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うちの夫がやらかしたので、侯爵邸を売り飛ばします
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私は執務室のベルを鳴らし、執事のセバスチャンを呼んだ。
「セバスチャン、調べてほしいの……ナイザル男爵家のナタリーについて」
彼は昔から侯爵家に仕えている執事で、頼れる私の味方だった。
貴族の世界では不倫なんて日常だ。
正妻に子がいなければ、愛人に対する目はどこまでも甘くなる。
でも、それは正妻が受け入れた場合の話。
まずは知ることからだ。
感情より事実を。
それから、私は怒涛の日々を過ごした。
セバスチャンは旧い人脈を動かし、信頼できる調査員を手配してくれた。
数日で集まった情報は、想像以上だった。
夫とナタリーが関係を持ち始めたのは一年前。
彼女は二十二歳で、特に仕事はせず、家の手伝いをしているらしい。
実家のナイザル家は領地経営がうまくいっていなくて裕福ではない。
そしてこの一年、生活費の援助はすべてライアンが行っていて、その資金は侯爵家の財産から出されていた。
報告書を読んだ私は、思わずため息を漏らした。
「……私、彼の個人資産までは、注意を払っていなかったのね」
「旦那様は、毎月予算をきれいに使い切っておられます」
侯爵家の執務はすべて私が担っていたが、彼の金の使途にはあえて踏み込まなかった。
そもそも侯爵家の執務は、昨日今日でできるものではない。子どもの頃から英才教育を受け、それなりに政治も把握し、親族たちとも密に付き合いを続けなければならない。
ライアンには重荷だろうと思っていた。
だから、私が侯爵家の執務をこなして稼げば良いと考えていた。
そして、調査資料にすべて目を通した私は、ライアンに向き合うことにした。
「ライアン。ナタリーさんとの件、結論を出したわ。明日、おふたりに話がしたいの。彼女を屋敷に招いてくれる?」
グラスを置く彼の手が一瞬止まり、眉が動く。
「そうか……急だな……」
「きっと、あなたたちには嬉しい内容よ。どうぞ遠慮なくお越しくださいと伝えてほしいわ」
彼の顔がぱっと明るくなった。
「ありがとう、ルビー。やっぱり君は特別だ。愛してるよ」
なんて軽い愛の言葉。
それでも私は穏やかに微笑んだ。
「さっそく知らせに行ってきたらどうかしら?」
ライアンは椅子を押しのけ、そわそわと上着に袖を通した。
「ああ、そうするよ。良い知らせは早く伝えないとね」
そして、まるで舞い上がる子どものような足取りで屋敷を出て行った。
***
翌日の午後、ライアンはナタリーを連れて屋敷へやって来た。
初めて見る彼女は、確かに守ってあげたくなる雰囲気をまとっていた。
ふっくらした唇、潤んだ瞳、儚げな顔立ち。男の理想を丁寧に型取ったような令嬢だった。
「ルビー様……本当に申し訳ありません」
震える両手を胸の前で合わせ、目に涙を浮かべて頭を下げるナタリー。
泣き腫らした目が、彼女の“純粋さ”を物語っていた。
「こんなことになるなんて……まさか、奥様より先にお子を授かるなんて……」
「ナタリー、それは君の責任ではない。神が与えてくださった命なんだよ」
ライアンはナタリーの隣に腰を下ろし、優しく肩を抱いた。
この空間だけ、まるでふたりが夫婦のようだった。
私は微笑んで口を開く。
「選ばれたのですね、ナタリーさんは。旦那様のお子を授かった」
ナタリーは顔を覆い、小さくしゃくり上げながら泣き出した。
「うっ……うぅ……」
「ほら泣かないで。ルビーは誰よりも寛容な人なんだ。慈愛に満ちていて、僕にとっては女神のような存在だから。安心していい」
ライアンはそう言って、ナタリーの背中を優しくさすった。
「ふふ……女神だなんて大げさですわ。でも、お身体は大切にしてくださいね。お腹の赤ちゃんまで泣いてしまいますから」
私が笑顔を向けると、ナタリーはおずおずと顔を上げた。
「ありがとうございます……」
「ひとつ、確認させていただけますか」
私は声の調子を変えずに尋ねた。
「ライアンは、その子を私の子として育てると言っていました。それはあなたも同じお考えなのですか?」
ナタリーは黙り込み、やがて小さな声で答えた。
「……侯爵家のご支援なくしては、この子を育てることはできません。侯爵家の姓を授けていただけるなら、それが一番幸せだと思いました」
「けれど、産むのはあなたです。母親として、その子が他人に育てられ、他人の子として扱われるのは辛くありませんか?」
私が目をそらさずに問いかけると、ナタリーの唇が震え、ぽつりと漏れる。
「……確かに……私の子ですから……苦しいです」
その瞬間、ライアンがすかさず口を挟んだ。
「いや、ルビーが育てるわけじゃない。ナタリーが面倒を見るよ。乳母もいるし、授乳もある。ルビーは家政を続けてくれればそれでいいんだ。名義だけ、ネイルの跡継ぎにしておけばいい」
「それなら……私も子どもと一緒にいられるので、ありがたいです」
「この屋敷は広いし、自然もある。もし、お互いの生活に干渉したくなければ、離れを敷地内に建てることも可能だ。治安も良いし、子育てにも適してる」
