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アリソン・フォード研究所
幕引きの合間にて
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幕引きの合間に
「やあ」とスタンリーは片手をあげた。パブの外席にいるのを差し引いても、こんな人混みの中で、しかも夜も更けた暗い中で、ものの数分もしないうちに探し当てるなんぞ、やはり人間離れしているな、とフォードは密かにそう思った。
「それで。どうだ?」
「彼は無事だよ。今アフターケア中だ。」
「それは何よりだ。」
ホッとしたように、スタンリーは力を抜いた。エールを注いで、一息に飲み干す。
「珍しいな。君が僕に紹介するなんて。」
「いいやつだったろ?」スタンリーは少し笑って言った。「お気に入りなんだ、最近のな。」
「君に目をつけられるなんてな、心底同情するよ。」
「しかも本人は気がついていないんだ。おかしいだろ?」
しかしその言葉とは裏腹に、スタンリーは今度は少しも笑っていないようだった。
「だから今回も、一ヶ月も気がつかなかったんだ。危ないところだった。」
「そうだな。ギリギリだったよ。」
「今回も彼女が?」
「ああ。札を書いたのは僕だけれど。」
「そうか・・彼女はなんて?」
「名前を使った呪いだろうと。」
「名前?」
「ああ。名前を書いた何かに傷つける。紙を破るでもいいし、生卵を埋めるでもいい。簡単だけに効力は薄いが、その書いたペンが良くないものだったらしい。今後、流通ルートを探るつもりだ。」
「なるほどな・・何か力になれることがあったら言ってくれ。」
しばしの間、二人の間には沈黙が落ちた。目の前を短すぎるスカートをはいた女が、老齢の男性に腕を絡ませて過ぎていった。その向こう側には、極端に痩せた幼い子供が、指をくわえて倒れている。しかし、道を通る人は皆、どちらにも注意を向けることはなかった。日常の一コマとして、世界の一部として、ただただ受け入れている。
「ここのカオスぶりは相変わらずだな。」
「ああ。隠れ蓑には最適だろう?」
「違いない。」
スタンリーはもう一度エールを飲むと、「それじゃあ、俺はこの辺で。」と立ち上がった。
「もう行くのか。」
「ああ、二人によろしく言っておいてくれ。次訪ねるときは土産でも持って行くと。」
「エミは会ってくれないと思うけれどね。君に名前を教えただけで、一週間口をきいてくれなかったんだから。」
「そんなに嫌われているのか、俺は・・」スタンリーは明らかに落ち込んだ様子だった。「せっかく新しい言葉も覚えたのに。」
「まぁ、伝えるだけ伝えておくさ。」
「頼んだぞ。初対面は最悪だったが、私は彼女とは仲良くしたいと思っているんだ・・っと。大事なことを忘れていた。」
スタンリーは髪をかき上げて振り向いた。パブの光に照らされて、スタンリーの瞳は怪しく輝いている。
「誰だった?」
「君の同僚だ。今日会ったと言っていた。」
「・・あの女か。確か処女だと言っていたな。久しぶりに、旨い食事になりそうだ。」
そう言い残すと、スタンリーはあっという間に人混みの中に消えた。机の上にはエールの代金よりはいささか多い金額の紙幣が置かれていて、フォードはそれを持って苦笑すると、代金きっかりだけを机において、その場を後にした。
ロンドンの夜は、こうして更けていった。
──
スタンリーの属する課の入り口でうろうろしていると、幸運なことに向こうから気がついてくれたようで、仕事の手を止めてにこやかな笑顔を浮かべながら私に近づいてきた。
「トマス!顔色が良くなったな。昨日はぐっすり眠れたかい?なんだか寒そうな格好をしているが・・・」
「おかげさまで。ストールはもう必要ないんだ。君が紹介してくれた・・というか、君のご兄弟の協力でね、
スタンリー・フォード。」
「おや、」スタンリーは一瞬驚いたような顔をして、しかしすぐに愉快そうに笑った。「さすが、察しがいいな。黙っていてすまないね。腕がいいのは確かなんだが、身内びいきを疑われるわけにはいかなかったんだ。」
