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「今日からお前はわたしの性奴隷だ」

 ウィルフの前に現れた青年はそう言い放った。


 その日は朝から空気が張り詰めていた。剣闘奴隷であるウィルフには関係のないこと、と言いたいところであるが、主人の気分で折檻という名の単なる八つ当たりを受けることもある奴隷の身分。邸にただよう不穏当な空気にはどうしても敏感になってしまう。

 ウィルフの主人である明らかな肥満体の男は、玄関先で苛立たしげに輪を描いて歩きまわっていた。強張った顔からわかるのはこれから彼にとって望まざる客人が来るということだ。

 白い大理石を靴のかかとが踏む音が吹き抜けに反響してウィルフの耳まで届く。

 ウィルフは主人に命じられて玄関ホールへと続く階段の上にいた。なぜ、そうしなければならないのか問うほどウィルフはにぶくはない。これから来る、主人にとって好ましからざる客人が、彼に不適当な態度を取ったときにウィルフに「仕事」をさせるためである。要は「脅し」だ。

 ウィルフにとっては喜ばしいとは到底言いがたい仕事である。なぜならこういう風に主人が強気に出る相手は、大抵彼よりも劣った人間だからである。――つまり、権力やら体格やらがこのふてぶてしい主人よりも控えめな相手。そんな人間を脅すのは通念的に考えてためらうのが普通であろう。

 ウィルフは一度腰に佩いたやや短い両刃剣を確認する。剣闘奴隷であるから、つるぎを振るうことにウィルフはためらいがない。「これ」でどうにか今日まで生きて来れたのだ。ウィルフにとって剣は大事な相棒であり、それと同時に剣闘奴隷という地位をまざまざと感じさせる好ましからざる道具でもあった。

 馬のいななきが聞こえ、表に馬車の止まる音がした。邸にやって来たのはおよそ荒事や悪徳とは縁遠く見える、美しい青年だった。

 太陽光を受けて輝く長い銀色の髪を後ろで結い上げて背に流し、素肌の見えない詰襟に長袖の長衣を身にまとう立ち姿は禁欲的に見える。黒い手袋の布越しにもわかるほど、その指はほっそりとしていて華奢だ。ローブを羽織っているが、痩身とわかる体は、しかしみすぼらしさからはほど遠く、繊細な美しさを見る者に印象づける。

 ウィルフは彼を見たとき、目を奪われ、しばしのあいだ呼吸をするのも忘れた。この世にはかように美しい人間がいるのだと、その心は驚きで満たされる。青年は一見すれば凛とした面立ちの女性とも見まごう容姿であるが、不思議と女々しさは感じられなかった。

 ウィルフはこれまでに主人について奴隷市場で様々な奴隷を見て来たが、その中のどんな奴隷よりも彼は優れた容姿をしていた。

 こんな、汚濁とは無縁そうな青年が、主人とどのような関係にあるのだろう。にわかにウィルフはこの客人への興味に駆られる。

 しかし仕事をせねばあとに待つのは主人の折檻である。ウィルフは黒豹を思わせる緩慢な動作で主人の元へと向かう。

 青年はウィルフは近づいても決して彼を見ようとはしなかった。ウィルフはそれを残念に思う。少しでもこちらを見てくれれば、その造作の良い白皙の顔に収まる双眸が見られたのに、と。

「期日は過ぎましたぞ」
「しかし、ですな……近頃は商売もとんと良くなく……」

 主人と青年の会話に耳を傾ければ、どうやら金の貸し借りで揉めているらしいことがわかった。青年はちょっとすれば人形にも思える硬質な顔つきでウィルフの主人に金の返済を求めている。それに対し主人はあの手この手で期日を引き延ばそうとしているのがわかった。

 主人は店の丁稚やらを持ち出して養わなければいけない人間がいるなどとのたまうが、ウィルフは主人が彼らを安い賃金で酷使していることを知っているし、店で働く者の大半が無賃で働かされている奴隷であった。

 ウィルフは近頃の主人の羽振りが良くないことを知っている。それというのも剣闘のみならず他の賭け闘技にも手を出したからであった。知り合いの口車に乗せられてやけどしたのである。そのしわよせは剣闘奴隷であるウィルフにわかりやすい形で来たから、教養のない彼でも主人の財政状況を察することができたのであった。

「これ以上は待てない」

 青年は芯の通った声で主人の言葉を跳ねのけた。媚びた笑みを浮かべる主人の顔がやにわに歪む。そして目でウィルフを呼びつけた。ああ、この麗人を脅しかけなければならないのだ、と思うとウィルフは暗澹たる気分になった。

