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6 事実を伝える
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* ミリアside
焚火のそばで、大木の幹にもたれながら私は母に抱きしめられていた。
26歳大人の女が、母親に抱きしめられながら眠るなんて不思議な感覚だ。
でも、これはこれでかなり幸せな気分になる。
何より、ティナがミリアを心から愛しているということが伝わってくる。
「ミリア……あなた……」
「なに?」
ためらいがちに母は言葉を探していた。
「あなた……お父様が戻らないのを知っていたの?」
「うーん、ええと……」
適切な言葉が見つからない。
焚火の炎がゆっくりと母の横顔を照らしていた。
「お母様……お父様は戻ってこないわ」
「そう、思っていたのね……」
私は黙って頷いた。
少なくとも母は最近の父の様子を見て気がついていたはずだ。
私たちに関心がないということを。
「私、お母様がいれば、それで幸せ!」
「そう……なのね」
母は寂しそうに笑った。
今、物語の筋書きは覆された。
何しろ、私は生き延びたのだから。
つまり、この先に広がるのは、誰も踏み入れたことのない未知の世界だ。
物語をどう進めていくかは、私自身の選択と行動に委ねられている。
***
私は意を決して、物語の中で繰り広げられたジェイの悪事を母に伝えることにした。
作中、ミリアはティナに心配をかけまいと、どれほどいじわるをされても黙って耐えていた。
それは、五歳の子どもにとってはあまりにも酷で、耐え難いことだったに違いない。
健気というべきか、我慢強いというべきか。
子どもという立場ゆえに仕方のないことだったのかもしれない。
けれど、あのときミリアが母に打ち明けていれば、あの悲劇は防げたのではないかと思わずにはいられない。
私はそのすべてを知っている。
だからこそ、今度こそ、ミリアに何があったのかを、ティナにきちんと伝えることができる。
「お母様、私は桟橋でジェイに蹴り落とされたの」
はっとした表情で私を見つめる。
「……やっぱり、そうだったのね……」
母の声は震え、怒りがこもっているのが分かる。
私は静かに頷いた。
母の心臓の鼓動が、抱きしめられた私の耳に響く。
「今までにも何度もいじわるをされたわ。大事なお人形を焼却炉に入れられたり、髪をハサミで切られたり。叩かれたりつねられたり。でも、それをお父様に言っても信じてもらえなかったし、エリザベス伯母様は子ども同士の喧嘩だって言ってごまかしていた」
「そんな……」
まさか、そこまでジェイに酷いことをされていたとは思っていなかったのか、母の顔色は見る見るうちに青褪めていった。
「髪を……なぜ、言わなかったの……」
「お母様に心配をかけたくなかったから」
母は目を伏せて、そっと涙をぬぐった。
「桟橋でのことは、きっと事故だって言われて終わってしまうわ。けれど、私は死んでいたかもしれない。泳げないことを知っているジェイが、わざと私を湖に蹴り落としたのだから」
母は黙って聞いていた。
目を細めて私を見つめる仕草に、後悔と懺悔の気持ちが滲んでいた。
母はきっと自分が悪かったと感じている。
けれど、それは違う。
罪を背負うべきはジェイであって、母の優しさにつけ込んだジェイとすべての元凶である……
ブライアン、父だ。
「お母様はお父様を愛しているわよね?」
「ええ……ミリアもお父様を愛しているでしょう?」
母に事実をしっかりと認識させなければならない。
「私たちがお父様を愛していても、お父様は私たちを愛していないと思うわ」
「そ…………」
「水に落ちた私と、たかだか捻挫しただけのジェイを比べて、彼を助けたわ。そして、今、私たちを湖に放置して迎えにも来ない」
「ジェイは、ただの捻挫だったの?あんなに泣いて痛がっていたわ……」
どう見ても演技だったじゃない。
母は見ていなかったのだろうか?
私を助けることに必死で、周りを気にしていなかったのか?
「桟橋の手すりにぶつけただけで、自分でやって自分で怪我したの。足をバタバタさせて、暴れていたでしょう?もし、折れていたのなら、あんなに足は動かないわ」
母は当時の状況を思い出しているようだった。確かにそうだと思ったのか、深く頷いた。
「こんな寒さの中、娘がずぶ濡れになった状態で父は屋外に私たちを放置した。大事なはずの、妻と子のことをすっかり忘れて、自分は侯爵家でぬくぬくとワインを飲んでいるわ」
ワインを飲んでいるのかどうかはしらないけど、ちょっと色をつけて話す。
そして、いったん言葉を切って、私ははっきりと宣言した。
「そんな人に父親を名乗る資格なんてない!お父様はいらないわ!」
母は目を大きく見開き、言葉を失っていた。
「愛している人を大切にできないなんて、それは、本当の愛ではない。お父様は、エリザベス伯母さまとジェイを選んだ。そしてクレメンツ侯爵家を選んで、ルノー伯爵家のことはないがしろにしている。現実はそうなの」
「ミリア、あなた……そんなことを考えていたの?」
五歳の子どもが話すような内容ではないだろう。怪しまれるかもしれない?