まるで引っ越し先の案内でもしているかのように、ライアンは話を進めていく。
離れのことがすんなり口から出てくるとは……ずっと前から、計画を立てていたのかもしれない。
「セバスチャン、調べてほしいの……ナイザル男爵家のナタリーについて」
彼は昔から侯爵家に仕えている執事で、頼れる私の味方だった。
貴族の世界では不倫なんて日常だ。
正妻に子がいなければ、愛人に対する目はどこまでも甘くなる。
でも、それは正妻が受け入れた場合の話。
まずは知ることからだ。
感情より事実を。
それから、私は怒涛の日々を過ごした。
セバスチャンは旧い人脈を動かし、信頼できる調査員を手配してくれた。
数日で集まった情報は、想像以上だった。
夫とナタリーが関係を持ち始めたのは一年前。
彼女は二十二歳で、特に仕事はせず、家の手伝いをしているらしい。
実家のナイザル家は領地経営がうまくいっていなくて裕福ではない。
そしてこの一年、生活費の援助はすべてライアンが行っていて、その資金は侯爵家の財産から出されていた。
報告書を読んだ私は、思わずため息を漏らした。
「……私、彼の個人資産までは、注意を払っていなかったのね」
「旦那様は、毎月予算をきれいに使い切っておられます」
侯爵家の執務はすべて私が担っていたが、彼の金の使途にはあえて踏み込まなかった。
そもそも侯爵家の執務は、昨日今日でできるものではない。子どもの頃から英才教育を受け、それなりに政治も把握し、親族たちとも密に付き合いを続けなければならない。
ライアンには重荷だろうと思っていた。
だから、私が侯爵家の執務をこなして稼げば良いと考えていた。
そして、調査資料にすべて目を通した私は、ライアンに向き合うことにした。
「ライアン。ナタリーさんとの件、結論を出したわ。明日、おふたりに話がしたいの。彼女を屋敷に招いてくれる?」
グラスを置く彼の手が一瞬止まり、眉が動く。
「そうか……急だな……」
「きっと、あなたたちには嬉しい内容よ。どうぞ遠慮なくお越しくださいと伝えてほしいわ」
彼の顔がぱっと明るくなった。
「ありがとう、ルビー。やっぱり君は特別だ。愛してるよ」
なんて軽い愛の言葉。
それでも私は穏やかに微笑んだ。
「さっそく知らせに行ってきたらどうかしら?」
ライアンは椅子を押しのけ、そわそわと上着に袖を通した。
「ああ、そうするよ。良い知らせは早く伝えないとね」
そして、まるで舞い上がる子どものような足取りで屋敷を出て行った。
***
翌日の午後、ライアンはナタリーを連れて屋敷へやって来た。
初めて見る彼女は、確かに守ってあげたくなる雰囲気をまとっていた。
ふっくらした唇、潤んだ瞳、儚げな顔立ち。男の理想を丁寧に型取ったような令嬢だった。
「ルビー様……本当に申し訳ありません」
震える両手を胸の前で合わせ、目に涙を浮かべて頭を下げるナタリー。
泣き腫らした目が、彼女の“純粋さ”を物語っていた。
「こんなことになるなんて……まさか、奥様より先にお子を授かるなんて……」
「ナタリー、それは君の責任ではない。神が与えてくださった命なんだよ」
ライアンはナタリーの隣に腰を下ろし、優しく肩を抱いた。
この空間だけ、まるでふたりが夫婦のようだった。
私は微笑んで口を開く。
「選ばれたのですね、ナタリーさんは。旦那様のお子を授かった」
ナタリーは顔を覆い、小さくしゃくり上げながら泣き出した。
「うっ……うぅ……」
「ほら泣かないで。ルビーは誰よりも寛容な人なんだ。慈愛に満ちていて、僕にとっては女神のような存在だから。安心していい」
ライアンはそう言って、ナタリーの背中を優しくさすった。
「ふふ……女神だなんて大げさですわ。でも、お身体は大切にしてくださいね。お腹の赤ちゃんまで泣いてしまいますから」
私が笑顔を向けると、ナタリーはおずおずと顔を上げた。
「ありがとうございます……」
「ひとつ、確認させていただけますか」
私は声の調子を変えずに尋ねた。
「ライアンは、その子を私の子として育てると言っていました。それはあなたも同じお考えなのですか?」
ナタリーは黙り込み、やがて小さな声で答えた。
「……侯爵家のご支援なくしては、この子を育てることはできません。侯爵家の姓を授けていただけるなら、それが一番幸せだと思いました」
「けれど、産むのはあなたです。母親として、その子が他人に育てられ、他人の子として扱われるのは辛くありませんか?」
私が目をそらさずに問いかけると、ナタリーの唇が震え、ぽつりと漏れる。
「……確かに……私の子ですから……苦しいです」
その瞬間、ライアンがすかさず口を挟んだ。
「いや、ルビーが育てるわけじゃない。ナタリーが面倒を見るよ。乳母もいるし、授乳もある。ルビーは家政を続けてくれればそれでいいんだ。名義だけ、ネイルの跡継ぎにしておけばいい」
「それなら……私も子どもと一緒にいられるので、ありがたいです」
「この屋敷は広いし、自然もある。もし、お互いの生活に干渉したくなければ、離れを敷地内に建てることも可能だ。治安も良いし、子育てにも適してる」
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