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12 ケーキ
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*ブライアンside
侯爵家は、胡椒の独占販売権を持っていた。
この卸売権は代々引き継がれた侯爵家の主な収入源だった。
今はルノー伯爵の支援を受けているが、事業の主導権は侯爵家が握っている。
この香辛料事業があれば、家の将来は安泰だと俺は信じていた。
だが、ここ数年は、侯爵家の財政は、思ったよりも余裕がなかった。
収入は確かにあるはずなのに、なぜか帳簿の数字はいつも赤字に傾いている。
俺は侯爵家の財務管理を任されていた。
税収や地代の取りまとめ、使用人の給与、屋敷の維持費など、帳簿をつけるのも俺の仕事だった。
だが、最近は経費が膨らむ一方で、収支の帳尻がどうにも合わない。
何度も帳簿を見直したが、原因を特定できずにいた。
実のところ、出費の大半は貴族としての体裁を保つための維持管理費と浪費だった。
高価なドレスや宝飾品、頻繁な社交の催し、使用人への過剰な心付け。
母やエリザベスは侯爵夫人としての立場を保つために、惜しみなく金を使っていた。
だが、必要経費であり、そこを節約するなど考えていなかった。
軽く受け流し、深く追究することもなかった。
執務室で仕事をしていると、軽くノックの音がしてエリザベスが姿を現した。
美しいサッシュ付きのドレスを身にまとい、髪は丁寧に整えられ、化粧も上品に施されている。
「ジェイがどうしても、ブランシェのケーキが食べたいと言ってきかないの。あの子も捻挫で自由に動き回れないから可哀そうでしょう?あの店は予約が必要だけれど、ブライアンが直接行ってくれれば、買えると思うの」
エリザベスは甘えたような声音で俺に頼んできた。
「ちょうど街へ出る用事もあるから、ついでに買ってくるよ」
俺はメイドを呼んで新しいコートを用意させた。
エリザベスがわざわざ買ってきてくれたものだった。
湖でミリアにコートをかけてやったから、代わりの新しい物が必要だった。
春先とはいえ外はまだまだ冷え込むなと思いながら、コートに袖を通した。
***
貴族街はいつも通りの賑わいで、知り合いの顔もちらほら見えた。
俺は馬車を降りて、花屋の前を通りがかった。
そういえば、そろそろティナの誕生日だ。この間は怒っていたから、伯爵家へ帰るタイミングを逃している。
花束を買って彼女の機嫌を取るのもいいかもしれないと思い花屋に入った。
「ブライアン!」
そこには、友人のヴィンセントがいた。
ヴィンセントは貴族街に構える香辛料専門店をいくつか経営している友人だった。
「ヴィンセント、久しぶりだな!」
彼は額を押さえ首を横に振りながら、残念だなと俺に言った。
「香辛料の専売権、侯爵家が外されたらしいな。今朝、王都の商会連合に通達が出た」
頭が真っ白になった。何を言っている?そんな話、俺は聞いていない。
「待て、それは……どういうことだ?クレメンツ侯爵家の名は契約に残ってるはずだ」
うちだけが扱える香辛料だった。他の商会には販売権がないはずだ。
だからこそ、そこが一番の稼ぎ頭だった。貴族の食卓に並ぶたび、俺の商会の名が王都に広まっていった。
「……何を言っている?そんな話、俺は聞いていない」
「国は市場の公平性を保つため、香辛料の専売権を撤廃するんじゃないのか?」
「冗談はやめてくれ。そもそも、ルノー伯爵は俺の義父だぞ。商会を牛耳っているのは彼だ」
街ではいろいろ噂が流れる。
全てを真に受けていたら、まともな商売はできない。
何かの手違いか、悪質な噂だろうと高をくくっていた。
「いや……そうだな。お前はルノー家の婿だもんな。まぁ、考えることがいろいろあるだろう。すまなかった。とにかく頑張ってくれ」
なぜかぎこちない空気が流れ込んだ。
ヴィンセントは肩をすくめながら、困ったように笑みを浮かべた。
「ミリアの事故の話も聞いた。花を買うのか? よければ、俺からもミリアに花を……」
「……事故?」
なんのことだか分からなかった。
もしかして湖の一件の話だろうか?
