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毒を知らない男
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ルーカス・ヴォルテは、名門ヴォルテ家の次男として生まれた。
それは、一見すると恵まれた立場に思える。
だが彼にとっては、生まれた瞬間から役割が決まっている場所でもあった。
期待はすべて、兄へ向けられていた。
兄アルベルトは、剣術も学問も外交も完璧だった。
容姿も美しく、礼儀正しく、威厳があり、次期当主として誰からも疑われない存在だった。
対してルーカスは―
“兄に及ばず”
それが、彼に与えられた評価だった。
教師たちは褒める時も、必ず兄と比べた。
父は成績表を見ても、兄の話しかしなかった。
母は優しく微笑むが、その目はいつも兄を追っていた。
ルーカスは理解していた。
自分は「予備」なのだと。
兄に何かあった時、穴を埋めるための存在。
だが家が順調に回る限り、存在理由を必要とされない歯車。
ーー
だがルーカスは努力した。
剣を振り続けた。
本を読み続けた。
礼儀作法も、社交も励んだ。
それでも評価は変わらなかった。
“兄ほどではないが、十分だ”
その言葉は、褒め言葉ではなかった。
終わりの宣告に近かった。
しかしある日、ふと思った。
(……頑張る意味あるのか?)
その疑問は、雷のように突然落ちてきたわけではない。
雨のように、長い時間をかけて降り続けた末に、ようやく彼の心を満たしたものだった。
そして彼は――努力をやめた。
ーー
名誉の代わりに選んだのは、自由だった。
授業を抜け出して狩りに出た。
護衛を振り切って街に降りた。
身分を隠し酒場で庶民と肩を並べて酒を飲み、くだらない噂話に笑った。
(……世界、こんなに広かったのか)
その頃から、周囲は彼を変人と呼び始めた。
貴族としての自覚がない。
家の威光を軽んじている。
次男としての品位を損なっている。
陰口はすぐに広まった。
だが家族は、ほとんど止めなかった。
次男には、期待していない。好きにさせればいい。
それがヴォルテ家の判断だった。
ルーカスは、その事実に傷つき――そして、少しだけ安堵していた。
ーー
そんな日々の中で、ルーカスは偶然、彼女を見た。
屋敷の廊下だった。
昼食の時間を少し過ぎた頃。
窓から差し込む光が、床に長く伸びていた。
料理を運ぶ少女が、静かに歩いていた。
淡いブラウンの瞳。質素な給仕服。
装飾は何一つない。
彼女はルーカスに気づくと、足を止めることなく、ほんのわずかに頭を下げた。
それは、見事な所作だった。
だが―どこか奇妙だった。
貴族に仕える者は、普通、恐怖か緊張を滲ませる。
媚びるか、怯えるか、そのどちらかだ。
だが彼女には、それがなかった。
ただ静かだった。
まるで――祈りの像のようだった。
感情が削ぎ落とされ、役割だけが残された存在。
彼女が通り過ぎたあとも、ルーカスは振り返っていた。
胸の奥が、妙にざわついた。
ーー
ルーカスはすぐに調べた。
名前はマリア。
毒見役の少女。
農民出身。
つい半年前に雇われた。
執事長は、事務的にそう説明した。
「優秀な道具です」
その言葉を聞いた瞬間、ルーカスは強烈な違和感を覚えた。
(……道具?)
