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しおりを挟むこの館に来てからというもの、初めて聞かされる事ばかりだ。
夫のアラード卿が『二度目の結婚だった』という事実は、この際問題では無かった。
だが、前の妻が身投げをしていた事は、大問題だ___
「幽霊なんて…嘘よ…」
そう思ってみても、わたしはとても食事をする気になれず、そのままベッドに入った。
だが、不安と恐怖が渦巻き、とても眠れそうになかった。
前の奥様が、この塔で身投げをしたなんて…
夜になって、アラード卿は部屋に来るつもりだろうか…
わたしは妻ではなく人質の身だが、妻であっても人質であっても同じだ。
アラード卿の気分次第で、何をされるか分からない。
『結婚は体裁』などと言っていたが、
世間に知られなければ、何をしても非難を受ける事は無いのだ。
ここは、鍵の掛かる、完全に孤立した塔___
厳つい顔をした大男を思い出すと、身ぶるいがした。
彼は始終不機嫌で、苛々としていた。
彼が来たら、どうしたらいいの?
前の奥様は身投げする程、苦しんだの?
それで、恨みに思い、幽霊になって出ているの?
嫌だ…怖い…来ないで…!
わたしは布団を頭まで被り、怯えていた。
どの位、時間が経っただろう?
何処か遠くで、微かに音がした。
何かの気配を感じ、わたしは息を止め、眠った振りをした。
だが、アラード卿であれば、無理矢理にでも起こすだろう、
そうなれば、わたしは抵抗も出来無い___
逃げなければ!わたしは意を決し、布団を跳ね退けた。
「!!」
月明かりはあるが、薄暗い部屋、その戸口に立っていたのは、
屈強な夫、アラード卿では無く…
白いワンピースを着た、長い髪の女性だった。
顔も肌も白いというか、半透明で、それに、彼女は裸足の様だ。
ふらふらと揺れていて、まるで…
「幽霊…」
噂の幽霊だろうか?
わたしがベッドの上で固まっていると、彼女は手招きし、部屋を出て行った。
手招きされたからといって付いて行く理由は無い。
だが、わたしは何故か、ベッドを降り、彼女を追っていた。
夜の、この不思議な空気がそうさせたのかもしれない。
部屋を出ると、彼女はゆらゆら揺れながら、階段を上っていた。
階段を封鎖していた扉は、今は開かれている。
それに、階段の壁には小さな灯りが灯っていて、薄暗くはあるが、足元も見える。
まるで誂えたかの様に…
わたしは彼女を追い、冷たい石の階段を上る。
三階の部屋は閉じられていて、そこから先に部屋は無く、螺旋階段が上に上にと続いていた。
一番上は、展望室になっていた。
彼女は一つだけある、大きな窓の脇に立ち、景色を眺めている様だった。
わたしは引き寄せられる様に、彼女の傍へ行く。
窓にガラスは無く、強い風が吹き付けてきて、わたしは飛ばされそうになり、
窓枠を掴んだ。
彼女が窓から下を覗き込むと、長い白金色の髪が舞った。
その横顔は美しく、人形の様だ。
わたしも同じ様に覗き込んだ。
強い風が吹き上げ、下は暗く闇しか見えない。
背中を押された気がした。
今なら飛べる気がした。
わたしには居場所が無い。
わたしを求めてくれる人は何処にもいない。
わたしの愛する人は、いつもわたしを愛してはくれなかった。
この世界に、わたしの居場所なんて無い___
わたしは身を乗り出した。
勢いに任せ、窓枠を超えた。
_______
◇
目を覚ますと、わたしはベッドの中にいた。
あれは、夢だったのだろうか?
