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「遅い」
大急ぎで頭を洗って、肌のお手入れもして髪を乾かす。
三十分もかからないうちに出てきたのに、脱衣所を出た途端に突然横からドスの利いた声をかけられた。
「わっ、お兄ちゃん!? どうしたの?」
驚いて声の方向を向けば、階段にお兄ちゃんが座って、私の方を睨んでいた。
「お前、風呂長すぎ。どんだけ待たせるんだよ」
「ええ……これでも結構早く出たんだよ?」
「知らねえよ。とにかく、俺も風呂入るからどけ」
乱暴に答えると、お兄ちゃんは私を押しのけるように脱衣所へ入っていく。ちゃんと道空けといたのに、どうしてそういうことするのかな。
「……うるさいな」
乱暴に閉じられた扉を静かに見つめながら、私は冷めた声で呟いた。
「お母さん。お風呂出たよ」
「そう。輝樹はお風呂に入った?」
「うん。早く入りたくて、階段で座って待ってたみたい。そんなに入りたいなら、お兄ちゃんが先でもよかったのに」
私は嫌味っぽくならないような口調でぼやく。
思わず我慢できない本音を漏らしてしまったけど、お母さんは機嫌を悪くしないだろうか。私の胸はバクバクしていた。
「何言ってるの。外から帰ってきて、汗もかいてたでしょ。お風呂に入らないとばっちいじゃない」
けれど、お母さんは平然と答えた。
「……確かに。そうだね」
私は笑顔を浮かべて肯定する。
お母さんは潔癖症だ。外から帰ってきたら、いの一番に手洗い。そのままシャワーを浴びないと気がすまない。本人は潔癖症を否定するけど、家から歩いて五分もしないコンビニに行っただけでもそれなのだから、苦しい言い訳だ。
別に私はお母さんのことなんてどうでもいい。問題はそのエゴを押しつけられることだ。
お母さんは潔癖症の中でも、自分の領域の外に激しく抵抗するタイプだ。そしてお母さんの領域は家の中。つまり、外から入ってきたものは全て病原体に見えている。だから、お兄ちゃんを待たせてでも私を一番にお風呂に入れさせたのだ。私は本当は食後にゆっくり入りたいのに。さっさとお風呂に入りたいお兄ちゃんの間ですれ違いが生じる。お母さんのせいで。
「ほんと嫌よね。輝樹ったら、自分のわがままが通らないと怒り出すんだから。ほんと、気疲れしちゃうわ」
首にタオルをかけたまま、食卓につく私に料理を配膳しながら、お母さんは愚痴をこぼす。
やっぱり、お兄ちゃんったらまた癇癪起こしたんだ。理由は間違いなくお風呂の優先順位だろう。
そしてそれがあったから、お母さんはお風呂に出る前に私に当たったんだ。少しでもストレスを発散するために。
ここで私も気疲れしてるんだよ。なんて返せば恐ろしい未来が待っているのは火を見るよりも明らかだ。
私は、強引に口の端を釣り上げて、笑顔を浮かべた。
「あはは。お兄ちゃんも大変なんだよ。お母さんも、お疲れ様」
自分で言っててヘドが出そうだった。
あれが大変なものか。今年で二十一になるくせに、大学にも行ってないし、仕事もしてないんだから。
「まったく。雫はあんなふうになっちゃだめだからね」
兄の姿がないのをいい事に、お母さんがこれ見よがしに陰口を叩く。
その言葉に肯定も否定したくなかった私は、曖昧に笑ってごまかした。
あんな風になるなだなんて、どの口がほざいてるんだか。
お兄ちゃんをあんな風にした張本人のくせに。
「はい、これ。今日は混ぜご飯にしたのよ。自信作だから、たくさん食べてね」
沸々と湧いた怒りは、お母さんの声と、お茶碗の置かれる音で霧散する。
早く、早く食べないと。
あまりゆっくりご飯を食べてると、洗い物の時間が遅くなるとお母さんが怒る。私がやるって言ってもいいって怒る。それに、お風呂が終わったらお兄ちゃんもくる。
お兄ちゃんと一緒にご飯を食べるなんて絶対に嫌だ。その前に部屋に戻らないと。
自分の箸を取って、いただきますと手を合わせる。それから、私は異変に気づいた。
「待って。お母さん、私こんなに食べれないよ」
私はお茶碗を両手で抱えて、お母さんに見せつけた。
盛り付けられたご飯がすごいことになっていた。茶色っぽいお米が器をはみ出して、たけのこや人参が混じった小山を築いている。
まるで、育ち盛りの男の子が食べるような量だ。
「あら、ごめんなさい。ちょっと盛りすぎちゃったかしら。でも、もうよそっちゃったし、食べなさい」
お母さんは何喰わぬ顔で謝ると、続いて残酷なことを言いだした。
最近の私は食が細くなってきて、茶碗半分のご飯ですら満足してしまうほどだ。それなのにこんな量……食べられるはずがない!
だけど、ここで残そうものならお母さんの機嫌がすこぶる悪くなるのは目に見えていた。
……仕方ないか。
「わかった。頑張って食べるね」
「そうしなさい。まったく、あんたはいつも全然御飯食べないから、心配になるわ」
素直に言うことを聞いてみせると、お母さんは頬を押さえてため息をついた。
その時お母さんが発した言葉は、偶然にも今日のお休みに遥ちゃんに言われた言葉と同じだった。でも、遥ちゃんと違ってお母さんのそれは、微塵も心に響かないどころか疎ましい。
「……うぇ」
炊き込みご飯の山、略して炊き込み山の攻略は非常に難航した。山頂付近を平地にしたところで、早くも限界が来る。
自然と箸が止まる。身体が限界を訴えていた。
もうやめて! 胃がはち切れちゃう!