ルーカスは、彼女の横顔を思い出した。
静かで、整った表情。
だがそこに、人間らしい揺らぎはほとんどなかった。
それが――恐ろしく思えた。
そして同時に、ひどく惹かれた。
ーー
数日後、彼は毒見の席にわざと現れた。
執事長は露骨に顔をしかめた。
「ルーカス様。この場は」
「知っている」
ルーカスは遮った。
マリアは淡々と料理を口に運んでいた。
顔色一つ変えない。
「なあ、マリア」
名前を呼ばれ、彼女はわずかに顔を上げた。
「好きだ。交際を申し込む」
執事長が咳き込んだ。
周囲の空気が凍った。
マリアは、静かに首を横に振った。
「身分が違います」
「関係ない」
「あります」
即答だった。
そこに怒りも羞恥もない。
ただ事実を述べているだけの声だった。
しかいルーカスは、むしろ笑った。
「じゃあまた明日聞く。君の心が変わるまで」
彼は本気だった。
それは、一見すると恵まれた立場に思える。
だが彼にとっては、生まれた瞬間から役割が決まっている場所でもあった。
期待はすべて、兄へ向けられていた。
兄アルベルトは、剣術も学問も外交も完璧だった。
容姿も美しく、礼儀正しく、威厳があり、次期当主として誰からも疑われない存在だった。
対してルーカスは―
“兄に及ばず”
それが、彼に与えられた評価だった。
教師たちは褒める時も、必ず兄と比べた。
父は成績表を見ても、兄の話しかしなかった。
母は優しく微笑むが、その目はいつも兄を追っていた。
ルーカスは理解していた。
自分は「予備」なのだと。
兄に何かあった時、穴を埋めるための存在。
だが家が順調に回る限り、存在理由を必要とされない歯車。
ーー
だがルーカスは努力した。
剣を振り続けた。
本を読み続けた。
礼儀作法も、社交も励んだ。
それでも評価は変わらなかった。
“兄ほどではないが、十分だ”
その言葉は、褒め言葉ではなかった。
終わりの宣告に近かった。
しかしある日、ふと思った。
(……頑張る意味あるのか?)
その疑問は、雷のように突然落ちてきたわけではない。
雨のように、長い時間をかけて降り続けた末に、ようやく彼の心を満たしたものだった。
そして彼は――努力をやめた。
ーー
名誉の代わりに選んだのは、自由だった。
授業を抜け出して狩りに出た。
護衛を振り切って街に降りた。
身分を隠し酒場で庶民と肩を並べて酒を飲み、くだらない噂話に笑った。
(……世界、こんなに広かったのか)
その頃から、周囲は彼を変人と呼び始めた。
貴族としての自覚がない。
家の威光を軽んじている。
次男としての品位を損なっている。
陰口はすぐに広まった。
だが家族は、ほとんど止めなかった。
次男には、期待していない。好きにさせればいい。
それがヴォルテ家の判断だった。
ルーカスは、その事実に傷つき――そして、少しだけ安堵していた。
ーー
そんな日々の中で、ルーカスは偶然、彼女を見た。
屋敷の廊下だった。
昼食の時間を少し過ぎた頃。
窓から差し込む光が、床に長く伸びていた。
料理を運ぶ少女が、静かに歩いていた。
淡いブラウンの瞳。質素な給仕服。
装飾は何一つない。
彼女はルーカスに気づくと、足を止めることなく、ほんのわずかに頭を下げた。
それは、見事な所作だった。
だが―どこか奇妙だった。
貴族に仕える者は、普通、恐怖か緊張を滲ませる。
媚びるか、怯えるか、そのどちらかだ。
だが彼女には、それがなかった。
ただ静かだった。
まるで――祈りの像のようだった。
感情が削ぎ落とされ、役割だけが残された存在。
彼女が通り過ぎたあとも、ルーカスは振り返っていた。
胸の奥が、妙にざわついた。
ーー
ルーカスはすぐに調べた。
名前はマリア。
毒見役の少女。
農民出身。
つい半年前に雇われた。
執事長は、事務的にそう説明した。
「優秀な道具です」
その言葉を聞いた瞬間、ルーカスは強烈な違和感を覚えた。
(……道具?)
ルーカスは、彼女の横顔を思い出した。
静かで、整った表情。
だがそこに、人間らしい揺らぎはほとんどなかった。
それが――恐ろしく思えた。
そして同時に、ひどく惹かれた。
ーー
数日後、彼は毒見の席にわざと現れた。
執事長は露骨に顔をしかめた。
「ルーカス様。この場は」
「知っている」
ルーカスは遮った。
マリアは淡々と料理を口に運んでいた。
顔色一つ変えない。
「なあ、マリア」
名前を呼ばれ、彼女はわずかに顔を上げた。
「好きだ。交際を申し込む」
執事長が咳き込んだ。
周囲の空気が凍った。
マリアは、静かに首を横に振った。
「身分が違います」
「関係ない」
「あります」
即答だった。
そこに怒りも羞恥もない。
ただ事実を述べているだけの声だった。
しかいルーカスは、むしろ笑った。
「じゃあまた明日聞く。君の心が変わるまで」
彼は本気だった。
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