悲劇の悪女【改稿版】

おてんば松尾

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7 ルノー伯爵家

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* ティナside


うっすらと空が白み、朝の気配が辺りを静かに包んでいた。
湖は霧でかすんで、鳥たちの鳴き声がする。

夜の冷たさがまだ地面に残り、吐く息が白い。
焚火の火は、たくさん薪を集めていたおかげで朝までもった。

小さく丸まって眠る娘の体をそっと抱きしめ、その額へ唇を押し当てた。


娘を静かにブランケットに横たえ、優しく髪を整えた。

「ミリア……すぐに、連れて帰るからね……」

小さく呟いた。

昨夜は眠らずにずっと娘を抱きしめていた。
火が消えるのが怖かったし、ミリアが話した父親に対する思いも気になった。

疲労もあるが、精神的な衝撃のほうが大きかった。

体中の筋肉が悲鳴を上げるみたいに痛んだ。

立ち上がった私は、ゆっくりと林道の方を目指した。
重たい足を前に進め、ミリアの姿が見えるギリギリの場所まで歩いた。

朝露に濡れた髪は肩に張り付き、唇は青ざめている。
外で一夜を過ごし、寝ずに朝を待ったので体力も気力も限界だった。

林道に出れば、誰かが通るだろう。
そう思い耳をすます。

風の音が止むたびに、誰かの声が聞こえたような気がして視線を向ける。
だが、それはただの幻聴だった。

私は蛇行する道の先をじっと見つめた。

静寂を破るように、車輪の音が遠くから響いてくる。
それは、野菜を積んだ荷車だった。朝の収穫を終えた帰りのようだ。

私はふらつきながらも、道の真ん中に立ち、両手を広げた。

「止まって……お願い……!」

牛がぶるんと首を振って、荷車が急停止した。

「お、おい……どうしたんだ、あんた!」

運転していた農夫が、ぎょっと目を見開く。

私は震える唇で言葉を絞り出した。

「娘を……伯爵家まで……連れて帰りたいの……お願い……」


男は貴族風の女性がこんな明け方に森にいることを怪しんでいた。
面倒なことには巻き込まれたくないといった様子だ。

私は腕に巻かれていた細いブレスレットを外し、農夫の手に渡した。
細い銀の飾りが、男の掌で鈍く光る。

「これを……あげるわ……あの子を……家まで……」

言い終えると、その場に膝をついた。
息が浅くなり、世界が遠のいていく。

霧の中で、男の声がかすかに響いた。

「おい、大丈夫か……?しっかりしな!」

けれど、私の目はすでに焦点を失っていた。


頬を、涙が静かに伝った。


***


ルノー伯爵家の広間。

重い空気の中に父と母、従妹のナタリー、使用人たちが集まっていた。

誰もが私たちが湖に放置されたことに怒りをあらわにした。

一晩中森で過ごしたミリアは、湖に落ちたショックと寒さから高熱を出していた。
熱にうなされるミリアの姿に、うつむいて涙を流しているメイドもいる。

医師は、極度の緊張状態であったことも熱が出た原因だと言っていた。

今、ミリアは薬を飲んで、ベッドで眠っている。


疲れ切った私は、長椅子の背もたれにぐったりと身を預けていた。
目を開ける力もなく、唇は乾ききり、指先すら動かなかった。


しばらくして、私は途切れ途切れに、何が起きたのかを屋敷の皆に語り始めた。
話を聞くうちに、母のシルビアは、みるみる顔色を失っていく。

ミリアの侍女は、震える手で口元を押さえて嗚咽を漏らした。

「どうして……ミリアが、湖に落とされなければならないの……」

倒れかけた母の肩を、従姉妹のナタリーが慌てて支えた。
ナタリーは現在、第三王子の妃として王族の一員となっている。

「ブライアンはエリザベスと先に馬車で帰っただと?」
「迎えも寄こさないなんて……!」

部屋には張り詰めた緊張感が漂っていた。

家族は私たちが、ブライアンの実家に泊まったと思っていたという。
昨日父は、久しぶりに会うのだから、ゆっくりしてくるようにと言って私たちを送り出してくれた。

「なぜブライアン様は帰ってこなかったのですか!ご自分は実家に帰って、音沙汰なしだなんて!」
たまりかねた様子で古参のメイドが肩を震わせた。

「信じられないわ……そんな人間、父親じゃないわ!」
ナタリーは激怒する。

「彼は……迎えに来ると言ったの。なのに、どれだけ待っても誰も来なかった。ジェイが重傷だから先に医者に診せなければならないと言って」
私は静かに答えた。

「重傷って……だとしても、ミリアは溺れたんだぞ!」
「……自分の娘を見捨てて……ジェイを助けたのね……!」

父と母はいら立ちを隠せない。

「今すぐ……ブライアンをクレメンツ家から呼び戻せ!」

父の低い声が怒気を孕んで空気を震わせた。


「殴ってでも奴を引きずってこい!」
「俺が行ってくる!」
「私が参ります!」

昨夜、ブライアンは伯爵家へ戻ってこなかったようだ。もし、戻っていたら、少なくともミリアたちが帰っていないと分かったはずだ。
結局、ミリアの安否確認すら彼は行わなかったのだ。


「……待って!」

私は叫んだ。

「私が……私が直接行くわ。ミリアが高熱で苦しんでいること、なぜ迎えに来なかったのか、ブライアンに直接問いただす」

「何を言っているの!ティナ、あなたは体も心も限界なのよ!これ以上無理をしたら倒れてしまうわ!」

母とナタリーが驚いた様子で私を止めた。

私はゆっくりと首を横に振った。

「だから、私が伝えるのよ……」

もう我慢できなかった。
ブライアンに、自分の口ではっきり言ってやりたかった。

あなたは娘を殺しかけたのだと。


顎の先から、涙の雫がぽとりと落ちて私の服を濡らした。



突然、静けさを破るように使用人が駆け込んできた。
顔を青ざめさせ、震える声で言う。

「お、恐れながら……医者の話では、クレメンツ侯爵家のジェイ様は……捻挫だったそうです……」

広間が一瞬で静まり返る。

次の瞬間、誰かが椅子を蹴り飛ばした。

「な、何だと!?……捻挫だと!?そんな、そんな軽傷のためにミリアを見捨てたのか!」

父の怒号が響き、窓ガラスが震えた。



そのとき、壁際で静かな声がした。

「私がティナと共に参りましょう」

低音で落ち着いたその声は、大公の息子であるアズル大公子のものだった。
偶然仕事の関係で伯爵家へ立ち寄った彼は、ミリアたちの件についても、事情を把握することになった。


アズルには、ミリアと同じ年頃の息子がいた。
彼はルノー伯爵家とは長年にわたり外交の面で深い付き合いがあった。
特に、国外との物資のやり取りに関する調整では、輸入業を営む伯爵家の助けが大きな支えとなっていた。

アズルが今回の件を気にかけたのは、伯爵家との昔からのつながりもあり、ミリアと彼の息子イーライは、小さいころから一緒に遊ぶ仲だったからだ。

かつてアズルは、隣国の王女を妻に迎えたが、結婚生活は長くは続かなかった。
今では、彼が息子を引き取り、一人で育てていた。




~~~~~~~~~~~~~~~~~~



《ルノー伯爵家》

ティナ・ルノー :ブライアンの妻
ブライアン・ルノー=クレメンツ :ティナの夫
ミリア(五歳) :ティナとブライアンの娘
ナタリー    :ティナの従姉妹第三王子の妃
アズル     :大公子
イーライ(八歳):大公子の息子
メアリー    :ティナのメイド

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