あなたの一番になれなくて ~夫のシェアはできません~

おてんば松尾

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第13話 山上加奈

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マンションに帰り、私は夫の出方を緊張しながら待っていた。
朝、自分の部屋の扉を開けた瞬間から、鼓動がわずかに早まる。

この6日間、彼は何を考えていたのか。
私にどんな言葉をかけるのか。

予想していたのは、「夫が謝る」「夫が離婚を決める」「夫が私に選択を委ねる」この三つのパターン。
しかし、斗真さんの態度はそのどれでもなく、私の予想の斜め上をいっていた。




謝罪の言葉は一切なく、彼はすべてをなかったことにしようとしたのだ。

まるで、浮気などしていない真面目な夫のように、普段通りに接してくる。

「加奈おはよう。昨夜は遅くなって悪かったな」

「お……はよう」

……どうして?
言葉を失うほどの違和感。

彼は林優香と話をし、浮気が私にバレたことを知っているはずだ。
そして、私が佳乃の家に6日間泊まった理由も、理解しているはず。

「コーヒーを淹れたから飲んで」

「……」

それなのに、まるで何もなかったかのような態度。


普段通りに食卓に座り、何の躊躇もなく私の作った朝食を口に運んでいる。
箸を動かす手には、一切の動揺がない。

この肝の据わり方は何なのか。
大胆不敵と言うべきか、それともただ鈍感なだけなのか。
いったい、どれほど神経が図太いのか……逆に感心してしまう。


それから1週間が過ぎた。

……無風だった。


「斗真さん」

「なに?」

「私、欲しいものがあるんだけど」
「ん? いいよ。いつも家事を頑張ってくれている奥さんに、感謝を込めてプレゼントする」

その笑顔が怖い。
どこまでも普段通りを装っているのが逆に不気味だった。

私は、試しに揺さぶる作戦に出た。

「えっとね、このバッグなんだけど。これが欲しいの」

スマホの画面を斗真さんに向ける。
7万8千円のブランドバッグ、林優香にプレゼントしたものと同じ商品だ。

「……ああ、いいよ」

彼は一瞬ひるんだ。
スマホに映した画像を見て、ぎょっとしたように見えた。

「このブランドのバッグ、若い子に人気みたいなのよね」
「……へぇ、そうなんだ」
「じゃぁ、お言葉に甘えて、買うね」

声のトーンも変わらない。まるで何も気づいていないかのように。
それとも、気づいた上で装っているのか。
どちらにせよ、その余裕が、ひどく異様だった。

そして、また別の日。

「斗真さん」
「なに?」
「ちょっと、お金が必要になったから、100万貸してくれる?」

「ああ……いいよ」

おっと、100万円をゲットしてしまった。
そんな大金、使用目的を何も訊かないで貸すのは、どう考えてもおかしいでしょう。

いったいどこまでこれを続ける気なのか。

「……ああ、でも借りたら返さなくちゃいけなくなるから。100万円……くれる?」
「……ああ、もちろんいいよ」

思わず彼を二度見する。
彼の声は少し震えたように聞こえた。

さすがにこれは、尋常ではない。

……この人大丈夫かしら?
慰謝料を請求するまでもなく、むしろ自ら進んで身ぐるみ剥がれているような気さえする。

あれ以来、林優香から私への接触はない。

夫は職場から直帰し、まるで過去の自分を帳消しにするかのように、誠実な夫を演じている。
土日は車で買い物にも付き合い、冷蔵庫に入れるところまでしてくれる。
私が失敗して丸焦げにした魚は、何のためらいもなく平らげた。
その丈夫な胃袋スキルには、感動すら覚える。