そんなことまで街に広がっているなんて、噂というのは恐ろしいものだ。
「いや、あの子は、ただ熱が出ただけで、大したことはないんだ。それに、花より菓子のほうが良いだろう。花はティナに贈ろうと思って」
「そうか、妻は大事にしなくてはならないな。それならミリアの見舞いでも贈ろうか?」
「ありがとう。だが、あとでブランシェのケーキを買いに行くから……そうだな。ミリアにも焼き菓子を買うから、菓子はまたの機会にしてくれ。彼女にも伝えておくよ。気遣いありがとう」
俺はそう言って、花屋の店員にティナのための花束を作ってもらった。
ジェイの買い物のついでだったが、娘にも何か買っていこうと思った。
湖で会ってからもう五日も娘に会っていない。
「……午後は伯爵家へ帰るとするか」
少し後ろめたい気分で街での買い物を済ませた。
***
帰りに銀行へ立ち寄った俺は、いつものように個室へ通され、支配人と面会した。
そこで、新しい小切手の発行が困難だと告げられる。
業務上の手続きにトラブルが発生しているらしく、詳細は明かされなかった。
「問題が解決次第、こちらからご連絡します」
支配人は言ったが、その態度はどこか素っ気なかった。
貴族を相手にしているとは思えない対応に不快感を覚えたものの、ここで声を荒げれば今後の関係に響く。
急ぎの用でもなかったため、俺は言葉を呑み込み、黙って銀行を後にした。
そのころ、侯爵家の屋敷では――
広間はまるで地獄の釜の蓋が開いたかのような混乱に包まれていた。
何人もの使用人たちが広間に集められていた。
使用人たちの沈黙を裂くように、カリオペの怒鳴り声が響いた。
「なんで、こんなことになっているのよ!」
彼女の手から封筒が、ぱらりと床に落ちる。
その手紙は商会からの料金未払いの通知だった。
今日、カリオペは、楽しみにしていた外国製のサファイアのブローチを購入する予定だった。
けれど、屋敷に呼びつけた商人から、「新しい買い物はできません」と告げられた。
理由は、以前購入した品の代金がまだ支払われていないからだという。
代わりに渡されたのは請求書。
執事が蒼ざめた顔で膝を折る。
「月末にまとめて支払いをするはずですが、それができていないようで……」
執事は視線をそらし、小さな声で報告する。
「どういうことなの、そんなはずがないわ!恥をかいたのよ!商品を売ってもらえない貴族なんているものですか!」
カリオペは机を叩きつけた。
支払いが遅れることなど、かつて一度もなかった。
「二度とあの商人からは物を買わないわ!なんて、失礼な!」
テーブルを叩いた衝撃で、机に置かれた花瓶が割れ、生けられた花が床に散った。
部屋の隅に立つメイドたちは、恐怖に肩をすくめ、誰も口を開こうとしない。
「ブライアンを……!ブライアンはどこへ行ったの!」
「ブライアンさまは……ケーキを買いに街へ……」
執事がおずおずと答えた。
「どうしてもジェイ坊ちゃまが食べたいと仰いましたので」
カリオペは再度、拳でテーブルを叩きつけた。
「こんな時にケーキですって!?何を考えているの!すぐに呼び戻しなさい!」
カリオペの怒鳴り声が屋敷じゅうに響き渡った。
侯爵家は、胡椒の独占販売権を持っていた。
この卸売権は代々引き継がれた侯爵家の主な収入源だった。
今はルノー伯爵の支援を受けているが、事業の主導権は侯爵家が握っている。
この香辛料事業があれば、家の将来は安泰だと俺は信じていた。
だが、ここ数年は、侯爵家の財政は、思ったよりも余裕がなかった。
収入は確かにあるはずなのに、なぜか帳簿の数字はいつも赤字に傾いている。
俺は侯爵家の財務管理を任されていた。
税収や地代の取りまとめ、使用人の給与、屋敷の維持費など、帳簿をつけるのも俺の仕事だった。
だが、最近は経費が膨らむ一方で、収支の帳尻がどうにも合わない。
何度も帳簿を見直したが、原因を特定できずにいた。
実のところ、出費の大半は貴族としての体裁を保つための維持管理費と浪費だった。
高価なドレスや宝飾品、頻繁な社交の催し、使用人への過剰な心付け。
母やエリザベスは侯爵夫人としての立場を保つために、惜しみなく金を使っていた。
だが、必要経費であり、そこを節約するなど考えていなかった。
軽く受け流し、深く追究することもなかった。
執務室で仕事をしていると、軽くノックの音がしてエリザベスが姿を現した。
美しいサッシュ付きのドレスを身にまとい、髪は丁寧に整えられ、化粧も上品に施されている。
「ジェイがどうしても、ブランシェのケーキが食べたいと言ってきかないの。あの子も捻挫で自由に動き回れないから可哀そうでしょう?あの店は予約が必要だけれど、ブライアンが直接行ってくれれば、買えると思うの」
エリザベスは甘えたような声音で俺に頼んできた。
「ちょうど街へ出る用事もあるから、ついでに買ってくるよ」
俺はメイドを呼んで新しいコートを用意させた。
エリザベスがわざわざ買ってきてくれたものだった。
湖でミリアにコートをかけてやったから、代わりの新しい物が必要だった。
