悲劇の悪女【改稿版】

おてんば松尾

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14 伯爵の怒り

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*ティナside


緊迫した空気の中、私はブライアンの顔をじっと見つめながら話し始めた。

「ミリアは泳げない。知ってるわよね?ジェイに桟橋から蹴り落とされたのよ」

「それは、ただの……子ども同士の遊びで……」

「違うわ。ミリアはジェイを怖がっていたの。遊びで桟橋なんかに行くような子じゃないわ」

娘がジェイを嫌っていたことを、あなたが知らないはずがない。
以前からミリアは、自分の口で、ジェイがいるなら行かないと父親に伝えていた。
ジェイが乱暴なところがあることも、彼は分かっていたはずだ。

「小さな女の子がみんな、男の子と外で走り回ると思っているの?あの子は本が好きで、音楽や歌、お花が好きな子よ」

「……子供はみんな駆け回って遊ぶんだ。だから、楽しんでいると」

「ミリアはそんなに外遊びが好きなタイプじゃない。ミリアは五歳の小さな女の子だ。ジェイは八歳の男子。しかもかなりやんちゃだ。怖いに決まっている」

クリフがブライアンを鋭く睨みつける。

「あなたは、すべて子ども同士の遊びで済ませるつもり?ジェイの言い分ばかり信じて、ミリアの声には耳を貸さなかった。私はあの子たちを極力会わせないようにしていたのに、あなたは何も気に留めていなかった」

「今回は家族だけで行くはずだったんでしょう?なぜエリザベスたちも一緒に行ったんですか?あなたは優先順位も分かっていないのか!」

年下であるにも拘らず、責め立てるクリフの言葉に、ブライアンは黙って俯いた。

「ジェイは、遊んであげていたと言っていたんだ」

ブライアンはぼそりと呟いた。

「自分の子を信じず、他人の子の嘘を見抜けない。そんな父親は必要ない!!」

「しかも、ティナとミリアを湖に放置して、朝まで屋外で過ごさせたんですよ!!」

「そんなことになっていると、思っていなかったんだ……本当に知らなかった」

「自分で迎えにも来ない、かといって御者に戻れとも言っていない。途中の辻馬車乗り場の者にでもいい、依頼して馬車を向かわせることだってできただろう?なぜそれをしなかったんだ?」

「私がどうやって戻ってきたと思っているの?早朝、収穫を終えた荷車を止めて農夫にブレスレットを渡し、屋敷まで連れてきてもらったのよ」

「ティナは、ぼろぼろの姿で農夫に運ばれてきたときにはすでに意識を失っていた。二人とも、目を背けたくなるほど痛々しい状態だった」

「まさか……」

彼は膝をついて頭を抱え、身体を震わせた。
空気がピリピリと張り詰める。

「忘れたのか?妻と娘を、忘れてしまったのか?自分の家族を殺そうとでも思っていたのか?」

「馬鹿な!そんなことはない!!」

顔を上げ、彼は震える声で叫んだ。
彼が何を言おうが、今さら言い訳にすらならない。

「ミリアは……ずぶ濡れのまま、外で一夜を明かさなきゃいけなかったのよ。わかる?死んでいてもおかしくなかったの!」

私の足元にすがりつき、涙を流すブライアン。

「……すまない!!本当に……本当にすまなかった!知らなかったんだ。君とミリアが、まさか……迎えが来ないなんて、そんな……」

バシン!