けれど、今は緊急事態だ。そんな中で、母が細かいことにまで気を配る余裕なんて、きっとない……そう信じたい。
「ええ、そうよ。お父様は私たちを迎えに来ることを忘れているの。きっと、誰かが迎えに行っただろうと勝手に思い込んでいるわ。その無責任な考えが、まさにクズの極みよ!」
「……きわ、み?」
私は急いで咳払いをした。
「ジェイは、上手く大人たちを丸め込むの。口だけは達者だし、嘘をついても誰もそれを疑わない。彼は、自分に都合のいいことだけを口にするわ。今回もきっと、私を湖に落としたのに、私が自ら湖に飛び込んだって言うはずだわ」
「そんな無茶な言い分は、誰も信じないわ!」
「信じないと……思う?」
そっと母の目を見つめ返した。
「これまでのことを思い出してみて。ジェイがどんなふうに振る舞ってきたか、誰がどんなふうに私を扱ってきたか。お母様なら、きっとわかるはずよ」
母は言葉を失い、ただ私の顔を見つめていた。
焚火の炎が揺れて、母の瞳に映る影が揺らめく。
「私はもう、黙っているつもりはないの。あのときの私とは違う。今度こそ、真実を伝えるわ」
母の瞳に、かすかな決意が宿った。
「……わかったわ、ミリア。あなたの言葉を信じる。今度こそ、見て見ぬふりはしない」
私は小さく微笑んだ。
物語は、確かに変わり始めている。
* ティナside
「……ブライアン」
あたりは静まり返っている。
ブランケットにくるまって小さな寝息を立てる娘の頬を、そっと撫でた。
……誰も助けになんて来ない。
こんな夜中に暗い林道を駆けて、湖に来る者などいない。
「久しぶりなのだから、泊まってくるといい」
馬車の前まで送ってくれた父は、「久しぶりだから、侯爵邸に泊まってくればいい」と言って私たちを送り出してくれた。
私たちが、帰らないことをおかしいとは思わないはずだ。
焚火の音だけが耳に残る。
私は夜空を見上げた。
雲の切れ間から、わずかに月の光が漏れている。
「ブライアン……あなたを……絶対に許さない……」
ミリアを胸に抱きしめ、喉の奥から絞り出すような声で呻いた。
森は沈黙に包まれ、私と娘の影が火に照らされて、湿った地面に伸びていた。
湖面は静寂に沈み、まるで痛みを知るかのように、霧がそのすべてを覆っていった。
焚火のそばで、大木の幹にもたれながら私は母に抱きしめられていた。
26歳大人の女が、母親に抱きしめられながら眠るなんて不思議な感覚だ。
でも、これはこれでかなり幸せな気分になる。
何より、ティナがミリアを心から愛しているということが伝わってくる。
「ミリア……あなた……」
「なに?」
ためらいがちに母は言葉を探していた。
「あなた……お父様が戻らないのを知っていたの?」
「うーん、ええと……」
適切な言葉が見つからない。
焚火の炎がゆっくりと母の横顔を照らしていた。
「お母様……お父様は戻ってこないわ」
「そう、思っていたのね……」
私は黙って頷いた。
少なくとも母は最近の父の様子を見て気がついていたはずだ。
私たちに関心がないということを。
「私、お母様がいれば、それで幸せ!」
「そう……なのね」
母は寂しそうに笑った。
今、物語の筋書きは覆された。
何しろ、私は生き延びたのだから。
つまり、この先に広がるのは、誰も踏み入れたことのない未知の世界だ。
物語をどう進めていくかは、私自身の選択と行動に委ねられている。
***
私は意を決して、物語の中で繰り広げられたジェイの悪事を母に伝えることにした。
作中、ミリアはティナに心配をかけまいと、どれほどいじわるをされても黙って耐えていた。
それは、五歳の子どもにとってはあまりにも酷で、耐え難いことだったに違いない。
健気というべきか、我慢強いというべきか。
子どもという立場ゆえに仕方のないことだったのかもしれない。
けれど、あのときミリアが母に打ち明けていれば、あの悲劇は防げたのではないかと思わずにはいられない。
私はそのすべてを知っている。
だからこそ、今度こそ、ミリアに何があったのかを、ティナにきちんと伝えることができる。
「お母様、私は桟橋でジェイに蹴り落とされたの」
はっとした表情で私を見つめる。
「……やっぱり、そうだったのね……」
母の声は震え、怒りがこもっているのが分かる。
私は静かに頷いた。
母の心臓の鼓動が、抱きしめられた私の耳に響く。
「今までにも何度もいじわるをされたわ。大事なお人形を焼却炉に入れられたり、髪をハサミで切られたり。叩かれたりつねられたり。でも、それをお父様に言っても信じてもらえなかったし、エリザベス伯母様は子ども同士の喧嘩だって言ってごまかしていた」
「そんな……」
まさか、そこまでジェイに酷いことをされていたとは思っていなかったのか、母の顔色は見る見るうちに青褪めていった。
「髪を……なぜ、言わなかったの……」
「お母様に心配をかけたくなかったから」
母は目を伏せて、そっと涙をぬぐった。
「桟橋でのことは、きっと事故だって言われて終わってしまうわ。けれど、私は死んでいたかもしれない。泳げないことを知っているジェイが、わざと私を湖に蹴り落としたのだから」
母は黙って聞いていた。
目を細めて私を見つめる仕草に、後悔と懺悔の気持ちが滲んでいた。
母はきっと自分が悪かったと感じている。
けれど、それは違う。
罪を背負うべきはジェイであって、母の優しさにつけ込んだジェイとすべての元凶である……
ブライアン、父だ。
「お母様はお父様を愛しているわよね?」
「ええ……ミリアもお父様を愛しているでしょう?」
母に事実をしっかりと認識させなければならない。
「私たちがお父様を愛していても、お父様は私たちを愛していないと思うわ」
「そ…………」
「水に落ちた私と、たかだか捻挫しただけのジェイを比べて、彼を助けたわ。そして、今、私たちを湖に放置して迎えにも来ない」
「ジェイは、ただの捻挫だったの?あんなに泣いて痛がっていたわ……」
どう見ても演技だったじゃない。
母は見ていなかったのだろうか?