わたしは、確かに、夜、彼女…幽霊に会った。
そして、彼女に付いて階段を上り、塔の上に立ち、その窓を超えた___
だが、思い出そうとすると、酷くぼんやりとし、記憶が薄れていく。
掴めそうで掴めない…
わたしは頭を振り、ベッドから降りた。
寝室を出て、上に続く階段を見ると、昨夜開いていた扉は、今は閉められていた。
「やっぱり、夢だったのかしら…」
メイドたちの話を聞き、恐怖のあまり、あの様な夢を見てしまったのかもしれない。
わたしはそう思う事にし、階段を下りた。
顔を洗うと、幾らかスッキリとした。
「わたしは、死んでいないのね…」
その事を喜ぶ事は出来無かったが、もう一度塔の上から飛べと言われたら、
今は飛べるかどうか分からなかった。
朝の明るい光の中では、恐怖の方が強くなった。
わたしに、あんな事が出来るなんて…
あの時、死ねていたら良かった…
椅子に座り、ぼんやりとしていると、鍵を開ける音がし、わたしはビクリとした。
恐怖に固まっていると、入って来たのはメイドだった。
メイドはわたしを見て驚きの声を上げたが、直ぐに表情を消すと、
手付かずの食事をワゴンに戻し、朝食をテーブルに並べ始めた。
「何か御用はございますか?…奥様」
「いいえ…ありがとうございます」
「失礼致します」
メイドはワゴンを押し、部屋を出ると、鍵を掛けた。
「ああ、驚いた!幽霊かと思ったわよ!無言で座ってるんだもの!」
「異様に痩せてるし、気味悪いったらないわよね、本当に幽霊じゃない?」
「冗談は止めてよ!」
メイドたちが笑いながら去って行く。
わたしは自分の手を見た。
痩せて荒れた手だが、透き通ってはいない。
「きっと、わたしは幽霊ではないわ…」
それを残念に思いながら、わたしは用意された朝食に目を向けた。
白い湯気が立っている、温かいのだ。
籠には見事な焼き色のクロワッサンが盛られている。
他には、ベーコンと目玉焼き、果物、カフェオレ。
信じられない程の豪華な食事に、わたしは茫然とした。
「人質の筈なのに…」
家ではいつも、朝食は昨夜の残り物のパン一切れと、具の無いスープだった。
自分がどれ程、あの家で厄介者に思われていたか思い知らされ、惨めになる。
「ううん…きっと、体裁よ」
体裁のつもりで、豪華な食事を運んでいるだけ。
使用人たちも、わたしをアラード卿夫人だと思っているのだから、
粗雑には出来無い、それだけだ。
そう納得し、惨めさに蓋をした。
わたしは、無意識にクロワッサンに手を伸ばしていた。
美味しそうな焼き色、そしてバターの風味が食欲をそそる。
何処か懐かしい…
わたしは恐る恐る、それを口に入れた…
サクサクと口の中で崩れる。
だが、思った程の感動は無かった。
クロワッサン二つと水で食事を終えたわたしは、
暫くそのまま、ぼんやりとしていた。
窓から入る陽で部屋は明るく、心地が良い。
不要な物が一つも無い、片付けられた調理場兼食堂。
落ち着ける場所に思えたが、わたしの内は空っぽだった。
何もする気になれない。
何の感情も沸いて来ない。
家では、朝から晩まで、仕事をさせられた。
野菜の下拵え、調理の手伝い、床磨き、洗濯…
何も考えずに、言われるままに働いた。
ここでは、何をして良いのか、分からない…
今夜、また彼女が来たら、もう一度、飛び降りよう。
そうよ、きっと、そうした方がいい…
それを想像し、少し心が晴れた気がした。
コンコン。
不意に、出入り口の扉がノックされ、わたしはビクリとした。
メイドたちは、今までノックをせずに入って来ていた。
何故、突然、ノックをされたのか…
まさか、アラード卿が?
わたしは昨日会った、不機嫌そうな大柄な男を想像し、
息を飲み、椅子の上で固まっていた。
コンコン…
数回ノックされた後、ガチャガチャと鍵が回される音がし始めた。
生きた心地がせず、真っ青になり、見つめる中、
それは「ガチャリ」と小さな音を立て、ゆっくりと開かれた。
「返事が無い様ですので、勝手に入らせて頂きます…」
穏やかな声と共に入って来たのは、黒髪の身形の良い青年だった。
青年は辺りを見回し、椅子に座るわたしに気付くと、わたしの所へやって来た。
そして、姿勢を正し、礼をした。
「挨拶に参りました、アラード卿の息子、ランメルトです。
どうぞ、お見知り置き下さい、お義母さん___」
アラード卿の息子!?
息子が居ただなんて!誰も言っていなかったのに…
だが、思えば、何もかも、ここへ来て知る事ばかりだった。
前妻が居たのだ、息子の一人や二人いても当然だろう。
いや、それよりも…
「お、義母さん…?」
その、聞き慣れない、自分とは掛け離れた言葉に、わたしは思わず、繰り返していた。
だが、目の前の青年…ランメルトは、微笑みを絶やさない。
その深い青色の目は優しく、見ていると何故だか頬が熱くなった。
「僕の母は早くに亡くなりました、それ以降、父は再婚をしていません。
勝手とは思いますが、母にしてあげられなかった事を、あなたにして
差し上げられたら、僕の心の慰みになるのですが…迷惑でしょうか?」
不意に浮かんだ、寂し気な表情に、わたしは慌てた。
「いえ、迷惑だなんて…」
「お義母さんと、呼ばせて頂いてもよろしいですか?」
「はい…」
わたしが頷き答えると、彼はうれしそうな笑みを見せた。
自分に向けられた笑みに、わたしはどぎまぎとした。
今まで、自分に注意を払った者などいなかった。
両親、継母、義理の姉妹、館の使用人たち、そして、ここへ来てからも…
だが、いざ、注目されると、わたしはどうして良いのか、分からなかった。
だが、彼には分かっている様だった。
「僕の事は、ランメルトと呼んで下さい、お義母さん」
彼は、その優しい瞳、優しい微笑み、そして、優しい声で、
わたしを包み、導くのだった___
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