをして、そしてまた俺を見た。

「別に気にしていない」
「そうか……」

 そう言われてしまうと、「そうか」としか言いようがなかった。

 気持ちとしてはまだ謝罪を重ねたかったが、しかし鬱陶しいだろうという理性も働く。……先生はたとえ鬱陶しくてもそんなことをおくびにも出さないだろうが。

「ジルのことは……それなりに知っているつもりだ」
「俺のことを?」
「ああ。……私はお前の『先生』だからな」

 先生の……いつも覇気を感じられない声は、そのときばかりはどこか誇らしげに響いて。

 ああこの人はいつまでも俺の「先生」なのだなと、妙に納得を覚えたのだった。
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