私を助けることに必死で、周りを気にしていなかったのか?
「桟橋の手すりにぶつけただけで、自分でやって自分で怪我したの。足をバタバタさせて、暴れていたでしょう?もし、折れていたのなら、あんなに足は動かないわ」
母は当時の状況を思い出しているようだった。確かにそうだと思ったのか、深く頷いた。
「こんな寒さの中、娘がずぶ濡れになった状態で父は屋外に私たちを放置した。大事なはずの、妻と子のことをすっかり忘れて、自分は侯爵家でぬくぬくとワインを飲んでいるわ」
ワインを飲んでいるのかどうかはしらないけど、ちょっと色をつけて話す。
そして、いったん言葉を切って、私ははっきりと宣言した。
「そんな人に父親を名乗る資格なんてない!お父様はいらないわ!」
母は目を大きく見開き、言葉を失っていた。
「愛している人を大切にできないなんて、それは、本当の愛ではない。お父様は、エリザベス伯母さまとジェイを選んだ。そしてクレメンツ侯爵家を選んで、ルノー伯爵家のことはないがしろにしている。現実はそうなの」
「ミリア、あなた……そんなことを考えていたの?」
五歳の子どもが話すような内容ではないだろう。怪しまれるかもしれない?
けれど、今は緊急事態だ。そんな中で、母が細かいことにまで気を配る余裕なんて、きっとない……そう信じたい。
「ええ、そうよ。お父様は私たちを迎えに来ることを忘れているの。きっと、誰かが迎えに行っただろうと勝手に思い込んでいるわ。その無責任な考えが、まさにクズの極みよ!」
「……きわ、み?」
私は急いで咳払いをした。
「ジェイは、上手く大人たちを丸め込むの。口だけは達者だし、嘘をついても誰もそれを疑わない。彼は、自分に都合のいいことだけを口にするわ。今回もきっと、私を湖に落としたのに、私が自ら湖に飛び込んだって言うはずだわ」
「そんな無茶な言い分は、誰も信じないわ!」
「信じないと……思う?」
そっと母の目を見つめ返した。
「これまでのことを思い出してみて。ジェイがどんなふうに振る舞ってきたか、誰がどんなふうに私を扱ってきたか。お母様なら、きっとわかるはずよ」
母は言葉を失い、ただ私の顔を見つめていた。
焚火の炎が揺れて、母の瞳に映る影が揺らめく。
「私はもう、黙っているつもりはないの。あのときの私とは違う。今度こそ、真実を伝えるわ」
母の瞳に、かすかな決意が宿った。
「……わかったわ、ミリア。あなたの言葉を信じる。今度こそ、見て見ぬふりはしない」
私は小さく微笑んだ。
物語は、確かに変わり始めている。
* ティナside
「……ブライアン」
あたりは静まり返っている。
ブランケットにくるまって小さな寝息を立てる娘の頬を、そっと撫でた。
……誰も助けになんて来ない。
こんな夜中に暗い林道を駆けて、湖に来る者などいない。
「久しぶりなのだから、泊まってくるといい」
馬車の前まで送ってくれた父は、「久しぶりだから、侯爵邸に泊まってくればいい」と言って私たちを送り出してくれた。
私たちが、帰らないことをおかしいとは思わないはずだ。
焚火の音だけが耳に残る。
私は夜空を見上げた。
雲の切れ間から、わずかに月の光が漏れている。
「ブライアン……あなたを……絶対に許さない……」
ミリアを胸に抱きしめ、喉の奥から絞り出すような声で呻いた。
森は沈黙に包まれ、私と娘の影が火に照らされて、湿った地面に伸びていた。
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