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第一話

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 警察庁警備局公安課のオフィスにキーボードを叩く音だけが響く。腕時計に目をやると、深夜二時を回ったところだった。
 吉良伊鶴は小さくため息をつくと、エナジードリンクを飲み干した。しかし、自分の機嫌がすこぶる悪いのは、決して激務のせいではない。公安警察を十年近く続けていれば、深夜残業にも連勤にも、嫌でも慣れてしまうものである。
 吉良の機嫌をいつも以上に悪化させている諸悪の根源は、パソコンを覗き込むように横に立っている、上司の存在であった。
 「吉良くんさぁ、もう少しホウレンソウ、できないかな?」
 「既定の事項については、報告書をあげていますが」
 「んー、それはそうなんだけど」
ぶっきらぼうな言い方に直属の上司、榊原孝之が苦笑する。だがそんな榊原のことなど、気にする気など吉良には更々なかった。
 榊原のことは、どうしても気に入らない。
 彼は、ニヶ月前の人事異動で新しく吉良の上司になった男だ。別に捜査手腕や能力に問題があるわけではない。むしろ、移動前は公安の花形ともいえる警備企画課にいたような、極めて優秀な公安警察官であった。
 なぜ自分はこうも榊原のことが嫌いなのか。別に彼に嫉妬しているわけではないと思う。ただ、その優秀さゆえに、自分の考えや行動を読まれている気がするのが、一番気に食わないのである。彼の銀フレームの奥の瞳は穏やかな表情を浮かべつつも、時折り鷹のような鋭さでこちらを射止めているのだ。
「まぁ、秘密主義は大事だよ?公安刑事にとって一番大事なことだとは思うけどさぁ」
「……何が言いたいんですか」
 榊原の方を向くこともなく、パソコンの画面を直視したまま吉良はそう言い放った。
「要するに、上司の僕にだけは情報上げて欲しいってこと。今、吉良くんが何を追っててどこまで掴んでるのか、この報告書では意図的にぼかしてるよね。それに……」
「それに、何ですか」
 一呼吸置いて、榊原は再び口を開いた。
「何かあった時、それだと僕がサポートできない」
 ぴくり。吉良の肩が小さく揺れる。
「不要です」
 顔を上げて、榊原の目を見ながらそう言い放つ。
 サポート?冗談じゃない。吉良はイラつきながら乱暴にノートパソコンを閉じる。
 ────俺は誰にも助けられたくない。
 「……時間なので。失礼します」
 背もたれにかけたスーツのジャケットを掴むと、そのままオフィスの出口に向かう。
 榊原はいつもと同じような顔で、苦笑していた。
 
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