悲劇の悪女【改稿版】

おてんば松尾

文字の大きさ
8 / 23

8 母として

しおりを挟む
* ティナside


アズルは灰青の瞳と紺髪を持つ大公子である。
静かで威厳がありながら、話すと柔らかく誠実な人柄だ。

「それは控えたほうがいいと思います。ご立場もありますし」

ナタリーが彼を止めた。

確かに、彼は大公の息子だ。
何の前触れもなく侯爵家を訪れるのは、さすがに問題があるだろう。

「だが、命の危険があったのだ。無視はできない」
「大ごとになってしまいます。仮にもアズル様は王族に次ぐ高位貴族なのですから」

ナタリーは首を横に振った。

私は、夫に対して文句を言いに行くようなものだ。
こんな夫婦喧嘩のようなものに、アズルを付き合わせるわけにはいかない。

「ミリア嬢は、私もよく知っている。息子の友人でもあるし、私も同行したい」

アズルは昔から、ティナとミリアを心から気遣ってくれている。

「アズル様。ありがたいお申し出ですが、まずは私が妻として、夫に直接会ってまいります」

そう言って、私は彼の同行を丁寧に断った。
大公子を私的な事情に巻き込むわけにはいかない。

ブライアンの侯爵家の人たちは、使用人も含め、伯爵家を見下していた。
アズルはそのことも気にかけて、きっと同行を申し出てくれたのだ。
彼の気遣いがただただありがたく、胸が熱くなった。


親戚たちや友人たちがそばにいてくれる。
私は思った。
ブライアンがいなくても、私とミリアには心強い味方が大勢いる。

夫に対する無駄な努力も、無意味な願いも、もう必要ない。

ブライアンに自らの過ちを認めさせ、その責任を取らせること。
そして、相応の代償を払わせること。


それが私の決めた、母として果たすべき責任だった。


***


私は護衛と侍女と共に、馬車でクレメンツ侯爵家の大門をくぐった。
曇天の下、屋敷を囲む白い石壁は、まるで冷たさを放つように鈍く光っていた。

「私が伝えに行きます。あなたたちはここで待機して」

そう告げた私に、横に座っていた侍女のメアリーが心配そうに首を振った。

「ティナ様、それは駄目です。侯爵家は伯爵家に対して厳しい態度を取られますので」
「ティナ様はとても疲れていらっしゃいます。それに危険です」

上辺ではない、嘘のない彼の本心を知るには、私一人で行くことが重要だと思っていた。

私は、ブライアンの本当の気持ちが知りたかった。
彼が、どういう気で私とミリアを置き去りにしたのかを。

「私はミリアの母親よ。夫に伝えるべきことは、私自身が伝えるわ」

しばしの沈黙の後、護衛は静かにうなずいた。

「……承知しました。何かあればすぐに駆けつけますので、メアリーだけは連れて行ってください」
「ティナ様、私が支えますので……」

メアリーがそっと私の腕を取った。

「わかったわ」

彼らもきっと不安なのだろう。
気遣いの気持ちがうれしかった。

そして私は、クレメンツ侯爵邸の重い扉を叩いたのだった。


***


執事が玄関の扉を開けた。
しかし、彼からは出迎えの言葉ひとつなかった。
侯爵家の執事とは思えない、行き届かぬ振る舞い。なんともお粗末だ。

彼は遠慮のない視線を私に向けると、無言のまま応接室へと案内した。

メアリーは、廊下で待つよう命じられていた。
相手は使用人とはいえ侯爵家。メアリーに逆らう術などない。



応接室では、義母のカリオペとエリザベス、そしてブライアンが紅茶を楽しんでいた。

エリザベスの絹のドレスの裾が優雅に揺れ、甘い香水の香りが部屋中に漂っている。
彼女はまるで何事も起きていないかのように微笑んでいる。

置き去りにされたミリアのことなど、最初から関係ないと言わんばかりに。
私は意を決して話し始めた。

「……ミリアは高熱で倒れました。ずぶ濡れのまま放置されましたので」

その一言で、室内の空気が一変した。
ざわりと空気が張り詰め、三人の視線が一斉に私へと向けられる。

最初に口を開いたのはブライアンだった。
ゆるく首を振り、口元だけをわずかに釣り上げる。だが、目はまったく笑っていない。

「何を言ってるんだ、ティナ。冗談はやめてくれ。あの子は健康だろう。子どもの熱くらい気にすることはない……君は疲れているようだね」

事の重大さを理解しようともしない、その薄情な言葉に苛立った。
私は堪えきれず、言葉を重ねる。

「あの夜、あなたは湖に戻ってこなかった。ミリアは、ジェイに湖へ蹴り落とされたのよ!」



「もうやめて!」

エリザベスが鋭く声を上げ、私の言葉を遮った。
香水の香りが室内の空気を揺らした。

「ミリアと私は……ずっとあなたを待っていたわ」

そう言った瞬間、押し込めていた涙がこみ上げてきた。
必死に奥歯を噛みしめて堪えた。


「いい加減にしなさい、ティナ!」

義母カリオペがぴしゃりと言った。

「馬車に乗れなかったことを、そこまで気にする必要があるかしら?結局、ちゃんと帰れたのでしょう。いちいち文句を言いに来るなんて、みっともないわね」

その顔には怒りよりも、呆れが先に立っているようだった。

「どうやって帰ったと思っているんですか!私たちは明け方、荷車で帰ったんです!」

「ティナ!」

ブライアンが私の言葉を遮った。
まるで駄々をこねる子どもを叱るような声だった。

彼はため息をつくと、今度は優しく話しかけてきた。

「……ティナ、君は思い込みが激しい。そんな嘘をつかなくてもいい。俺は君の夫だしミリアの父親だ。心配しなくても伯爵家に戻るから、安心していいんだよ」

荷車の話を冗談だと、本気で思っている顔だった。

「妻も自分の子も気にならないなんて……なんて薄情な人なの。父親である資格なんて、あなたにはない!」
「昨日は遅くなってしまったんだ。帰れなかったくらいで“父親ではない”と言われても困るよ」