私の手が、怒りに任せてブライアンの頬を打つ。乾いた音が部屋に響いた。

「ふざけないで!!」

彼を正面から睨みつける。
ブライアンは頬を押さえ、驚いたように瞳を大きく見開いた。

「……っ」

「溺れたミリアを放置して……ジェイを馬車に乗せたわね?骨折?違うでしょう。ただの捻挫よ!」

ブライアンの肩がびくりと跳ね上がる。

「お前は、自分の娘より、義姉の子どもを優先したんだ」

父の低い声が重く響く。

「ミリアはまだ幼い子どもなんだぞ。この寒さの中、ずぶ濡れのまま……よくもまぁ、自分の妻子を見捨てられたものだ」

クリフも後に続いた。
ブライアンは青ざめ、肩が大きく震えている。

「そ、そんなつもりじゃ……」

「黙れ!」

父の怒声に、ブライアンの身体が凍りつく。

「そんな父親のいるお前の実家に‟支援”をしろ?笑わせるな!」

父は一歩、足を踏み出し、畳みかけるように言った。

「いつまで甘えられると思っている?渡した援助金は施しではない。融資だ。返せないのなら、担保の屋敷を明け渡せ」

「なっ……!」

ブライアンの口から、情けない声が漏れた。

「当たり前のことだ!」

父は鋭い口調で断ち切った。

「そ、そんな……そんな急に……」

「急ではありません。猶予はすでに七年も与えていたはずです。その間に返済計画も立ててあったはずなのに、結局のところ一度も履行されていませんでした」

クリフは言い聞かせるようにしっかりと彼に告げた。
ブライアンが腰を抜かしたように床に座り込んだ。

「宝石、パーティー、ドレス、食事に使用人。侯爵家の苦境を知っていながら、金を湯水のように使い続けた。お前は、無能以外の何者でもない」

「で……でも……」

「もう結構だ。それ以上言い訳をするな」

父は机に一枚の紙を叩きつけた。

「侯爵家へ戻って金を工面してこい。まずは、この離婚届にサインしてからだ」

「う、うわぁぁああっ……!」

ブライアンは頭を抱え、嗚咽に近い悲鳴を上げた。

「香辛料の専売権は、もはや侯爵家にはない。俺を誰だと思っている?ルノー家の当主。ルノー伯爵だ」

父の一喝に、ブライアンは完全に力を失った。
ようやく、自分がどれほど取り返しのつかない状況に落ちたかを理解したようだった。


父の視線が、凍りつくほど冷たくブライアンに突き刺さる。

「香辛料の専売権は、お前がミリアの父親で、この伯爵家をティナと共に継いでくれると思っていたから、手を回して手放さずに済むようにしていた。だが、離婚すれば、もう侯爵家に義理立てする必要も意味もない」

静まり返った空気が張り詰める。
それでもブライアンは、かすれた声で言い返した。

「ま、待ってくれ……俺は……そんな」

ブライアンが言い終わらないうちに、父が一歩踏み出した。
かと思うと、次の瞬間にはブライアンの胸ぐらを乱暴につかんでいた。

「何が、そんなつもりじゃないだ!」

父の怒声が屋敷中に響き渡る。

そして——

バシン!!

父の掌が、容赦なくブライアンの頬を叩いた。
先ほどの私の平手とは違う、骨に響くような打撃音だった。

ブライアンはよろめき、尻餅をついて、呆然と父を見上げる。
顔の片側が真っ赤に腫れ、目には涙か汗かわからない液体がにじんでいた。

「……やめ……っ」

バシン!!

今度は反対側の頬に、二発目。

「黙れ!!」

父は怒りだけで相手を斬りつけるような迫力で怒鳴りつける。

「七年も面倒を見てやり、家も金も与えてやった!その結果がこれか!?娘を見捨て、妻を湖畔に放置し、義姉の子どもだけを抱えて帰ってきた?恥を知れ!!」

ブライアンの肩がひくひくと痙攣した。
父の靴先が床を鳴らし、ブライアンのすぐ目の前へ迫る。

「お前のせいでミリアは死にかけた!ティナだって、気を失ったまま運ばれてきたんだ!その責任を取る覚悟があるのか!」

父は胸倉をつかんだまま、もう一度、拳を振り上げかけた。
しかし、ぎりぎりのところで止めた。

代わりに、くぐもった、低い声で言った。

「……これ以上、俺の手を汚させるな。サインしろ。今すぐにだ」

父が離婚届を突きつけると、ブライアンは全身を震わせたまま、虚ろな目で紙を見下ろした。


そして……彼は、喉の奥から振り絞るように、声を出した……



「離婚は……いやだ……」


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