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8 母として
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* ティナside
アズルは灰青の瞳と紺髪を持つ大公子である。
静かで威厳がありながら、話すと柔らかく誠実な人柄だ。
「それは控えたほうがいいと思います。ご立場もありますし」
ナタリーが彼を止めた。
確かに、彼は大公の息子だ。
何の前触れもなく侯爵家を訪れるのは、さすがに問題があるだろう。
「だが、命の危険があったのだ。無視はできない」
「大ごとになってしまいます。仮にもアズル様は王族に次ぐ高位貴族なのですから」
ナタリーは首を横に振った。
私は、夫に対して文句を言いに行くようなものだ。
こんな夫婦喧嘩のようなものに、アズルを付き合わせるわけにはいかない。
「ミリア嬢は、私もよく知っている。息子の友人でもあるし、私も同行したい」
アズルは昔から、ティナとミリアを心から気遣ってくれている。
「アズル様。ありがたいお申し出ですが、まずは私が妻として、夫に直接会ってまいります」
そう言って、私は彼の同行を丁寧に断った。
大公子を私的な事情に巻き込むわけにはいかない。
ブライアンの侯爵家の人たちは、使用人も含め、伯爵家を見下していた。
アズルはそのことも気にかけて、きっと同行を申し出てくれたのだ。
彼の気遣いがただただありがたく、胸が熱くなった。
親戚たちや友人たちがそばにいてくれる。
私は思った。
ブライアンがいなくても、私とミリアには心強い味方が大勢いる。
夫に対する無駄な努力も、無意味な願いも、もう必要ない。
ブライアンに自らの過ちを認めさせ、その責任を取らせること。
そして、相応の代償を払わせること。
それが私の決めた、母として果たすべき責任だった。
***
私は護衛と侍女と共に、馬車でクレメンツ侯爵家の大門をくぐった。
曇天の下、屋敷を囲む白い石壁は、まるで冷たさを放つように鈍く光っていた。
「私が伝えに行きます。あなたたちはここで待機して」
そう告げた私に、横に座っていた侍女のメアリーが心配そうに首を振った。
「ティナ様、それは駄目です。侯爵家は伯爵家に対して厳しい態度を取られますので」
「ティナ様はとても疲れていらっしゃいます。それに危険です」
上辺ではない、嘘のない彼の本心を知るには、私一人で行くことが重要だと思っていた。
私は、ブライアンの本当の気持ちが知りたかった。
彼が、どういう気で私とミリアを置き去りにしたのかを。
「私はミリアの母親よ。夫に伝えるべきことは、私自身が伝えるわ」
しばしの沈黙の後、護衛は静かにうなずいた。
「……承知しました。何かあればすぐに駆けつけますので、メアリーだけは連れて行ってください」
「ティナ様、私が支えますので……」
メアリーがそっと私の腕を取った。
「わかったわ」
彼らもきっと不安なのだろう。
気遣いの気持ちがうれしかった。
そして私は、クレメンツ侯爵邸の重い扉を叩いたのだった。
***
執事が玄関の扉を開けた。
しかし、彼からは出迎えの言葉ひとつなかった。
侯爵家の執事とは思えない、行き届かぬ振る舞い。なんともお粗末だ。
彼は遠慮のない視線を私に向けると、無言のまま応接室へと案内した。
メアリーは、廊下で待つよう命じられていた。
相手は使用人とはいえ侯爵家。メアリーに逆らう術などない。
応接室では、義母のカリオペとエリザベス、そしてブライアンが紅茶を楽しんでいた。
エリザベスの絹のドレスの裾が優雅に揺れ、甘い香水の香りが部屋中に漂っている。
彼女はまるで何事も起きていないかのように微笑んでいる。
置き去りにされたミリアのことなど、最初から関係ないと言わんばかりに。
私は意を決して話し始めた。
「……ミリアは高熱で倒れました。ずぶ濡れのまま放置されましたので」
その一言で、室内の空気が一変した。
ざわりと空気が張り詰め、三人の視線が一斉に私へと向けられる。
最初に口を開いたのはブライアンだった。
ゆるく首を振り、口元だけをわずかに釣り上げる。だが、目はまったく笑っていない。
「何を言ってるんだ、ティナ。冗談はやめてくれ。あの子は健康だろう。子どもの熱くらい気にすることはない……君は疲れているようだね」
事の重大さを理解しようともしない、その薄情な言葉に苛立った。
私は堪えきれず、言葉を重ねる。
「あの夜、あなたは湖に戻ってこなかった。ミリアは、ジェイに湖へ蹴り落とされたのよ!」
「もうやめて!」
エリザベスが鋭く声を上げ、私の言葉を遮った。
香水の香りが室内の空気を揺らした。
「ミリアと私は……ずっとあなたを待っていたわ」