「そうよ、ブライアンはずぶ濡れで大変だったのよ」

エリザベスがさも当然のように口を挟む。
その横顔には、申し訳なさのかけらもなかった。

「ブライアンが風邪でもひいたらどうするの。あなたは妻でしょう。そんなことも考えられないの?」

私は言葉を失った。

「自分たちのことばかり言って、君はちゃんと周りを見るべきだよ」

侯爵家の誰ひとり、私の言葉を受け止めようとしない。
使用人たちですら、あきれたような表情だ。

「興奮しないでくれ、ティナ。君が落ち着いてから話そう……今はもう、伯爵家へ戻ったほうがいい」

ブライアンの苦笑いは、優しさではなく無関心の表れだった。

「ティナ、もう結構よ。取り乱した者の話に付き合う暇はないわ」

義母が冷淡に言い放った。


「ティナ、こう言ってはなんだけど……少しは身だしなみに気を遣ったらどうかしら?その格好では外に出るのは恥ずかしいわ」

エリザベスがくすりと笑った。

「なんて恥知らずな嫁なのかしら。貴族夫人としての品位も教養も欠けているわ」

私は疲れ切って顔色も悪く、くまもできている。
華やかな外出着など着ていない。
だが、そんな表面だけをあげつらう彼らより、今の私はずっとまともだ。

妻が侮辱されているのに何ひとつ擁護しない夫には、もう何の期待も抱けなかった。


その瞬間、胸の奥に張り詰めていた糸が、ぷつんと音を立てて切れた。



しおりを挟む
感想 235

あなたにおすすめの小説

〈完結〉遅効性の毒

ごろごろみかん。
ファンタジー
「結婚されても、私は傍にいます。彼が、望むなら」 悲恋に酔う彼女に私は笑った。 そんなに私の立場が欲しいなら譲ってあげる。

【完結】冤罪で殺された王太子の婚約者は100年後に生まれ変わりました。今世では愛し愛される相手を見つけたいと思っています。

金峯蓮華
恋愛
どうやら私は階段から突き落とされ落下する間に前世の記憶を思い出していたらしい。 前世は冤罪を着せられて殺害されたのだった。それにしても酷い。その後あの国はどうなったのだろう? 私の願い通り滅びたのだろうか? 前世で冤罪を着せられ殺害された王太子の婚約者だった令嬢が生まれ変わった今世で愛し愛される相手とめぐりあい幸せになるお話。 緩い世界観の緩いお話しです。 ご都合主義です。 *タイトル変更しました。すみません。

〈完結〉【書籍化&コミカライズ】伯爵令嬢の責務

ごろごろみかん。
恋愛
見てしまった。聞いてしまった。 婚約者が、王女に愛を囁くところを。 だけど、彼は私との婚約を解消するつもりは無いみたい。 貴族の責務だから政略結婚に甘んじるのですって。 それなら、私は私で貴族令嬢としての責務を果たすまで。

お好きになさって下さい、私は一切気にしませんわ

Kouei
恋愛
婚約者のクレマンド様は、いつも私との約束を破ってばかり。 理由は決まって『従妹ライラ様との用事』 誕生日会にすら来なかった彼に、私はついに告げた。 「どうぞ、私以外のご令嬢をエスコートするなり、お出かけするなり、関係を持つなり、お好きになさって下さい。私は一切気にしませんわ」 二人の想いは、重なり合えるのだろうか …… ※他のサイトにも公開しています。

愛されない妻は死を望む

ルー
恋愛
タイトルの通りの内容です。

〈完結〉【書籍化&コミカライズ】悪妃は余暇を楽しむ

ごろごろみかん。
恋愛
「こちら、離縁届です。私と、離縁してくださいませ、陛下」 ある日、悪妃と名高いクレメンティーナが夫に渡したのは、離縁届だった。彼女はにっこりと笑って言う。 「先日、あなた方の真実の愛を拝見させていただきまして……有難いことに目が覚めましたわ。ですので、王妃、やめさせていただこうかと」 何せ、あれだけ見せつけてくれたのである。ショックついでに前世の記憶を取り戻して、千年の恋も瞬間冷凍された。 都合のいい女は本日で卒業。 今後は、余暇を楽しむとしましょう。 吹っ切れた悪妃は身辺整理を終えると早々に城を出て行ってしまった。

わたしは婚約者の不倫の隠れ蓑

岡暁舟
恋愛
第一王子スミスと婚約した公爵令嬢のマリア。ところが、スミスが魅力された女は他にいた。同じく公爵令嬢のエリーゼ。マリアはスミスとエリーゼの密会に気が付いて……。 もう終わりにするしかない。そう確信したマリアだった。 本編終了しました。

【完結】愛されないあたしは全てを諦めようと思います

黒幸
恋愛
ネドヴェト侯爵家に生まれた四姉妹の末っ子アマーリエ(エミー)は元気でおしゃまな女の子。 美人で聡明な長女。 利発で活発な次女。 病弱で温和な三女。 兄妹同然に育った第二王子。 時に元気が良すぎて、怒られるアマーリエは誰からも愛されている。 誰もがそう思っていました。 サブタイトルが台詞ぽい時はアマーリエの一人称視点。 客観的なサブタイトル名の時は三人称視点やその他の視点になります。

処理中です...