悲劇の悪女【改稿版】

おてんば松尾

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16 侯爵家の崩落

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この国では、爵位は当主が亡くなった時に次代へ引き継ぐのが一般的な習わしだ。
義父はまだ若く、爵位を継ぐのは当分先の話。
そして、女性が爵位を継ぐことはほとんどなく、娘だけの場合は、娘婿が伯爵位を引き継ぐことになる。

俺は伯爵家よりも格が上の由緒ある侯爵家の次男だ。
学園でも優秀と評判だったし、社交界にも顔が広い。
身分も実力も申し分ない人間だった。

一つだけ問題があるとすれば、うちの侯爵家は歴史こそ古いものの、領地からの収入が少ないことだ。
領地は広大なのに、長年の不作や管理の不備で町も村も活気を失い、今では半ば荒れたまま放置されている。
そのせいで、家格に見合うだけの財力がないのが現実だった。

だから俺とティナは、互いの家の弱点を補い合い、繁栄と未来の利益を見据えて政略結婚をした。
でも俺たちは、思いやりや気づかいを忘れず、七年かけて、ちゃんと愛を育ててきた。


「なぜ……離婚だなんて……」

低く押し殺した声で呟いた。
帳簿をめくる手が止まる。
ページの上に、どんよりと重い現実が沈んでいる。

「金庫の中の現金はいくらある?予備費を置いていたはずだ」

経理を任せている者に指示を出した。

「ブライアン様、今月の使用人たちの給金と、支払いのための……」
「それを、とにかく掻き集めろ!入金もあっただろう?」

使用人たちが飛ぶように動き出す。
そして、一人の書記が言いづらそうに報告した。

「今月分の入金は、すべてジェイ様の部屋の改装と家具の新調に使われております」
「それは必要だったのか?」

今さらだが、無駄遣いを控えるように言っておけばよかったと後悔した。

何故子どもに、そんな贅沢をさせているんだ。
出ていった金、戻ってこない振込。胸の底から冷たいものが湧き上がる。

「伯爵家が支援金を停止した。貸付金の返還を求めている。屋敷が差し押さえられる」

しばらく皆が思考が止まったように沈黙した。
事の重大さを分からせなければならない。

「ブライアン何を言っているの?」

俺の言葉を聞いて、母が耳を疑うように首をわずかに傾けた。

だが次に彼女の口から出た言葉は、怒りに満ちていた。

「そんなはずはないでしょう!伯爵家ごときが、そんなことをできるはずがないわ」
「できるんだ!」

俺は吐き捨てるように叫ぶ。

「金を返さなければ、香辛料の今後の取り引きは断たれる。輸入ルートが切られてしまう!」
「なぜ!?」
「侯爵家が、先祖代々独占していたでしょう!」
「だからもう、独占して商売はできないんだ。国がそう決めた」

「なんですと?」

執事が青ざめ、声がうわずる。

「香辛料の商会はルノー伯爵の息のかかった業者ばかりです。彼を怒らせれば、外国からの商品が届かないでしょう。それに、商会は伯爵家に取り込まれた貴族たちがほとんどです!」

書記は焦りを隠せない。

「ルノー伯爵に、支援金の停止。返済の要求。それに、輸入ルートの封鎖まで告げられた」

言いながら頭の中が真っ白になった。
手が震え、書類が床に散らばった。

単なる収入源が減るだけの問題ではない。
侯爵家の看板と誇り、代々の事業が、一夜にして瓦解しかねない危機を意味していた。

「そんな……それでは、侯爵家が成り立たない」
「ルノー伯爵は、なぜそんな強硬に出たのですか?まさか、この間ティナ様を追い返したことが……」

使用人たちの間にざわめきが広がる。

「あなたたち使用人は何をやっていたの!ちゃんと、あの子の様子を報告しなさいといつも言っているでしょう!」
「奥様……私どもは失礼な態度はとっていません。私たちは、いつも通りでした」

執事はぶるぶると震えている。
俺は帳簿を握りしめたまま、視界が暗くなるのを必死に抑えた。
息が浅く、手が震える。だが逃げるわけにはいかない。
屋敷も母も、エリザベスもジェイも、皆の生活は、今は俺にかかっている。

「どうしますか、ブライアン様?」

執事の声が震える。

「ルノー伯爵の支援は、ティナとの結婚により取り決められたものだった。彼女が離婚を申し出た……」

「リ……こん?」

その場の空気が一気に凍りついた。

「まさか、あの子が離婚を?そんな、そんな馬鹿なことあるはずがないでしょう!格下の伯爵家の子が、なぜ、侯爵家の出であるブライアンに離婚を申し出るの!ふざけるのもいい加減にして!」