そう言った瞬間、押し込めていた涙がこみ上げてきた。
必死に奥歯を噛みしめて堪えた。
「いい加減にしなさい、ティナ!」
義母カリオペがぴしゃりと言った。
「馬車に乗れなかったことを、そこまで気にする必要があるかしら?結局、ちゃんと帰れたのでしょう。いちいち文句を言いに来るなんて、みっともないわね」
その顔には怒りよりも、呆れが先に立っているようだった。
「どうやって帰ったと思っているんですか!私たちは明け方、荷車で帰ったんです!」
「ティナ!」
ブライアンが私の言葉を遮った。
まるで駄々をこねる子どもを叱るような声だった。
彼はため息をつくと、今度は優しく話しかけてきた。
「……ティナ、君は思い込みが激しい。そんな嘘をつかなくてもいい。俺は君の夫だしミリアの父親だ。心配しなくても伯爵家に戻るから、安心していいんだよ」
荷車の話を冗談だと、本気で思っている顔だった。
「妻も自分の子も気にならないなんて……なんて薄情な人なの。父親である資格なんて、あなたにはない!」
「昨日は遅くなってしまったんだ。帰れなかったくらいで“父親ではない”と言われても困るよ」
「そうよ、ブライアンはずぶ濡れで大変だったのよ」
エリザベスがさも当然のように口を挟む。
その横顔には、申し訳なさのかけらもなかった。
「ブライアンが風邪でもひいたらどうするの。あなたは妻でしょう。そんなことも考えられないの?」
私は言葉を失った。
「自分たちのことばかり言って、君はちゃんと周りを見るべきだよ」
侯爵家の誰ひとり、私の言葉を受け止めようとしない。
使用人たちですら、あきれたような表情だ。
「興奮しないでくれ、ティナ。君が落ち着いてから話そう……今はもう、伯爵家へ戻ったほうがいい」
ブライアンの苦笑いは、優しさではなく無関心の表れだった。
「ティナ、もう結構よ。取り乱した者の話に付き合う暇はないわ」
義母が冷淡に言い放った。
「ティナ、こう言ってはなんだけど……少しは身だしなみに気を遣ったらどうかしら?その格好では外に出るのは恥ずかしいわ」
エリザベスがくすりと笑った。
「なんて恥知らずな嫁なのかしら。貴族夫人としての品位も教養も欠けているわ」
私は疲れ切って顔色も悪く、くまもできている。
華やかな外出着など着ていない。
だが、そんな表面だけをあげつらう彼らより、今の私はずっとまともだ。
妻が侮辱されているのに何ひとつ擁護しない夫には、もう何の期待も抱けなかった。
その瞬間、胸の奥に張り詰めていた糸が、ぷつんと音を立てて切れた。
アズルは灰青の瞳と紺髪を持つ大公子である。
静かで威厳がありながら、話すと柔らかく誠実な人柄だ。
「それは控えたほうがいいと思います。ご立場もありますし」
ナタリーが彼を止めた。
確かに、彼は大公の息子だ。
何の前触れもなく侯爵家を訪れるのは、さすがに問題があるだろう。
「だが、命の危険があったのだ。無視はできない」
「大ごとになってしまいます。仮にもアズル様は王族に次ぐ高位貴族なのですから」
ナタリーは首を横に振った。
私は、夫に対して文句を言いに行くようなものだ。
こんな夫婦喧嘩のようなものに、アズルを付き合わせるわけにはいかない。
「ミリア嬢は、私もよく知っている。息子の友人でもあるし、私も同行したい」
アズルは昔から、ティナとミリアを心から気遣ってくれている。
「アズル様。ありがたいお申し出ですが、まずは私が妻として、夫に直接会ってまいります」
そう言って、私は彼の同行を丁寧に断った。
大公子を私的な事情に巻き込むわけにはいかない。
ブライアンの侯爵家の人たちは、使用人も含め、伯爵家を見下していた。
アズルはそのことも気にかけて、きっと同行を申し出てくれたのだ。
彼の気遣いがただただありがたく、胸が熱くなった。
親戚たちや友人たちがそばにいてくれる。
私は思った。
ブライアンがいなくても、私とミリアには心強い味方が大勢いる。
夫に対する無駄な努力も、無意味な願いも、もう必要ない。
ブライアンに自らの過ちを認めさせ、その責任を取らせること。
そして、相応の代償を払わせること。
それが私の決めた、母として果たすべき責任だった。
***
私は護衛と侍女と共に、馬車でクレメンツ侯爵家の大門をくぐった。
曇天の下、屋敷を囲む白い石壁は、まるで冷たさを放つように鈍く光っていた。
「私が伝えに行きます。あなたたちはここで待機して」
そう告げた私に、横に座っていた侍女のメアリーが心配そうに首を振った。
「ティナ様、それは駄目です。侯爵家は伯爵家に対して厳しい態度を取られますので」
「ティナ様はとても疲れていらっしゃいます。それに危険です」
上辺ではない、嘘のない彼の本心を知るには、私一人で行くことが重要だと思っていた。
