悲劇の悪女【改稿版】

おてんば松尾

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11 殺人未遂

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*ティナside

執務室では、一切のためらいも見せず、私は離婚届にサインしていた。
昨日、ブライアンに伯爵家へ帰るよう言った。
それは最後の情けでもあった。
けれど彼は、何の返答もなく、戻ってこなかった。

夫は誠実な人だと思っていた。思いやりがあり、責任感が強いと。

けれど、その誠実さは融通が利かず、思いやりは、良い顔をするだけの八方美人。
責任感は、ただの独りよがりだった。
私は深く息を吐き、心の中で彼との関係に終止符を打った。

そして、離婚届を脇に置くと、目の前の契約書に視線を移した。

父と従弟のクレイ、そしてアズルが椅子に腰を下ろした。
室内は、重要な会議が始まるかのような空気が漂っていた。 

「政略結婚なのだから、離婚となればクレメンツ侯爵家への援助は打ち切る」

「ええ。そもそも彼らは、うちからの融資を事業の発展に活かす努力をしなかったわ」

侯爵家は代々、南方の香辛料交易路を管理していて、特に黒胡椒の専売権を国から与えられている。
だが、輸出国とのトラブルで胡椒の輸入ができなくなっていた。
ルノー伯爵の財力と人脈だった。伯爵家の融資によって新たな輸送契約が結ばれ、今に至る。

「そうだな。これによれば、胡椒に対する予算の割合は少なすぎる。将来的な展望も立てていない。これでは利益を伸ばすことはできない」

クレイが貸付金の返済計画書を確認してそう言った。

彼は事業の後処理や会計業務に長けている。
帳簿管理においても右に出る者がいない。

「奴らにあるのは、無駄に高いプライドと、形だけの爵位だけだな」

父は鼻で笑った。

アズルが苦笑しながら言葉を継いだ。

「社交界での評判も芳しくない。外見だけは取り繕っているが、中身がない。カインが亡くなり気の毒だと思い、皆気にかけていたが、さすがに他人に同情できる時間は、そこまで長いわけではない」

人の善意に甘えて、ぬるま湯に浸かり続けられると思うのは大きな勘違いよ。

「豪華な屋敷に高価な衣装。浪費ばかりで先を見据える力はない」
「経済的な支えも、ルノー伯爵家の後ろ盾があってこそ成り立っていた」

「今はもう、周囲はいつ彼らの家が没落するかと噂しているよ」

夫とはいえ、あまりの無能さに呆れた。
私たちへの愛情は数年前から薄くなり、常に実家の顔色ばかりを窺っている。

そんな男はこっちから願い下げた。


「援助を打ち切るのは、むしろ遅すぎたくらいだ」

父が侯爵邸の権利書を机の上に静かに置いた。


***


* ミリアside


こんなに美しい少年が存在するのかと、思わず息を呑むほどイーライはイケメンだった。

原作でのイーライは、アズルに付き添ってティナを訪ねる端役で、「ミリアは故意に湖に落とされたと思う」と伝える登場だったと記憶している。

彼はジェイの同級生で、学校でジェイが「ミリアが消えればいい」と話していたのを聞いた、と証言する。
それ以外に印象はない。
あまりにも出番が少なく、彼に注目していなかった。