「母さん!湖での事故は、ジェイがミリアを湖に突き飛ばしたのが原因だった。それに、俺は彼女たちをあそこに放置したまま、迎えを寄こさなかった」

「どういうことなの!」
「ティナとミリアは、一晩中湖で待っていたんだ」

手を口元に当てて、母はわなわなと震えだした。

「な、なんて……なんてことなの……」」


***


それから10日が経った。

どう考えても、今までの借金を全部返済することは不可能だった。

何度も伯爵家へ足を運んだが、門前で追い返された。

「ブライアン、何でもして、ティナの機嫌を取りなさい。ミリアがそんなことになっていたなんて、こっちは知らなかったんだから」
「ミリアを殺すつもりだったのかと言われたんだ。今さらなにを言っても言い訳にしかならない」

「ただ、行き違いがあっただけよ。誰かが迎えに行っていると思った。それだけじゃない。なぜそんなことで離婚になるの?資金援助を止めるなんて、そんな姑息な手を使って、まるで私たちが悪者みたいじゃない」

エリザベスは苛立ち、ティナの勝手を責めている。

例え悪気がなかったとはいえ、湖で事故が起こってしまった事実は変えられない。
母とエリザベスは、伯爵家へ見舞いという謝罪へ向かった。
しかし、わざわざ出向いたにもかかわらず、屋敷に入ることさえ叶わなかった。
ルノー伯爵邸の門に、王家直属の騎士が立っていたからだ。

それが、ルノー伯爵と、ティナの決意の表れだった。

「王家のコネまで使って、忌々しい」

「伯爵の許可なく入れないって、うちは侯爵家なのよ!そんなことあってはならないわ」
「それを可能にしている。それくらいルノー伯爵には力があるんだ。王族の近衛が来ていただろう?あれは従妹のナタリーについている護衛だ」

「貴族のお友達も、話を聞いてくれないのよ。冷たいわ。きっと、伯爵が手を回しているのよ」

侯爵家からは、日ごとに物が消えていった。
サロンの金の燭台はなくなり、壁の絵画も剥がされ、市場へと運ばれた。

「絶対に私の宝石は売らないわ!とにかくティナの機嫌を取りに伯爵家へ向かいなさい!」
「できればしている」
「あなたは、ティナの夫なのよ!ミリアの父親でもあるわ!」

「けれど、どうにもできないんだ。せめて返済の見通しを立てて、誠意を見せないと。借金は待ってもらうしかない。母さん、このままでは住む場所がなくなるんだよ」

「返済は徐々にするということでいいでしょう。そのうち、伯爵家の財産はすべてあなたの物になるんだから」

だから離婚を告げられていると何度も言っているのに、理解してくれない。

「今まで、返済計画がちゃんと履行されていなかったんだ。こちらに、返済する気持ちがあることを分かってもらわなければならない。でなければ離婚だ」

「離婚をネタにあなたを脅しているとしか思えないわ」
「離婚、してやればいいのよ!あんな子、うちには釣り合わないわ!」

口では強気なことを言っていても、書斎の書物は箱に詰められ、重厚な机や椅子も次々に売られていく。
寝室の絹のカーテンやベッドの装飾品も姿を消し、かつての豪華さを示すものは次第に姿を消していった。

「使用人を少なくするなんて、どうやって暮らしていけというの?」
「どこかから、お金を借りられないの?」

「いろいろ当たってみたが……誰も、手を貸してくれなかった」

「ジェイはまだ子どもよ?平民のような暮らしなんてさせられないわ!」
「ああ。分かっている。ジェイはできるだけ苦労をかけないように、今まで通り学園にも通える手はずを整えている」
「送り迎えの馬車は、今までより貧相なものになってしまったわ」
「すまない。豪華な馬車は、売りに出すしかなかったんだ」

どうしても、ティナと直接話がしたかった。
義父でも、親戚でもない。彼女自身の口から、彼女の本心を聞きたかったのだ。

そうすれば、まだ間に合う。
夫婦としての絆が、完全に断ち切られたわけじゃないと、信じていた。

まだきっと俺たち夫婦は何とかなると……思っていた。

けれど、まさか、この先ジェイがあんな手に出るとは、夢にも思っていなかった。 
予兆はあったのかもしれない。
だが、それを見過ごしたのは、俺の油断だったのか。 

静かに崩れ始めた歯車は、もう誰にも止められなかった。
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