 だがウィルフが青年に近づくよりも先に、彼がその形の良い唇を開いた。

「代わりに、この奴隷を貰い受ける」

 その言にウィルフはわずかに目を瞠った。驚いたのは主人も同じである。否、驚きと同時に彼は慌てた。なにせ、剣闘奴隷であるウィルフは焦げついた借財をどうにかできる金の鳥である。それを寄越せというのは主人には到底看過できない発言であった。

「……剣闘に出すおつもりですかな?」

 主人は言葉を選んで青年にそう問うた。その言葉の裏では剣闘に出すならばあらゆる人脈を使って潰そうという魂胆が渦巻いていることは、わざわざ言わずともウィルフにも理解できる。

 青年は相変わらず無防備な背をウィルフに向けたままであった。よほど肝が据わっているのが、あるいは底抜けのお人好しなのか、ウィルフには判断がつかない。だが視線がこちらを向いていないのをいいことに、ウィルフは主人の視線に命じられるがまま、腰の剣に手をかけた。

「いいえ、剣闘には出しません。そのような趣味はありませんのでね」
「……では、いかがいたすつもりで? そこな奴隷は剣闘以外に才はありませぬが」
「性奴隷にします」

 耳触りの良い声で青年はそう言い放った。その言葉にウィルフは一瞬だけ動きを止めると同時に、深い失望を味わう。いくら見目に優れた人間と言えども、その性根まで美しいわけではないのだと、当たり前のことにウィルフは思い至ったのだ。

「しかし……ですなあ。奴隷と言えどもわたくしめの家族! そのような真似をさせるわけには……」

 主人の物言いにウィルフは失笑するところであった。奴隷も家族などと、そのように殊勝なことをこの男が思っているはずもない。ウィルフには身にしみてわかっていた。

 性奴隷に、などと言われてもウィルフは動じない。なぜなら今までにもそのような真似をさせられたことがあったからだ。

 闘技場でウィルフに気を引かれたというご婦人に一晩いくらでウィルフは売られたことがある。あまり思い出したくない出来ごとではあるが、そういうことはちょくちょくあるのだ。

 だから、今さら性奴隷になどと言われてもウィルフにとってはどうという話ではなかった。

 主人と青年の話は平行線を辿る。

「わたくしめにも商いがありましてな……失礼ながら今日は一度お引き取りに……」
「ならばそこの奴隷を渡してくだされ」
「いいや、それは――」

 主人が青年の肩越しにウィルフへ視線を送る。「やれ」の合図だ。ウィルフは気乗りはしないながらも逆らうなどできようはずもなく、仕方なく指をひっかけていた剣の柄を握る。腰の帯から引き抜こうとしたさなか、一陣の風が邸の中を吹き荒れた。

 ウィルフは風が撫ぜた右の手指へと思わず視線を落とす。人差し指と親指、そして手の甲の皮膚に赤い線が走り、そこから血しぶきが散った。次いでじわじわと痛痒いような感覚が手から腕へと這い上がって来る。

 ふと顔を上げれば青年の挟んで向こう側に立つ主人の、脂肪を蓄えた頬にも赤い線が走っている。ウィルフと同じく風が撫ぜて行ったのだろう。

 風は他に青年の長衣とローブの裾を巻き上げたが、しかし彼だけは傷をつけなかった。

 沈黙が場を支配する。ウィルフはややあって風の正体を理解した。これは青年が起こした魔法なのだろう。そうでなければ説明がつかない。

 であれば、これは「脅し」であろう。主人とウィルフがそのカードを切るよりも先に、この青年は場に出したのである。

 青年は長衣の裾を翻し、ウィルフに向き直る。その秀麗な顔に収まったふたつの瞳がウィルフを映し出す。それはどこまで深い青だった。空の青よりも濃く、鮮やかな青がウィルフに向けられる。銀のまつ毛をしばたたかせ、青年はウィルフに向かって宣言する。

「今日からお前はわたしの性奴隷だ」


 結局、ウィルフの主人――いや、今や「元」主人は魔法まで使った青年を前にして折れた。

 その後の商談は青年が主導ではあったものの、ウィルフが聞いても妥当な位置に落とし込まれた。ウィルフの所有権は青年に移り、その分だけ借金の額を帳消しにするという内容だ。

 もう二度とこの邸に帰ることはないのだと思うと不思議な感慨がウィルフを支配した。それは喜びでもなく、落胆でもない。形容しがたい感情であった。

 剣闘奴隷として名の知れたウィルフを手放すことに元主人は難色を示したものの、青年の魔法を前にした手前、騒ぎ立てることはしなかった。それでも最後まで名残惜しそうな視線をウィルフにはやっていたのだが。