浮気の証拠を掴むための「泳がす作戦」は、彼の直帰と共に、あっけなく崩れ去った。

それでも、とにかく私は夫のこの奇妙な変化を観察し続けた。

朝、彼はいつも通り、私にコーヒーを淹れてくれる。

会話は少ないが、私が話すことには真剣に耳を傾ける。
まるで、些細な一言も聞き逃してはならないかのように。
しんどくないのだろうか?
彼が絶対に興味を持たないであろう話題。「親鸞聖人の生涯と教え」について語ってみた。
それでも彼は真剣に聞いている“ふり”をする。
頷きのタイミングすら、妙に計算されているように感じる。


そして夫を観察し始めてから3ヶ月が経過していた。
最近、夫の顔色が少し悪く、眠れない様子がみられた。

このままでは、彼がストレスを溜めすぎてしまうのではないか。

そう思い始めた矢先。

彼の残業が増え始めた。

「最近、仕事が忙しいんだ」

そう言われ、私はただ微笑んでうなずいた。
けれど、私は知っている。
これは、本当の忙しさではない。

彼は、この家を避けている。
私と過ごす時間そのものが、負担になっているのだろう。
週末は、あれほど積極的に私と過ごしていたのに、最近は「疲れてるから」と言い、一人で過ごす時間が増えた。

それでも、私は問い詰めなかった。
問い詰めたい気持ちはある。
理由を知りたいとも思う。
でも、それをしたところで、彼の本音が聞けるとは思えない。

私は、待っているのだ。
彼が自ら罪を告白し、私に謝罪するのを。
問い詰めることで引き出す言葉ではなく、自らの意思で告げるものを。


***

久しぶりに報告も兼ねて佳乃とランチをしに来た。

「3ヶ月か……」

「そうね、彼、よく頑張ったと思うわ」

「それでも浮気を謝ったり、当時のことに触れようとはしなかったのね」

「ええ、3ヶ月一度もその話は出なかった。彼は罪悪感はあったはずだし、反省もしていたと思う。行動で表していたからね。なんか私の言いなりになっていた感じで、可哀そうに思えてきたの」

「加奈もさ、林優香のことには触れず、よく頑張ったわよね」

「最初は、浮気の証拠を取るために、知らない振りを続けたんだけど。彼女と接触した様子はなかったわ。多分完全に彼女を切ったと思う」

私が林優香との電話の会話を録音していた事実を夫は知らない。
それ自体なかったことにしようとしているけれど、妻が100万要求してきたり、高級品を強請ったりしていたことから、浮気の代償としてそれを支払ったと思っているんだろう。

「……で、どうするの?」

「離婚、してもいい。慰謝料分のお金は、もう彼からもらったから。そろそろ彼を解放してあげる時かもしれないわね」

「加奈はそれでいいの?」

「ええ。それでいいわ」

佳乃はぽかんと口を開けた。


「加奈、あなた山上さんを愛しているでしょう?だって、浮気されても許そうとしていたじゃない。なのにそんなに簡単に離婚してもいいの?」

「そうね、彼のことは嫌いになれない。最近は彼を観察するのが面白くて、一緒にいるのが楽しかった」

「それなのに離婚するの?」

「彼から、離婚したいって言われたらすんなり受け入れるつもりだったけれど、言いだしそうにないからね。私からそれとなくそういう方向へ持って行くつもりよ」

「話し合ってお互いの愛情を確かめ合うとかはないの?」

その機会は3ヶ月あった。
けれど、夫は話し合うことをしなかった。

「彼は浮気のことに触れられたくないのよ。何もなかったように振舞っているからね。だから、離婚理由としては性格の不一致とかそういうことになるんじゃないかしら」

「それで本当にいいの?」

私は、ただ静かに頷いた。
話し合いを待っていた時間は、長く感じられるかもしれないけれど、その間に彼の態度や行動がどう変わるのか、私の中でどんな感情が生まれるのか、自分自身を見つめる時間にもなったと思った。

これからは夫がいなくても生きていける。自分だけの幸せの道を探そうと思う。

「大丈夫よ、佳乃、これからもたくさん一緒に遊んでね」

「それは構わないけど……」

私は生ビールのおかわりを注文して、佳乃にもう一度乾杯しようと促した。



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