きみの人生を買ったなら。

やなぎ怜

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 ジジは、エイトに買い取られてからほどなくして人間化手術を受けた。その金は当たり前だが全額エイトの懐から出ている。ジジは無一文だから、無い袖は振れない。

 ジジを人間にするのは、軍からジジを買い取る際の条件だったとエイトは言う。ジジは戦うために――外世界の化け物を殺すために造り出された人形兵。そんな人形兵を、そのまま市井に放つことはできない。

 少し考えれば当たり前のことも、ジジはエイトに教えられるまで想像したことすらなかった。

 手術を受けたことで、ジジは見た目通りの「人間」になった。すなわち、実年齢こそ一〇には満たないものの、女子中学生ていどの外見の通りに、非力な少女に生まれ変わったのだった。

「これからはどこにでも行けるな」

 ジジは人間になったが、それですぐジジ自身がなにもかも変われたわけではない。相変わらず、ジジはエイトの言葉に含まれた感情を読み取れないことも多い。

 それでもなお、エイトはジジが「人間」になれたことを喜んでいることは、かろうじて汲み取ることができた。

 ただ、その理由まではジジにはわからなかった。


 流されるままにジジはエイトに買い取られて、「人間」になって、それから彼とふたり暮らしを始めた。

 とは言えども世に言うルームシェアリングとは違い、ジジは完全にエイトの世話になっている居候だった。

 ジジはエイトから与えられた名前のままに戸籍を得たが、すぐさま人間社会に適応できるほどの柔軟性はとうてい持ち合わせていなかった。

 ジジは戦うために、殺すために生まれてきて、そして終戦までは――エイトに買い取られるまではそれらをこなすだけでよかった。ゆえに、いかにジジが完璧な人間化手術を受けたとしても、人間社会に馴染める土台はまだできていない状態なのである。

「ジジがどこかで働きたいと思えたら、そのときにチャレンジしてみればいいんだよ。……まあ、いつまでもこの家にいてもいいんだけどね」

 掃除機の動かし方、洗濯機の動かし方、洗濯物の取り扱い方、簡便な料理の作り方……。ジジはエイトから家事はひと通り教わったものの、この家の外に広がる社会に出て行って、己が不足なく働けているビジョンを思い描くことはできなかった。

 エイトに一教われば、己が知らない世界がそこから一〇は広がる気持ちだった。

 エイトは冗談めかした口調で、「いつまでもこの家にいればいい」とは言う。

 ジジは外に、無限と言えるほどに広がる人間社会とかかわり合いを持ちたいとは思わなかった。より正確を喫するのであれば、人間社会に適応したいのかしたくないのかさえ、ジジはまだわからないのだった。


 一方、エイトは軍を除隊したが、彼が再就職したのはいわゆる民間軍事会社だった。除隊をしても、結局エイトは銃を手にする職場を選んだのだった。

 「給料がいいから」とエイトは微笑んで言った。「学歴はないけど軍歴はあるし」と言うエイトの生い立ちをジジは知らない。ただ、エイトの口から家族の話が出たことはなかった。

 ジジは、初めて「不安」という感情をうっすらとながら抱いた。エイトが危険な戦場へと出ることになっても、もうジジは彼を守れない。おまけにもしもかばって、人形兵だったときのように手脚が吹き飛べば、人間になったジジは死んでしまうだろう。

 けれどもジジはその感情を言語化できるほどの語彙を持ち合わせていなかった。

 エイトとて、戦時中はジジにおんぶにだっこだったわけじゃない。冷静に、そしてときに勇敢に化け物と渡り合ったのだ。

 けれども戦場において絶対はなく、イレギュラーはつきものである。ジジはそれを飽きるほどに見てきて、嫌というほどに知っている。

 しかしやはり、ジジはその胸中に芽生えた感情を、言葉としてエイトに伝えることはできなかった。

 たとえるなら、それは痛みに変わる前のかゆみのようで、「不安」という感情を明確に意識する前段階にあった。だからジジはそれを上手く言葉にできなかった。

 エイトが会社から帰宅してその姿をジジが認めるまで、ジジの中では落ち着かない気持ちが波打つのだった。


 エイトは忙しくても「忙しい」とは言わないし、疲れている様子でも「疲れた」とは言わない。ジジは、そのことを徐々に悟りだした。毎日を共に過ごしているのだから、自然とそういうことはわかってくる。人間になって日が浅いジジであっても、ささいな変化にも気づく。

 けれどもジジは、そういうときにどういう態度を取るのが正解なのか、わからなかった。より正確には、どんな態度を取ればエイトの気分を損ねないでいられるのかが、わからなかった。

 誤解のないように言えば、エイトがジジに対し八つ当たり的な態度を取ったことはない。不機嫌な顔をしたり、そんな空気を作ることもしない。ジジが失敗しても、頭ごなしに叱りつけたりはしない。

 エイトはどこまでも、ジジには砂糖菓子のように甘い。そして同時に、シュガーコーティングのように耳障りのよい、装飾された言葉しか口にはしない。

 甘く慮るエイトの言葉は、ジジにはときに居心地が悪いような、くすぐったいような、じれったいような……そんなかゆみを伴う。

 同時に、線を引かれているということにも、ジジはうっすら気づき始めた。

 エイトはジジを色んなところに連れて行って、色んなものを買ってくれたが、そんな彼と親しい間柄であるのかジジにはよくわからなかった。

 エイトはジジに甘くて、けれども紳士的で、どこかで決定的に線を引いている。それはジジを尊重しているということなのだろう。けれどもジジはどこかで、物足りなさのようなものを感じずにはいられなかった。

 そしてなぜそんな感情を己が抱くのか、ジジにはまだわからなかった。

「日曜日はリニューアルオープンする水族館に行こう」

 いつものようにエイトはそう提案する。ジジはそれにうなずきで応える。エイトはここのところ、毎週末ジジをどこかしらへ連れ出してくれている。先週は大きなショッピングモール、先々週はちょっと遠出して植物園……。そんな調子で、ジジはエイトの手で色んなものを初めて見聞きしている。

 そんな、いつも通りの週末がやってくる。

 ジジはそう思っていたが、その日エイトは家に帰ってはこなかった。
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