悲劇の悪女【改稿版】

おてんば松尾

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13 ルノー伯爵邸へ

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*ブライアンside


俺は馬車の中で身を乗り出し、前方の御者に向かって、できるだけ急ぐよう指示を飛ばした。

「なぜだ……」

ルノー伯爵家は、毎月決まった額を我が侯爵家へ融資してくれている。
それは、侯爵家の事業が軌道に乗るまでの支援金であり、ティナと結婚してからの七年間、一度たりとも支払いが滞ったことはなかった。

兄が生きていた頃も同じだ。
侯爵家の立て直しのために貸付金は必要で、政略結婚として俺が伯爵家へ婿入りし、いずれティナとともに家を継ぐその条件の一つとして取り決められた支援でもある。

それなのに、なぜ今になって突然、融資を打ち切るのか。
まるで理解できなかった。

しかも、「貸し付け金を即座に返済せよ」などという通知、どう考えても急すぎるし、常識的にあり得ない。

伯爵家は裕福で、これまでの融資が負担になるような家ではない。
だからこそ、今回の仕打ちがなおさら不可解だった。

ルノー伯爵家からの融資は、形式上はあくまで“借金”だ。
だから本来、いずれは返済しなければならない。
それは俺も理解している。

だが、返済は侯爵家の事業が安定したのち、段階的に行うというのが双方で交わした正式な取り決めだった。
急いで返す必要はなく、焦らず、少しずつでいい。
その合意があったからこそ、俺は政略結婚として伯爵家に婿入りしのだ。

にもかかわらず、今になって突然「融資の打ち切り」と「即時返済」を迫ってくるなど、到底、正当な理由があるとは思えなかった。


***


伯爵家の執務室には、ティナと義父、それにティナの従兄弟であるクリフがいた。

俺はまず、ティナと二人で話がしたいと申し出た。
だが、義父である伯爵は首を縦に振らなかった。

これは夫婦間のただの喧嘩で、義父や伯爵家を巻き込んでするようなものでもないと説明した。

「言いたいことがあるなら、ここで言えばいい。ブライアン、そもそも、この屋敷に入れてもらえただけでもありがたいと思え」

あまりの言われように、一瞬ムッとしたがそこは顔に出さずにティナに話しかけた。

「ティナ、まだこの前のことで怒ってるのか?そんな些細なことで、いつまでも機嫌悪くしないほしい」

彼女は返事をしない。
正直理解できない。くだらないことだったじゃないか。
彼女はずっと無表情だ。

「いくら何でも、あんな些細なことで、急に侯爵への支援を打ち切るなんて、説明もないままこちらとしては納得できない」

「……些細なこと?」

ティナの顔色が一瞬で怒りに染まった。
執務室の空気が張り詰める。

そうだ。彼女にとっては、些細なことではなかったのだろう。 
しまった……と思った。

話の流れを変えなければならない。
今は、そんなことより先に伝えなければならない要件がある。

「結婚の際、侯爵家と伯爵家の間で正式な契約が交わされていたはずです。それにもかかわらず、今になって融資を打ち切るなど、明らかに契約違反です」

俺は義父に向かいそう告げた。
明らかに真っ当な言い分だった。


「ブライアン、君は伯爵家の一員として迎えられ、この家の事業に従事することが取り決められていた。全くできていなかっただろう。ここ最近は、この屋敷に住んでいるのかいないのかさえ、分からない状態だった」

「……確かに、ここ最近は兄が亡くなって実家が混乱していたせいで、少し疎かになっていたかもしれません。 でも、それまでは、婿として伯爵家の執務を手伝っていました。そしてティナの夫として、ちゃんとやってきたつもりです」

俺は伯爵に対して声を荒げた。
しっかりやって来たことは事実だ。それを認めてくれないのはおかしい。

「ブライアン。君はルノー伯爵家に婿養子として迎えられたんだ。本来なら、家の信頼を得るために人一倍の努力が求められていたはずだ。だが、君はそれを果たせなかった」

クリフが横から口を挟んできた。

「……は?」

「君が任されていた仕事も、正直言って誰にでもできる程度のものだった。この伯爵家を継ぐには、到底ふさわしいとは言えない。君の立場では、荷が重すぎるんだよ」

彼にそんなことを言われる筋合いはない。
かっとして、言い返した。だいたいクリフは親戚だとはいえ部外者だろう。

「俺は、契約しているということを言っているんだ。結婚しているのだから、契約は守られて当たり前だ!」



「離婚するわ」

ティナが突然そう言った。

「え……?」

頭が真っ白になった。
何を言われたのか、すぐには理解できなかった。

「離婚しましょう」

はっきりとした声で彼女は告げる。
まるで、業務報告でもするかのような、そっけなさと冷たさで。

「ティナ、何を言っているんだ……?」

突然離婚だなんて、気が触れたのではないかと思った。
ただ、聞き返すしかない。

「あなた。ここへ来てから、一度でもミリアの様子を気にかけた?言ったはずよね。高熱で寝込んでるって」

その言葉に胸がドキッとした。
突然、娘のことを思い出した。
……そうだ、と俺は思い出す。

馬車の中に午前中に彼女たちに買ったプレゼントが乗っている。
焦った気持ちが緩んだ。

「それは……違う!君に花を買ってきた。ミリアにもお土産を買ってある。ブランシェの焼き菓子だ。わざわざ自分で買いに行ったんだ」

これで大丈夫だろう。
俺は決して妻のことも、ミリアのことも忘れてはいない。

「ミリアのお見舞いのクッキーだ」

ティナは鼻で笑った。

「いらないわよ」

彼女の言い方に、さすがに腹が立ってきた。
たかが夫婦げんかだ。ちょっとした行き違いでここまで大げさにして、離婚だと?

「いつまで怒ってるんだ!もういい加減にしてくれよ。お義父さん、ティナからどう聞いてるか知りませんが、湖で事故があったんです。ケガをしたジェイを先に馬車に乗せただけなんです。それが彼女の怒っている理由で……あの時、ジェイは痛がって泣いていました。だから仕方なく、彼を先に連れて行ったんです」

「ミリアが溺れたのに?」

ティナの一言に、一瞬たじろいだ。
溺れたとは大げさだ。
俺が湖に入ってちゃんと娘を助けた。そのことは棚に上げて、何なんだ。

「ミリアは……泣いてなかった。落ち着いてただろう?」

「泣いてなかったから、迎えに来なかったの?」

「迎えに……?」

「誰も迎えに来なかったのよ」

部屋に沈黙が広がった。
自分でもわかるほど、俺の顔から血の気が引いていく。
みるみるうちに青ざめていき、一瞬、言葉が出なかった。


「そんなはずない!」

「じゃあ、誰が来たの?あなたが来るって言ったわよね?無理なら迎えを寄こすって。でも、誰も来なかったわ」

「そ、そんな……」

足元がぐらりと揺れた気がした。
周囲の声が遠くに聞こえ、現実感が薄れていく。

迎えに来なかった……誰も?


まさか、そんな……

あまりの衝撃で、嗚咽を漏らす。
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