芥川の怪談

橋平礼

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『病棟の呼鈴』

第一章 銀鼠色の聖域

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第一章 銀鼠色の聖域

 或る夏の夜の事である。僕は当時、生活の窮迫(きゅうぱく)からくる名状し難い焦燥(せうさう)に駆られ、不気味なほど高額な夜勤手当を掲げた求人広告に、半ば魂を売り渡すやうな心持ちで応募した。さうして辿り着いたのが、郊外の深い木立の影に身を潜めた、とある私立病院であつた。

 その建物は、お世辞にも清潔、あるいは近代的な医療の場とは言ひ難かつた。あたかも二十年も前の記憶を、そのまま石灰の壁の中に封じ込めたやうな、陰懃(いんぎん)ながらも冷ややかな拒絶を孕(はら)んだ佇まひである。重い玄関を潜り、一歩廊下へ足を踏み入れると、湿つた空気の中に、古びた包帯の脂(あぶら)と消毒液の刺激臭が混じり合つた、饐(す)えた匂いが粘りつくやうに鼻を突いた。

  天井の低い廊下に並ぶ設備は、どれも一昔前の年季が入つてをり、窓硝子(まどがらす)の一枚一枚が、外の暗闇を吸ひ込むやうに曇つてゐる。それは恰(あたか)も、此処(ここ)で果てた無数の死者たちの、最後の溜息が結露したかのやうに見えてならなかつた。

 「慣れてくださいね。此処は貴方が以前働いてゐた場所とは、少々勝手が違ふかもしれませんから」

 僕を案内してくれた看護長(しちゃう)といふ女は、深い皺(しわ)に刻まれた貌(かほ)に、糊(のり)のきいた白衣と同じ色の、貼り付けたやうな微笑を浮かべて言つた。その声は極めて淑(しと)やかで、慈愛に満ちてゐるやうに聞こえたが、僕はその眼鏡の奥に、何か巨大な秘密を隠し通さうとする冷徹な光が宿つてゐるのを、決して見逃さなかつた。それは、深淵を覗き込む者が持つ、あの独特の虚無を孕んだ眼差(まなざ)しであつた。

 いざ仕事が始まつてみると、奇妙なことに、同僚のスタッフたちは皆、驚くほど親切であつた。彼らは必要最小限の言葉で、それでゐて過不足なく僕の業務を補助し、深夜の静寂の中に溶け込んでゐた。患者たちもまた、重い病に臥(ふ)してゐるとは思へぬほど静穏であつた。喘(あへ)ぎも、呻(うめ)きも、不当な要求を喚(わめ)く声も聞こえない。僕は「案外、ここは当たりの職場であつたか」と、胸の内で安堵の吐息を漏らし、深夜のナースステーションで記録の整理に没頭してゐたのである。

 だが、その安堵は、不意に静寂を切り裂いた一つの電子音――「呼鈴(ナースコール)」の響きによつて、脆(もろ)くも崩れ去ることになる。

 ピンポーン、ピンポーン。

 ナースステーションの卓上に据ゑられた、古びたモニターに、赤々とした文字が呪文のやうに浮かび上がつた。
 ――一号室 山崎武夫。

 僕はアルバイトの身ながら、その音の鋭さに反射的に腰を浮かせた。誰かが助けを求めてゐる。あるいは急変か。医療従事者としての本能が、僕の脚を廊下へと向けさせようとした。

  だが、その時、僕の網膜に映つた光景は、何よりも凄惨(せいさん)な怪異であつた。

 周囲の看護婦たちは、誰一人として動かないのである。

  彼女らは石像の如く椅子に深く腰掛けたまま、モニターに映るその名を、あたかも此の世に存在せぬ記号であるかのやうに完全に無視し、黙々とキーボードを叩いてゐる。カチカチといふ無機質な音だけが、不快なリズムで室内に響く。

  音は鳴り止まない。ピンポーン、ピンポーン。空虚なベルの音は、銀鼠色の廊下に幾重にも反響し、僕の神経をじりじりと、まるで針で刺すやうに逆立たせる。モニターの中で明滅する「山崎武夫」といふ文字が、次第に僕の眼には、苦悶の表情を浮かべ、喉(のど)を掻き毟(むし)りながら助けを呼ぶ人間の顔に見えてくるやうな、恐ろしい錯覚に陥つた。

 「あの、行かないのですか? 一号室の山崎さんが……」

 僕が辛うじて声を絞り出さうとした、その刹那(せつな)であつた。

  隣にゐた先輩看護婦が、僕の手首を、氷のやうに冷たい手でぎりりと制した。彼女は僕の眼を真っ直ぐに見詰め、耳朶(じだ)を噛むやうな、極めて低い声でささやいた。

 「出ちやダメよ」

 その短い一言には、職業的な怠慢などでは到底説明のつかない、生理的な「恐怖」の響きが混じつてゐた。それは、禁忌(タブー)を侵さうとする無知な者に対する、必死の警告であつた。

  やがて、執拗であつた呼鈴の音は、ぷつりと、何かの糸が断ち切られたやうに途絶えた。静寂が再びナースステーションを支配したが、それは先ほどまでの安らかな静寂ではなく、何かが満たされた後の、重苦しい充足の沈黙であつた。

 僕はその時、確信した。

  この病院の、銀鼠色に澱(よど)んだ廊下の最果てには、生者(しやうじや)の論理も、現代の医術も及ばぬ、何者かの「聖域」が存在してゐるのだと。

  そして、あの呼鈴を鳴らした指先は、果たして温かい血の通つた人間の指であつたのだらうか。

 僕は震える手でペンを握り直し、モニターから目を逸らした。しかし、僕の耳の底には、今もあの空虚なベルの音が、絶え間なく鳴り響いてゐるやうな気がしてならなかつたのである。
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