孕む月、病む夜

やなぎ怜

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円月みづき更嗣のぶつぐになるんだよ」

 そう言われて育てられたことに、円月は長いあいだ疑問を抱いたことがなかった。

 円月と更嗣は一卵性双生児の兄弟である。村の庄屋しょうやの家系に生まれたふたりは、村の中でも一等立派な屋敷で育てられた。

ってなあに?」
「お父さんとお母さんになるということよ」

 幼い円月は的外れな祖母の言葉を信じ込み、それは双子の弟の更嗣も同様であった。

 屋敷の奥座敷で日中のほとんどを過ごして育ったふたりは、父と母という概念は知っていたが、その存在が自身の前に現れないことへ疑念を抱いたことはなかった。

 片割れ以外の家族といえば祖母と祖父だけで、もっぱら会話をするのは祖母だけだ。祖父は食事の膳が並べられるときだけ姿を現すが、ことさらふたりの孫へ興味を向けたりはしない。祖母もふたりと会話はするものの、それは義務感からしているようであると気づくのは、円月がもう少し大きくなってからの話であった。

 けれども幼いうちは円月の周囲はつつがなく平穏であった。妙に寒々しい屋敷も、情に薄い祖父も、真の意味で孫を見ているわけではない祖母も、円月には気にならなかった。

 円月には更嗣がいる。自分と寸分違わぬ容姿の、血を分けた双子の弟。幼いころの円月はただ、奥座敷でこのまったく同じ顔の弟と遊びほうけてさえいれば良かったのである。

 そのころはの本当の意味も知らなかった。

 けれど長じればそうもいかなくなる。

「どうしてぼくだけ学校に行かなきゃいけないの?」
「そういうふうに決まっているのよ」
「円月は?」
「あの子は行かなくていいの」
「どうして?」
「どうしてもよ。そういう決まりなの」

 兄といっしょでなければいやだと駄々をこねる更嗣をはじめは根気よく諭そうとしていた祖母も、彼の頑なな態度に呆れたのか、ついにそのまろい頬に手を上げた。皮膚を張る乾いた音が響き渡り、更嗣と円月は呆気に取られる。

 ことさらわがままを言ったことはなかったが、それでもほとんどの願いを叶えられてきたふたりは、この世には自分たちではどうしようもないことがあるのだと、遅まきながら知ったのである。

「ねえ、なんで円月といっしょじゃないの……?」

 祖母の前では矛の先を収めた更嗣も、しかし変わらず納得は行っていないものだから、そうして寝間でぐずぐずと目を潤ませる。納得が行かぬのは円月も同様であったが、祖母が決めたことには逆らえぬのもまた、歴然とした事実であった。

「もうそのこと言うのはやめなよ」
「だって……」
「そういう決まりなんだって」

 円月にできるのは、そうやって祖母と一言一句同じ言葉を繰り返すだけだ。そうやって更嗣をなだめるのと同時に、円月は自身にも言い聞かせる。

 動揺しているのは更嗣だけではない。今までずっと文字通り片時も離れず過ごしてきた相手と、急に引き離されるのだ。その不安たるや筆舌に尽くしがたい。けれどもそれを情に薄い祖父と、上辺だけの関心しか寄せない祖母に打ち明けることなどできなかった。当然、弟である更嗣にも。

「ぼく、円月といっしょにいたい」
「わがまま言わないで、更嗣」
「円月は平気なの?」
「……平気だよ。僕はお前の兄なんだから」

 それが、せいいっぱいの円月の虚勢であった。けれども精神的に円月よりいささか幼い更嗣が、そのいじらしい決意を汲み取ることなどできるはずもなく、すんすんと鼻をすすってまた泣き始めてしまう。

「もう泣かないでよ……」
「だってえ……円月はぼくがいなくても平気だって……」
「ねえ、永遠に離れ離れになるわけじゃないんだから」
「そうだけど……でもぼく、円月といっしょにいたい」

 話はどうしても平行線をたどってしまう。けれどもここで更嗣を納得させられなければ、間違いなくまた祖母の怒りに触れるであろうことは、想像に難くなかった。下手をすれば祖父も出てくるかもしれない。まったく想像の範疇の外にいる祖父のことを考えると、円月は寒気すら覚える。

「更嗣、じゃあ口づけをしよう」

 円月がそう言うと、更嗣はちょっと驚いて兄の顔を見た。

「口づけ?」
加代かよが言ってただろ。になると口づけするんだって」

 以前、通いの子守女から聞いたことを思い起こし、円月は苦し紛れにそう口にした。

 ふたりは今よりもっと幼いころに、想像の上でになろうとした。要はままごと遊びである。しかしがなんなのか、その知識に乏しいふたりは気安い子守女に無邪気に問うたのである。

 円月が今思い返せばあの気の良い子守女はずいぶんと悩んでいたが、最終的には「口づけをする」ものなのだと教えてくれた。

 そのときのままごとでは、頬に唇を押しつけるという他愛のないものであった。しかし長じるにつれ子守女の言う口づけが、唇と唇を合わせるものだということは、円月も更嗣も知るところである。