「別に責めているわけじゃない。・・実際あやうかったところを救ってもらったわけだし。」
「君のその人の良さは長所であり短所だよ。いやしかし、弟も上手くやったようだ。どうだい?昨日のことは覚えているかい?」
「いやそれが・・」
私はスタンリーに今までのことを何もかも話した。一ヶ月間の間、寝不足だった理由、フォード研究所でのこと、そして昨夜の顛末。
「でもね、スタンリー。確かに私は昨日、女の顔を見たはずなんだが、何故か覚えていないんだよ。思い出そうとすると、もやがかかったようになってしまう。これは一体どういうことなんだろう?」
「気にすることはないさ、スミス。世の中には知らないほうがいいこともある。思い出せないなら無理する必要はないさ。」
スタンリーは穏やかに、優しくそう言った。「そういうものかな。」と私はつぶやく。
実際、そうなのかもしれない。私を呪っていたというくだんの人物を知って私にいいことはないし、フォードは安眠を約束してくれた。これでいいのだ、これですべて終わったのだ。
「ところでスタンリー。君の隣、空席になっているようだが。」
「ああ、彼女なら・・彼女なら、両親の具合が急に悪くなってね。昨日、田舎に帰ったんだ。」
「そうか。苦労するな、君も。」
「ああ、全くだよ。」スタンリーは苦笑した。
「しかし、仕事が増えるのも、存外悪いことばかりではないのさ。」
気持ち浮ついたような彼の口調に、思わず眉根を寄せて顔を見た。その時一瞬、ほんの一瞬だけ、彼の瞳が猫のように細められ、口から白い牙のようなものが見えた気がした。しかし次の瞬間にはもう、いつもの端正な顔がそこにあって、スタンリーは呆けている私を不思議そうに見つめていた。
──以上が、私がアリソン・フォード研究所を初めて関わりを持った話である。この事件をきっかけにして、私はフォード兄弟やエミリア、そしてエミと深く関わりを持っていくのだが・・その話はまた後日ということにしよう。今はとにかく、そのときの私は、自身の運命を大きく変えることになるこの出会いのことを、そう深く考えることはなかった、とだけ記しておく。
「やあ」とスタンリーは片手をあげた。パブの外席にいるのを差し引いても、こんな人混みの中で、しかも夜も更けた暗い中で、ものの数分もしないうちに探し当てるなんぞ、やはり人間離れしているな、とフォードは密かにそう思った。
「それで。どうだ?」
「彼は無事だよ。今アフターケア中だ。」
「それは何よりだ。」
ホッとしたように、スタンリーは力を抜いた。エールを注いで、一息に飲み干す。
「珍しいな。君が僕に紹介するなんて。」
「いいやつだったろ?」スタンリーは少し笑って言った。「お気に入りなんだ、最近のな。」
「君に目をつけられるなんてな、心底同情するよ。」
「しかも本人は気がついていないんだ。おかしいだろ?」
しかしその言葉とは裏腹に、スタンリーは今度は少しも笑っていないようだった。
「だから今回も、一ヶ月も気がつかなかったんだ。危ないところだった。」
「そうだな。ギリギリだったよ。」
「今回も彼女が?」
「ああ。札を書いたのは僕だけれど。」
「そうか・・彼女はなんて?」
「名前を使った呪いだろうと。」
「名前?」
「ああ。名前を書いた何かに傷つける。紙を破るでもいいし、生卵を埋めるでもいい。簡単だけに効力は薄いが、その書いたペンが良くないものだったらしい。今後、流通ルートを探るつもりだ。」
「なるほどな・・何か力になれることがあったら言ってくれ。」
しばしの間、二人の間には沈黙が落ちた。目の前を短すぎるスカートをはいた女が、老齢の男性に腕を絡ませて過ぎていった。その向こう側には、極端に痩せた幼い子供が、指をくわえて倒れている。しかし、道を通る人は皆、どちらにも注意を向けることはなかった。日常の一コマとして、世界の一部として、ただただ受け入れている。
「ここのカオスぶりは相変わらずだな。」
「ああ。隠れ蓑には最適だろう?」
「違いない。」
スタンリーはもう一度エールを飲むと、「それじゃあ、俺はこの辺で。」と立ち上がった。