原作では私はすでに死んでいて、湖に落ちたのも事故扱いだった。
だから、こうして生きている私を見舞うというのは新しい展開だ。

「熱が出たんだって? 具合はどうだ」
「ええと……もう、平気」

差し出されたのは、色とりどりのチューリップの花束。
私はぱっと顔を明るくした。

「きれいね。ありがとう!」

幼なじみだった可能性もあるけれど、どれほど親しかったかは曖昧だ。
とはいえ、今は子どもらしさ全開でいくしかない。

原作に書いていなかったことは正直分からない。

「湖に落ちてから、記憶があいまいなの。えっと、あなたは……幼なじみで、友達のイーライだよね?」

イーライは小さく笑う。

「五歳の君に、俺と“友達”って関係が成立してたかは微妙だけどな。ジェイが怖いから嫌いだって、しょっちゅう俺に言ってたよ」
「怖いかぁ……」

確かに、五歳児にとって三歳上の男の子は脅威だろう。
今の私は、ただのクソガキにしか思えないけれど。

「……ジェイに落とされたんだよな?」

イーライは、気遣うように言った。
彼は学園の初等科で同じクラスに通っている。

「ええ、そうなの。桟橋で落とされそうになって、必死に手すりにしがみついてたんだけど……蹴られて落ちた」
「最低だな、あいつ……」

怒りを露わにした顔を見ると、この子は信用できそうだと感じた。
少なくともクソガキジェイとは大違い。

「ミリアは普段から我慢してただろう?母親に心配かけたくなくて、嫌がらせされていることを誰にも言わず黙ってたんだよな?」

「ああ……そうかもしれないわね」

もっとも、この前すべて母にぶちまけたばかりだが。

「ジェイは“ミリアがいなくなれば、ブライアン叔父さんが自分の父親になる”って言ってたんだ」
「え!!」

……初耳だった。

「まさか、直接危害を加えるとは思ってなかったけど……まさか本当に殺しにかかるとは……信じられない」
「……は?」

殺しにかかった?
それは冗談では済まされない。

というか、あいつに殺意なんてあったの?
いつものように、遊び半分で意地悪して湖に落としたと思っていた。

それが最悪の結果になったんだと……

「道徳教育ってものがなってないのかしら?命の大切さを理解してないなんて、ぞっとするわ」
「……」

「子どもだから遊び感覚だったのかもしれない。でも、正直、やったことは殺人未遂よ」
「……」

「泳げない私を湖に落とすなんて、もう確信犯でしょ」

ジェイの行為は、子どもの悪ふざけで済む話ではなく、命に関わる重大なものだった。

「……ミリア、君……大丈夫か?」

イーライの声に、私ははっとした。
今の私は、五歳児のくせにあまりに饒舌すぎた。

「あ、えーと……」

イーライは目を丸くしながら私をじっと見つめている。

「ミリア、いったい何があったんだ。まるで大人みたいな話し方だ。なんだか…変だぞ」 
「そうね」 

私は軽く笑って答えた。

「……たぶん、最近あまり外に出なくて、本ばかり読んでたからかな」 

「読書か……」

「難しい話とか、いろんな人の考え方を知るうちに、なんだか自分も大人みたいなことを考えるようになっちゃって……」

「いったいどんな本を読んだら、そんなに大人びた考えができるようになるんだ?五歳の子とは思えない」

「それはともかく……」

何とか話を逸らす。
まさか転生したなんて正直に言ったって信じてもらえないだろう。

「とにかくジェイは、“私さえいなければ、お父様が自分の父親になる”と思い込んで、私を湖に蹴り落とした。でも私は死ななかった」

「まぁ、多分……」

「子どもだし、自分の行為がどれほど危険か理解していなかった可能性はあるけど。刑事責任年齢にも達していないし、責任は問えないわよね」

「遊びのつもりで冗談でやったって言われれば、それまでだ。俺も現場を見てないし……でも、“たまたま”とか“危険だと思わなかった”は、さすがに通用しないはずだ」

八歳だって、してはいけないことや危ないことくらい、わかるはず。

「ミリアは賢い子だよ。危険な目に遭わないようにちゃんと考えてた。ジェイにも、絶対自分から近づかなかったし」

へぇ、やるじゃない、私の原作時代。

「今回は、彼ら母子が湖に来るなんて知らなかったの。本当は家族だけで行く予定だったの」
「まあ、あの親子のことだしな……」

イーライもエリザベスたちを良くは思っていないようだった。
私たちの危機察知能力が甘かったのだろう。

「ジェイは勉強もできない。だけど悪知恵だけは働く。単純な馬鹿だ」
「命の尊さを分かっていない。もしくは理解できない大馬鹿野郎だわ」

命はそんなに軽く扱っていいものではない。
自分がしたことが、どれほど深刻な問題なのかを思い知らせる必要がある。

「私は……本当に死ぬところだった」

今回助かったのは、私に泳げる力があったこと、そして焚火のおかげだ。
そして、この世界の“筋書き”を知っていたからこそ、回避できたのだ。

もし原作通りだったら、ミリアは湖で命を落とし、その後の物語は彼女の死を前提に進んでいく。

でも、自分が死ぬ本人だったら、死んでからのことなんて、正直知ったこっちゃない。
死んでからなんてどうでもいいのだ。

死んだ後にどれだけ悲しまれても、手を合わせてもらっても、あるいは墓石を蹴飛ばされたって、そんなの死人には何も分からない。
だって死んでるんだから。

大切なのは、生きている“今”なのよ。
死の淵を覗いたからこそ、そう強く思えた。
そして気づいた。

そこにはもう、子どもらしい無邪気さは残っていなかった。

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