春先とはいえ外はまだまだ冷え込むなと思いながら、コートに袖を通した。
***
貴族街はいつも通りの賑わいで、知り合いの顔もちらほら見えた。
俺は馬車を降りて、花屋の前を通りがかった。
そういえば、そろそろティナの誕生日だ。この間は怒っていたから、伯爵家へ帰るタイミングを逃している。
花束を買って彼女の機嫌を取るのもいいかもしれないと思い花屋に入った。
「ブライアン!」
そこには、友人のヴィンセントがいた。
ヴィンセントは貴族街に構える香辛料専門店をいくつか経営している友人だった。
「ヴィンセント、久しぶりだな!」
彼は額を押さえ首を横に振りながら、残念だなと俺に言った。
「香辛料の専売権、侯爵家が外されたらしいな。今朝、王都の商会連合に通達が出た」
頭が真っ白になった。何を言っている?そんな話、俺は聞いていない。
「待て、それは……どういうことだ?クレメンツ侯爵家の名は契約に残ってるはずだ」
うちだけが扱える香辛料だった。他の商会には販売権がないはずだ。
だからこそ、そこが一番の稼ぎ頭だった。貴族の食卓に並ぶたび、俺の商会の名が王都に広まっていった。
「……何を言っている?そんな話、俺は聞いていない」
「国は市場の公平性を保つため、香辛料の専売権を撤廃するんじゃないのか?」
「冗談はやめてくれ。そもそも、ルノー伯爵は俺の義父だぞ。商会を牛耳っているのは彼だ」
街ではいろいろ噂が流れる。
全てを真に受けていたら、まともな商売はできない。
何かの手違いか、悪質な噂だろうと高をくくっていた。
「いや……そうだな。お前はルノー家の婿だもんな。まぁ、考えることがいろいろあるだろう。すまなかった。とにかく頑張ってくれ」
なぜかぎこちない空気が流れ込んだ。
ヴィンセントは肩をすくめながら、困ったように笑みを浮かべた。
「ミリアの事故の話も聞いた。花を買うのか? よければ、俺からもミリアに花を……」
「……事故?」
なんのことだか分からなかった。
もしかして湖の一件の話だろうか?
そんなことまで街に広がっているなんて、噂というのは恐ろしいものだ。
「いや、あの子は、ただ熱が出ただけで、大したことはないんだ。それに、花より菓子のほうが良いだろう。花はティナに贈ろうと思って」
「そうか、妻は大事にしなくてはならないな。それならミリアの見舞いでも贈ろうか?」
「ありがとう。だが、あとでブランシェのケーキを買いに行くから……そうだな。ミリアにも焼き菓子を買うから、菓子はまたの機会にしてくれ。彼女にも伝えておくよ。気遣いありがとう」
俺はそう言って、花屋の店員にティナのための花束を作ってもらった。
ジェイの買い物のついでだったが、娘にも何か買っていこうと思った。
湖で会ってからもう五日も娘に会っていない。
「……午後は伯爵家へ帰るとするか」
少し後ろめたい気分で街での買い物を済ませた。
***
帰りに銀行へ立ち寄った俺は、いつものように個室へ通され、支配人と面会した。
そこで、新しい小切手の発行が困難だと告げられる。
業務上の手続きにトラブルが発生しているらしく、詳細は明かされなかった。
「問題が解決次第、こちらからご連絡します」
支配人は言ったが、その態度はどこか素っ気なかった。
貴族を相手にしているとは思えない対応に不快感を覚えたものの、ここで声を荒げれば今後の関係に響く。
急ぎの用でもなかったため、俺は言葉を呑み込み、黙って銀行を後にした。
そのころ、侯爵家の屋敷では――
広間はまるで地獄の釜の蓋が開いたかのような混乱に包まれていた。
何人もの使用人たちが広間に集められていた。
使用人たちの沈黙を裂くように、カリオペの怒鳴り声が響いた。
「なんで、こんなことになっているのよ!」
彼女の手から封筒が、ぱらりと床に落ちる。
その手紙は商会からの料金未払いの通知だった。
今日、カリオペは、楽しみにしていた外国製のサファイアのブローチを購入する予定だった。
けれど、屋敷に呼びつけた商人から、「新しい買い物はできません」と告げられた。
理由は、以前購入した品の代金がまだ支払われていないからだという。
代わりに渡されたのは請求書。
執事が蒼ざめた顔で膝を折る。
「月末にまとめて支払いをするはずですが、それができていないようで……」
執事は視線をそらし、小さな声で報告する。
「どういうことなの、そんなはずがないわ!恥をかいたのよ!商品を売ってもらえない貴族なんているものですか!」
カリオペは机を叩きつけた。
支払いが遅れることなど、かつて一度もなかった。
「二度とあの商人からは物を買わないわ!なんて、失礼な!」
テーブルを叩いた衝撃で、机に置かれた花瓶が割れ、生けられた花が床に散った。
部屋の隅に立つメイドたちは、恐怖に肩をすくめ、誰も口を開こうとしない。
「ブライアンを……!ブライアンはどこへ行ったの!」
「ブライアンさまは……ケーキを買いに街へ……」
執事がおずおずと答えた。
「どうしてもジェイ坊ちゃまが食べたいと仰いましたので」
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