「もう行くのか。」
「ああ、二人によろしく言っておいてくれ。次訪ねるときは土産でも持って行くと。」
「エミは会ってくれないと思うけれどね。君に名前を教えただけで、一週間口をきいてくれなかったんだから。」
「そんなに嫌われているのか、俺は・・」スタンリーは明らかに落ち込んだ様子だった。「せっかく新しい言葉も覚えたのに。」
「まぁ、伝えるだけ伝えておくさ。」
「頼んだぞ。初対面は最悪だったが、私は彼女とは仲良くしたいと思っているんだ・・っと。大事なことを忘れていた。」
スタンリーは髪をかき上げて振り向いた。パブの光に照らされて、スタンリーの瞳は怪しく輝いている。
「誰だった?」
「君の同僚だ。今日会ったと言っていた。」
「・・あの女か。確か処女だと言っていたな。久しぶりに、旨い食事になりそうだ。」
そう言い残すと、スタンリーはあっという間に人混みの中に消えた。机の上にはエールの代金よりはいささか多い金額の紙幣が置かれていて、フォードはそれを持って苦笑すると、代金きっかりだけを机において、その場を後にした。
ロンドンの夜は、こうして更けていった。
──
スタンリーの属する課の入り口でうろうろしていると、幸運なことに向こうから気がついてくれたようで、仕事の手を止めてにこやかな笑顔を浮かべながら私に近づいてきた。
「トマス!顔色が良くなったな。昨日はぐっすり眠れたかい?なんだか寒そうな格好をしているが・・・」
「おかげさまで。ストールはもう必要ないんだ。君が紹介してくれた・・というか、君のご兄弟の協力でね、
スタンリー・フォード。」
「おや、」スタンリーは一瞬驚いたような顔をして、しかしすぐに愉快そうに笑った。「さすが、察しがいいな。黙っていてすまないね。腕がいいのは確かなんだが、身内びいきを疑われるわけにはいかなかったんだ。」
「別に責めているわけじゃない。・・実際あやうかったところを救ってもらったわけだし。」
「君のその人の良さは長所であり短所だよ。いやしかし、弟も上手くやったようだ。どうだい?昨日のことは覚えているかい?」
「いやそれが・・」
私はスタンリーに今までのことを何もかも話した。一ヶ月間の間、寝不足だった理由、フォード研究所でのこと、そして昨夜の顛末。
「でもね、スタンリー。確かに私は昨日、女の顔を見たはずなんだが、何故か覚えていないんだよ。思い出そうとすると、もやがかかったようになってしまう。これは一体どういうことなんだろう?」
「気にすることはないさ、スミス。世の中には知らないほうがいいこともある。思い出せないなら無理する必要はないさ。」
スタンリーは穏やかに、優しくそう言った。「そういうものかな。」と私はつぶやく。
実際、そうなのかもしれない。私を呪っていたというくだんの人物を知って私にいいことはないし、フォードは安眠を約束してくれた。これでいいのだ、これですべて終わったのだ。
「ところでスタンリー。君の隣、空席になっているようだが。」
「ああ、彼女なら・・彼女なら、両親の具合が急に悪くなってね。昨日、田舎に帰ったんだ。」
「そうか。苦労するな、君も。」
「ああ、全くだよ。」スタンリーは苦笑した。
「しかし、仕事が増えるのも、存外悪いことばかりではないのさ。」
気持ち浮ついたような彼の口調に、思わず眉根を寄せて顔を見た。その時一瞬、ほんの一瞬だけ、彼の瞳が猫のように細められ、口から白い牙のようなものが見えた気がした。しかし次の瞬間にはもう、いつもの端正な顔がそこにあって、スタンリーは呆けている私を不思議そうに見つめていた。
──以上が、私がアリソン・フォード研究所を初めて関わりを持った話である。この事件をきっかけにして、私はフォード兄弟やエミリア、そしてエミと深く関わりを持っていくのだが・・その話はまた後日ということにしよう。今はとにかく、そのときの私は、自身の運命を大きく変えることになるこの出会いのことを、そう深く考えることはなかった、とだけ記しておく。
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