私は、ブライアンの本当の気持ちが知りたかった。
彼が、どういう気で私とミリアを置き去りにしたのかを。
「私はミリアの母親よ。夫に伝えるべきことは、私自身が伝えるわ」
しばしの沈黙の後、護衛は静かにうなずいた。
「……承知しました。何かあればすぐに駆けつけますので、メアリーだけは連れて行ってください」
「ティナ様、私が支えますので……」
メアリーがそっと私の腕を取った。
「わかったわ」
彼らもきっと不安なのだろう。
気遣いの気持ちがうれしかった。
そして私は、クレメンツ侯爵邸の重い扉を叩いたのだった。
***
執事が玄関の扉を開けた。
しかし、彼からは出迎えの言葉ひとつなかった。
侯爵家の執事とは思えない、行き届かぬ振る舞い。なんともお粗末だ。
彼は遠慮のない視線を私に向けると、無言のまま応接室へと案内した。
メアリーは、廊下で待つよう命じられていた。
相手は使用人とはいえ侯爵家。メアリーに逆らう術などない。
応接室では、義母のカリオペとエリザベス、そしてブライアンが紅茶を楽しんでいた。
エリザベスの絹のドレスの裾が優雅に揺れ、甘い香水の香りが部屋中に漂っている。
彼女はまるで何事も起きていないかのように微笑んでいる。
置き去りにされたミリアのことなど、最初から関係ないと言わんばかりに。
私は意を決して話し始めた。
「……ミリアは高熱で倒れました。ずぶ濡れのまま放置されましたので」
その一言で、室内の空気が一変した。
ざわりと空気が張り詰め、三人の視線が一斉に私へと向けられる。
最初に口を開いたのはブライアンだった。
ゆるく首を振り、口元だけをわずかに釣り上げる。だが、目はまったく笑っていない。
「何を言ってるんだ、ティナ。冗談はやめてくれ。あの子は健康だろう。子どもの熱くらい気にすることはない……君は疲れているようだね」
事の重大さを理解しようともしない、その薄情な言葉に苛立った。
私は堪えきれず、言葉を重ねる。
「あの夜、あなたは湖に戻ってこなかった。ミリアは、ジェイに湖へ蹴り落とされたのよ!」
「もうやめて!」
エリザベスが鋭く声を上げ、私の言葉を遮った。
香水の香りが室内の空気を揺らした。
「ミリアと私は……ずっとあなたを待っていたわ」
そう言った瞬間、押し込めていた涙がこみ上げてきた。
必死に奥歯を噛みしめて堪えた。
「いい加減にしなさい、ティナ!」
義母カリオペがぴしゃりと言った。
「馬車に乗れなかったことを、そこまで気にする必要があるかしら?結局、ちゃんと帰れたのでしょう。いちいち文句を言いに来るなんて、みっともないわね」
その顔には怒りよりも、呆れが先に立っているようだった。
「どうやって帰ったと思っているんですか!私たちは明け方、荷車で帰ったんです!」
「ティナ!」
ブライアンが私の言葉を遮った。
まるで駄々をこねる子どもを叱るような声だった。
彼はため息をつくと、今度は優しく話しかけてきた。
「……ティナ、君は思い込みが激しい。そんな嘘をつかなくてもいい。俺は君の夫だしミリアの父親だ。心配しなくても伯爵家に戻るから、安心していいんだよ」
荷車の話を冗談だと、本気で思っている顔だった。
「妻も自分の子も気にならないなんて……なんて薄情な人なの。父親である資格なんて、あなたにはない!」
「昨日は遅くなってしまったんだ。帰れなかったくらいで“父親ではない”と言われても困るよ」
「そうよ、ブライアンはずぶ濡れで大変だったのよ」
エリザベスがさも当然のように口を挟む。
その横顔には、申し訳なさのかけらもなかった。
「ブライアンが風邪でもひいたらどうするの。あなたは妻でしょう。そんなことも考えられないの?」
私は言葉を失った。
「自分たちのことばかり言って、君はちゃんと周りを見るべきだよ」
侯爵家の誰ひとり、私の言葉を受け止めようとしない。
使用人たちですら、あきれたような表情だ。
「興奮しないでくれ、ティナ。君が落ち着いてから話そう……今はもう、伯爵家へ戻ったほうがいい」
ブライアンの苦笑いは、優しさではなく無関心の表れだった。
「ティナ、もう結構よ。取り乱した者の話に付き合う暇はないわ」
義母が冷淡に言い放った。
「ティナ、こう言ってはなんだけど……少しは身だしなみに気を遣ったらどうかしら?その格好では外に出るのは恥ずかしいわ」
エリザベスがくすりと笑った。
「なんて恥知らずな嫁なのかしら。貴族夫人としての品位も教養も欠けているわ」
私は疲れ切って顔色も悪く、くまもできている。
華やかな外出着など着ていない。
だが、そんな表面だけをあげつらう彼らより、今の私はずっとまともだ。
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