あなたの一番になれなくて ~夫のシェアはできません~

おてんば松尾

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第23話 山上斗真

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あの日、俺は、取り返しのつかないものを失った。

妻と真剣に話し合うこともなく、ただ言われるままに離婚を決めた。
その瞬間、心の奥で何かが音もなく砕け、もう二度と元には戻れないと悟った。

心の奥底にあったはずの何かが、すっぽりと抜け落ちた感覚が、いまだに続いている。

エンジニアとしての仕事も、ただの作業になった。PCの前で設計図を眺めても、何ひとつアイデアが浮かばない。
手を動かすだけのルーチンに追われ、会議の資料を作るだけの日々。
それを繰り返すことに、もはや何の意味も見出せなかった。

帰宅すれば、最初に目に飛び込むのは、出し忘れたゴミの山。
昨夜、なんとか夕食を済ませようと冷蔵庫を開けると、入っていたのはヨーグルトと缶ビールだけ。
結局、コンビニで弁当を買って温めた。それが今の「夕食」だ。
おにぎりやカップ麺の手軽さは助かるが、その味気なさには耐え難いものがある。

台所は汚れたままで、掃除をする気力も湧かない。
離婚が決まり、彼女が引っ越しの準備をしていたとき、俺は最後まで手伝った。
ふたりで掃除をした、あのささやかな時間さえ、今では遠い過去の幻だ。

何よりも重くのしかかるのは、喪失感だった。
妻がいなくなったことで、心の中心にはぽっかりと穴が空き、埋めようのない虚無が広がっている。

彼女への想いは、単なる「妻」という肩書きではなく、深く根を張った愛だったのだと、ようやく気づかされた。
加奈がいなくなった部屋には、彼女の優しい声も、清潔な香りも、そして未来さえも、何ひとつ残っていなかった。

なぜ、もっと早く謝れなかったのか。
なぜ、素直に話し合えなかったのか。
なぜ、思ったことをきちんと伝えられなかったのか……
気づいたときにはすべてが手遅れで、失ったものの大きさに押しつぶされ、後悔の底に沈んでいった。

それでも、俺は毎日ルーチンに身を委ね、心も体も、ギリギリのところでなんとか踏ん張っていた。

「俺は平凡なのが不満だった……変わり映えのない日常に、嫌気がさしていたはずなのに……」

それしか言葉が出てこなかった。

心の奥にあったはずの大切なものは、何気ない平凡な日常から生まれていた。
確かにそこにあったはずなのに、気づかなかった。
今、それは静かに零れ落ち、どこを探しても見つからない。

加奈は、俺が用意した500万円の慰謝料を受け取らなかった。
ネットで調べたところ、慰謝料にもいろいろあるらしい。
俺の場合、浮気の証拠は不十分で、悪質性も高くないため、弁護士を挟んでも100万円程度が妥当だという。

加奈は、以前渡したその100万円で十分だと言った。

「あなたの浮気がきっかけだったけど、離婚の原因は性格の不一致よ。お互い、結婚生活に求めていたものが違ったのね」

そう言って、彼女は静かに微笑んだ。

結局、倦怠期を乗り越えられなかった夫婦が、静かに離婚した。
それが、俺たちの結末だったのだろう。

***

部屋に広がる静寂の中で、俺はゆっくりと視線を巡らせた。
積み重なった雑誌、埃をかぶった家具、出し忘れたゴミ袋。
すべてが、離婚してからの停滞を物語っている。
妻が出て行ってから、俺は小汚いおっさんに成り果てていた。

ちゃんと前を向かなければ。このままでは終われない。
今度こそ後悔しないように、人生を立て直さなければならない。

そう決意し、深く息を吸い込んで、一枚のシャツを手に取る。
しわくちゃになったそれを見つめ、ふと鏡に映る自分を見た。
くたびれた顔。疲れきった瞳。
まるで、過去に取り憑かれた亡霊のようだった。

「もう、こんな俺は終わりだ」

小さく呟いたあと、まずは掃除に取りかかった。
不要なものを捨て、床を磨き、窓を開け放つ。
新鮮な風が流れ込み、部屋に新しい空気が吹き込まれた。

次に、身なりを整える。
伸び放題だった髪をセットし、無精髭を剃り、クローゼットの奥からまともなシャツを取り出す。
服を着替えた瞬間、自然と背筋が伸びた。

部屋が整えば、次は自分自身だ。
スポーツジムに行き、体を鍛え直す。
汗を流しながら、しがみついていた過去の記憶を、少しずつ手放していく。

ある平日、ふとぽっかりと時間が空いた。
髪を切りに行こうと思い、ついでにしばらく買っていなかったコーヒー豆を手に入れるため、外に出た。
以前は喫茶店まで足を運んで豆を買っていたが、今はネットでの注文が便利で安いと気づき、ずっと通販で済ませていた。

久しぶりに、喫茶スミレの扉を押した。

店内は変わらず静かで、ゆったりとした時間が流れている。
窓際の席に腰を下ろし、ブレンドコーヒーを注文した。

こうして誰かにコーヒーを淹れてもらうのは、ずいぶん久しぶりだった。
それだけで、不思議と味が違うように感じられる。
湯気がゆるやかに立ち上り、コーヒー豆の香ばしさが鼻をくすぐる。

もしかして、店の主人が変わったのか?
そう思いながらカウンターに目を向けると、そこには以前と変わらぬ夫人の姿があった。

母親ほどの年齢だろうか。柔らかな雰囲気をまとい、穏やかな笑みを浮かべて客を迎えている。
その仕草のひとつひとつに、この店で積み重ねてきた年月が滲んでいた。

苦みのあるコーヒーをひと口含む。
この苦味が、人生の新しい味なのだ……そう思うことにした。

過去は過去。
だが未来は、まだ白紙のまま。
何を書き込むかは、これからの自分次第だ。

俺は静かに微笑みながら、喫茶店の窓から道行く人々を眺めていた。

そのとき、背後から声がかかった。

「お客さん、お久しぶりですね」

顔を向けると、夫人が変わらぬ笑みで立っていた。
俺が何度も豆を買いに来ていたことを、覚えてくれていたらしい。

「ええ、しばらくご無沙汰していました。忙しくて、なかなか時間が取れなくて」

そう答え、持ち帰り用のコーヒー豆を頼んだ。
夫人はうなずき、カウンターの中へ戻っていった。

やがて会計をするため、レジへ向かう。
夫人は準備していた豆を袋に入れながら、窓の外へと視線をやった。

その瞬間。

見覚えのある女性が、通りを歩いていくのが見えた。

思わず「あっ」と声が出る。
俺の視線を追った夫人が、その女性を見て言った。

「ああ、あの方はうちの常連さんで、毎朝コーヒーを飲みに来ているんですよ」

思わず目を見開き、言葉を失った。
夫人に静かに頭を下げ、もう一度、窓の外へ目をやる。

手渡されたコーヒー豆の袋からは、深く芳醇な香りが漂っていた。
その香りは店内の空気にすっと溶け込み、心を静かに揺らす。

信じられないほどの偶然。
それでも確信できる。

……あれは、加奈だ。
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