こんな私が恋に落ちるまでの物語

悠日里

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第一話 手

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「とんとん、とんと――眠ったかな……痛たた」

 私は疲れを払い落とすように、手首を軽く振った。
 今は20時半過ぎ。夕飯を食べ、食器を洗い、入浴を済ませた真白に眠ってもらったところだ。

 真白は私が指の腹で背中を優しく弾ませると落ち着くようで、寝つきが悪い時にはいつもこの方法を採る。しかしすぐに眠るわけではないので、結構手の全体に負担がかかるのだ。でも真白は母が居なくて寂しいのだから、これくらいはしてあげたいと思う。

 真白は寝息も立てず、そっと呼吸を繰り返している。元気いっぱいの真白を見る事はとても好きだが、この天使のように穏やかな寝顔も私は好きだ。癒されるし、私に弟が居てくれて良かったと感じる瞬間の一つだ。

 私がベッドの隣で真白の寝顔を時折眺めながら、ランプシェードの灯りで小説を読んでいると、1階で玄関の鍵が解除される機械音がした。途端に体が軽くなる。
 私は真白を起こさないよう寝室を出て、階段を下りずに吹き抜けから顔を覗かせ玄関を見下ろした。螺旋状に連なる蘭のシャンデリアの下、仕事から帰って来たスーツ姿の父と目が合う。

「おかえりなさい」
「ただいま。真白は?」
「一時間前くらいに寝たよ」
「そっか。お疲れ様」
「うん。お父さんも、お疲れ様」

 声を顰めそう会話した後、父は左肩を揉みほぐしながら家に上がった。私は階段を下り、正面にあるリビングのドアを開けず、手洗いに行った父とは反対側に廊下を進み、直接キッチンへと向かった。

 ドアを開けると姉が居た。冷蔵庫の中を眺めているところだった。

「パパ帰って来ちゃったか」
「うん。お姉ちゃんお腹減ったの? カレー温め直すけど食べる?」
「カレーはいいや。ねぇ青、あれ作ってよ。パンの上にブルーチーズ乗せるやつ。すぐ出来るでしょ?」
「あぁ、フランスパンのあれね。わかった」
「じゃあ部屋で待ってるから。ワイングラスもお願い」

 父がリビングのドアを開けると、姉は白ワインを片手にそろりとキッチンの方のドアから廊下へと出た。気配を消して歩くその様子に、私は内心笑ってしまう。

「真白の顔見てきた。ぐっすりだな」
「うん。今日はゲームじゃなくて、公園でずっと駆け回ってたみたいだから。下着替えてから遊びに行ったのに、また汗びっしょり掻いて帰ってきたんだよ?」
「はははっ。良かった楽しそうで」

 笑う父の瞳が微かに揺れていた。母を早くに亡くした真白を想ってだろう。私の胸にも来るものがあった。

あかねは居るのか?」
「うん」
「なんだ、顔くらい見せてくれればいいのに」
「もうおっきいから、そんなもんじゃない? それにお姉ちゃん、反抗期長いから」

 私がそう話した瞬間、手で強く握られるような痛みが右肩に走った。

「青はしっかりしているな。カレー、茜が作ってくれたんだろ? メール来た」
『ざまぁみろ……』
「そうなんだ。はい、どうぞ。春雨サラダ。カレーはもう少しで温め終わるから。あとまぐろのカルパチョもどうぞ」
「これは青が作ったのか?」
「うん。美味しいかな?」
「ごめんな。まだ中学生なのに……。真白の事も、よく見ていてくれてありがとう」
「一応お姉ちゃんですから。というか全然楽しいし、真白の事もお料理も好きでしてるから気にしないで。本当だよ?」

 今度は両肩に強い痛みが走る。さすがに肩を回さないと辛い。

「土日は外食しような。真白ともいっぱい遊んでやらないと。青は何かしたい事はあるか?」
「えっと、じゃあ……映画観に行きたいっ。真白も観たい映画があるって言ってたし」

 映画なら父もその間はゆっくり過ごせるだろう。それに。

「お姉ちゃんもお買い物が出来るでしょ?」

 続けて私が言うと、右肩の痛みがすっと消えた。

「青は優しいなぁ」
「(痛たた)お父さん、お姉ちゃんの事も褒めてあげてね?」
「褒めてないか? まぁあんまり話してくれないからなぁ、茜は。明日、カレー美味しかったって言うよ」
「あはは……他の事でもいいかも……あ。これくらいでいいかな」

 焦げ付かないようにおたまをかき回して温めたカレーを、私はご飯の隣によそった。角が取れたじゃがいもに、人参と玉ねぎ。お肉は、母が豚肉と鶏肉が嫌いだったから牛肉。包丁を寝かせて潰した、にんにくも入れてあげる。

「いただきます。うん、春雨サラダも……うん、まぐろも美味しいよ。彩りもきれいだなぁ」
「ありがとう。真白にも野菜食べて欲しいもん」
「はは。あっそうだ、これ頂いたんだよ。タルトだって言ってたな。冷凍出来るらしいんだけど、好きな時に食べて」
「わっ。ありがとう!」

 両肩の重みが取れた。
 父に差し出された洋菓子店の紙袋に心が躍りつつも、ふと過ってしまった顔に、少しだけ気持ちが沈んでしまう。そしてやっぱり、私の予想どおり、2階から階段を下りる足音が聞こえてきたのだった。やれやれ。

「茜」
「ごめん、お姉ちゃん。今、チーズの用意するね?」

 キッチンのドアが開いて入ってきた姉を、私は素知らぬ顔で迎えた。

「ただいま、さっき帰ってきたところだぞ」
「待って、何それ?」
「茜……おかえりくらい言ったらどうだ」
「おかえり。で、何それ」
「タルトだって、お姉ちゃん。頂き物だよ?」
「へぇ~食べたい」
「じゃあチーズのは要らないね?」
「あぁ要らない要らない」
「はーい」
「何だ、青。チーズのって」
「薄くスライスしたフランスパンに、ブルーチーズ乗せるやつだよ。お母さんがよく、おやつに作ってたでしょ?」
「あぁ、あれか。でも茜、年の離れた妹に作らせないで、自分で用意したらいいだろう」
「何でパパは青の肩ばかり持つのよ! 私は仕事で疲れてるの! ちょっとくらいいいじゃない!」
「肩って……別にそういうつもりはないけど……あ、ほら茜。カレー美味しいぞ?」
「は? 何で私に言うのよ!」
「何でって、茜。お前が作ってくれたんだろ?」

「へ?」と、姉は時が止まったように固まった。

「あぁそう! 私が作ったの! 美味しいでしょー。仕事もして、料理もして、私って本当に偉いわよねぇ~~って事で、これ貰うわね」
「あっ。わっ、私も食べる~」
「何言ってんの~。あんたは明日、真白と食べればいいでしょう? 先に食べたら可哀想だよ」
「え……」

 先に食べたら、か……。確かに一理あるのかも……うーん。

 私が黙り、さらに姉が「酷いお姉ちゃんね」と言うと、父が勢いよく席を立った。

「茜、いい加減にしなさい! 青に食べさせないって言うなら、お前も食べるな!」
「ちょっ、ちょっと何でそこまで怒るのよ……っ。どうせパパは、私が可愛くないからそう言うんでしょ! 酷い!」
「話をすり替えるな!」

 父が剣幕を張ると姉は目に涙を浮かべ、紙袋を持ったまま部屋を出て行ってしまった。

『ふふっ……』
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