はいっしょにいるものなんだって、お祖母ばあさまが言っていただろ? だからみたいに口づけすれば、離れてもまたいっしょになれるよ」

 円月はときたまつっかえつつもそう言い募った。口にしておきながら苦しい言い訳だと幼心に思ったが、どうやら更嗣は兄の言で納得してしまったらしい。そこには兄の言うことならば間違いがない、という思い込みが働いていることは明らかだった。

「じゃあぼくが学校に行く前には口づけしてくれる?」
「え? 毎日?」

 おどろいた円月がそう問えば、不思議そうに更嗣はうなずく。彼の中ではそれは当然の決定事項であったらしい。これには円月も困ってしまったが、やっと更嗣の機嫌が直りそうなのである。腹を括って「わかった」と、それはもう立派に了承したのだった。

「でも行く前じゃなくて、寝る前にしよう」
「なんで?」
「なんでって……加代も言ってただろ。口づけは人前でするものじゃないって。それに朝は忙しいだろうから、夜のほうがいいよ」

 円月には不思議だったが、更嗣には更嗣で彼なりに譲れない部分があったようだ。それでもしぶしぶ兄の提案を呑んでくれる。ここまでくると、円月はようやくほっと一息つくことができた。

「じゃあ口づけしよう」
「うん……」

 とは言ったものの、唇同士での口づけはしたことがない。それに真正面から向き合っての口づけは、頬にするのとは違いなんだか気恥ずかしくて仕方がなかった。

「ねえ、どうすればいいのかな?」
「んー……とりあえず、唇の上と下を合わせて、ちょっと突き出す感じにすればいいんじゃないかな」
「ん」

 更嗣は円月の言うことを大人しく聞き入れ、きゅっと一文字を引いた唇を少々前に突き出した。

「じゃあ……するよ?」

 円月がそう言うと、更嗣は軽くうなずく。ふたりともにまぶたを閉じるという発想がなく、視線が真正面からかちあったまま顔が近づく。互いに片割れの瞳の中に映る自身の姿を見た。それはいつも見慣れた兄弟と同じ顔である。それがぐっと近づいてくる。

 初めての口づけは児戯に等しいものだった。円月はそっと弟の唇に自身の唇を重ね合わせると、すぐに身を引いてしまったのだ。

 終わったあとは、生温かく柔らかな感触が残る唇へ円月は思わず手をやる。頬とは違う、湿った感触に彼は自然と背徳的な感覚を抱いたのである。だがこのときの円月は幼かったから、その感覚の正体を知るまでにはいたらなかった。

 片や更嗣はそんな円月を見てじっと考え込んでいる風であった。鼻と目は未だに赤かったが、今ではすっかり泣きやんでいる。

「円月」
「なに?」

 名を呼ばれてあわてて振り返れば存外近いところに更嗣の顔があったので、円月は思わず体をのけぞらせた。

 かちあった更嗣の瞳の奥で、得体の知れぬものが渦巻いていることに気づく。だがそのときには寝間に敷かれた布団の上へ、円月の体は押し倒されていた。

 動揺して円月は前に突き出した手で更嗣の二の腕をつかむ。着物の柔らかな布に、指の先が隠れる。

「もっとしたい」

 更嗣の目にあるのは、間違えようもなく劣情に等しいものであった。けれどもそれは更嗣本人にも、円月にもまだ知らぬ領域の衝動であった。それでも更嗣は本能のままに円月の体を押さえると、今度は自分から唇を奪ったのである。

 更嗣の口づけは二度、三度と執拗に続いた。まるで身のうちにある鬱憤を解消させるかのような、衝動に突き動かされた行為だった。

 彼が満足するころには、翻弄された円月はすっかり息が上がり、潤んだ瞳と上気した顔で弟を見やる。

「更嗣……」
「ご、ごめん円月……なんか、我慢できなくて」

 心底申し訳なさそうにしょげかえる更嗣を見ると、円月も怒る気は失せてしまう。この甘え上手な弟に円月は一等弱いのであった。

「するのはいいけど……ふたりきりのときだけにしてね」
「うん。わかってる」
「これはないしょだからね。お祖母さまにも、加代にも言っちゃだめだよ」

 遅ればせながら羞恥心が湧いてきた円月は、そう言って素直な更嗣に釘を刺すことを忘れない。

「でないと、もう口づけしないから」
「え?! わ、わかった。ぜったい言わない!」

 円月と二度と口づけできなくなるのがかほどにいやなのか、何度も力強くうなずく。それを見て円月はちょっと笑ってしまった。

 こうしてどうにか更嗣をなだめた円月であったが、彼自身の疑心はなにひとつ解決してはいなかった。そしてそれは彼が長じるに従い、隠しようもなく膨らんで行くのである。
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