 かくしてウィルフは人生の大半を過ごした邸を離れ、青年の家へと向かうことになったのである。


 青年の名はトレイシーと言う。城下町の大通りから外れた、狭い小路の先にトレイシーの家はあった。周囲は五階六階の背の高いアパートがぎっしりと詰まって並んでいる、雑多な印象を受ける場所である。

 このごちゃごちゃとした通りの中でトレイシーの家は浮いていた。周囲を固めるアパート群が土煉瓦で出来ているのに対し、彼の家は石造りのものである。はた目には周りの建造物と大差はないが、近づいて見ればその差は歴然としていた。その造りからして、トレイシーの暮らしぶりは場所とたがってそれなりのものであることがうかがえる。

 トレイシーの家の中は通りと同じく用途不明の物品で溢れ返った、雑多なものであった。ウィルフが不思議そうに見ているのに気づいたのか、トレイシーは説明をしてやる。が、それらが仕事で使うものというのがわかったくらいで、やはり学のないウィルフにはなにがなんだかわからないままであった。

「部屋はあとであげる」

 ウィルフの元主人と相対したときよりかは、幾分か気やすさを感じさせる口調でトレイシーは言う。その言葉に少しの申し訳なさが感じられてウィルフは首をひねった。奴隷を隔離するための部屋は必要であろうが、それを用意できなかったからといってトレイシーが申し訳なさそうな態度を取る必要はない。トレイシーがそうする理由がわからず、ウィルフはやはり首をかしげた。

 ウィルフにとっての当面の問題は部屋でも食べ物でもなく、トレイシーの発言である。彼はウィルフに向かって「性奴隷にする」と言い放ったのだ。

「あの、ご主人様……」

 トレイシーがひと通り邸の説明を終えたところで、ウィルフはおずおずと声を出す。トレイシーの顔はやはり人形めいた無機質さを感じさせるものであったが、不思議とウィルフは恐れや不快感を得ることはなかった。やはりその両目に収まった青い瞳のおかげであろう。

 トレイシーの双眸は、ともすれば食い入るように見つめていたいと思うほどに美しかった。今までに見たどんな宝石よりも鮮やかな青がウィルフの心をつかんで離さない。その青とトレイシーの人形のような硬質な顔はとてもよく似合っている。まるでだれかがあつらえたかのようにぴったりなのだ。

 ウィルフはトレイシーが発言を許してくれるまで、暇に飽かせて彼の顔を見つめていた。瞳の色だけでなく、その髪も芸術品のように美しい。窓から入り込む陽光を受けてトレイシーの髪はきらきらと輝く。触れてみたい、と思ってウィルフはあわててその不敬な考えを振り払った。

 しかし、いつまで経ってもトレイシーから返事はない。ウィルフは不思議に思って「あの」と声をかける。だがトレイシーはトレイシーで不思議そうな顔をしてウィルフを見返すのみだ。

「どうした?」
「あの、発言してもよろしいので……?」

 ウィルフの言葉にトレイシーは納得が行ったように目を伏せ、「ああ」と言った。

「わたしの言葉を待っていたの」
「はい」
「すまないな。奴隷というのを持つのは初めてなんだ」

 ウィルフは少しだけおどろいた。トレイシーの暮らし向きを見れば奴隷のひとりやふたりくらいいてもおかしくはなかったからだ。邸を案内されたときに奴隷の姿が見られなかったのは、用向きがあって不在だと思っていたくらいである。トレイシーの言葉はウィルフにとっては虚を突かれるものであった。

 トレイシーは先に「性奴隷」という言葉を口にしたから、当然別の奴隷がいるのだと思い込んでいたこともある。わざわざ「性奴隷」などと口にするのであるから、それ以外の用途の奴隷がいると思うのが自然であった。

 どうにも調子を狂わされるお方だとウィルフは思う。精緻な印象を受ける容姿とは裏腹に、トレイシーは案外大雑把な性格なのかもしれない。

「私は男の相手はしたことがありません」
「そうか」
「はい」
「…………」
「…………」

 トレイシーはウィルフの言葉をさらりと流してしまった。これにはウィルフの方が所在なくそわそわとしてしまう。

 ウィルフは女の相手はしたことがあるものの、男の相手はしたことがなかった。だからそれで粗相をしてしまうかもしれない、と先に申告したのであるが、存外重く受け止められることもなく、かといってその件についてなにか言われることもなかったので、内心では落ち着かない気持ちであった。
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