わかってる。でも、やめられない。お母さんに怒られるから。
「母さん。俺も飯食っていい?」
吐きそうになりながら山の中腹に至ったところで、そんな声が飛び込んでくる。
「輝樹。もうお風呂上がったの?」
「おう」
髪も乾かしていない。
まだ十分も経っていないのに、もう来てしまった。お兄ちゃんが。
「お兄ちゃん。服くらい着なよ」
荒れ狂う吐き気を抑えて、私は毒づいた。
兄の学校は下着一枚で、ほぼ裸も同然だ。
別にパンツさえ履いてればお兄ちゃんがどんな格好でいようと責めるつもりはない。
でも、醜く肥え太ったお腹をさらけ出しながら歩かれるのは結構きついものがある。しかも、お腹の毛の処理も一切してないからなおさらだ。
「あ? やだよ。服とか暑苦しいし。それより、母さん、俺も腹減ったから飯よそって」
私の言葉をあっさり否定すると、お兄ちゃんは横柄な態度でお母さんに頼み込む。
そんな頼み方、私だったら絶対できないけど。
お母さんはソファに座ってスマホをいじったまた、なにも言わない。
「んだよ、それくらいやってくれてもいいじゃねえかよ」
お兄ちゃんはムッとして文句を口にする。
当然、お母さんは微動だにしない。
もし、文句を言ったのが私だったら、お母さんは睨むことで言うことを聞かせただろう。事実、昔はそうしていた。でも、お兄ちゃんは私と違ってお母さんの眼光に怯えない。それどころか反抗するから、いつも大声で怒鳴り合っていた。そんな日々が毎日続き、疲れてしまったお母さんは、今みたいに完全無視するようになった。
それでもお兄ちゃんは口撃を続けるけど、お母さんが全く反応しないから、諦める。
基本、お母さんとお兄ちゃんの喧嘩は、そんなふうにわだかまりを残したまま収束する。まるで冷戦だ。そして、残ったストレスの捌け口となるのが私なのだ。
お兄ちゃんはその後もぶちぶちと文句を言ってたけど、やがて「仕方ねえなあ」と不機嫌そうに口にして、物理的に重そうな腰を上げた。
その間も、私は炊き込み山の攻略に勤しんでいた。でも、もういよいよ限界で、少し動いただけでも吐きそうだ。
「お、今日は鶏肉か。しかもこれって照り焼きか?」
よそってきたご飯を食卓に並べると、お兄ちゃんはいただきますも言わずに大皿の照り焼きチキンに箸を伸ばした。そのまま三切れくらい一気に掴み取って、同時に口の中へと突っ込むと、乱暴に一噛み二噛みして呑み込む。ほぼ丸呑みだった。そんな状態の食材を消化しなきゃいけない胃が可哀想だと思った。
「なあ、雫。照り焼きがなんで照り焼きって言うか知ってるか?」
不意にお兄ちゃんが尋ねてくる。
「ううん。知らないけど」
私は首を振りつつ、次に襲いかかってくるストレスに備えた。
いつもの流れだった。
たまにこうして向かい合って話す機会があると、お兄ちゃんは決まって何かについて知ってるかと口にする。
ここで私が知ってると口にすれば、お。流石だな。と褒めたふりをして、知らないと口にすれば馬鹿にするように「そんなことも知らないのか」と言ってウンチクが始まるのだ。
どっちになっても、私は苦しい。そして、お兄ちゃんはストレスを発散することができる。
「なんだ。そんなことも知らないのか」
ほら来た。
笑ってしまうくらい予想通りの言葉が飛んでくる。
試しに本当に笑ってみた。驚くほど冷めた笑顔が出来た気がして、すぐにやめた。
「照り焼きってな。タレの糖分で照りつくから照り焼きっていうんだぞ。ちなみに日本の照り焼きはソースを塗って焼く調理法のことで、アメリカのテリヤキはテリヤキソースで作った料理全般のことを指すんだってよ」
お兄ちゃんは箸をカチカチと鳴らしながら、自慢げに語る。
どうやら同じ言葉でも国によって意味が違うらしい。
全くもって、どーーーーでもよかった。
だけど、その気持ちを正直に打ち明けると、怒り出して面倒なことになる。
「そうなんだ。初めて知ったよ」
だから、私は心を殺して、誠心誠意感心したような演技をした。
すると、お兄ちゃんはすんなり騙されたようで、気持ちよさそうにうなずいた。
「勉強は大事だぞ」
それって、自分に向けた言葉かな。
お兄ちゃんがアドバイスのように口にした言葉に、心の中でツッコミを入れる。
言ってから、すぐに自分が口にした矛盾に気づいたのだろうか。
お兄ちゃんは途端に眉を潜めて、舌打ちをした。自分の言葉に気に障ったのだろう。
なぜなら、お兄ちゃんがこんな粗悪なニートになってしまったのは、大学受験に何度も失敗したのが原因だから。
それからお兄ちゃんは、堰を切ったように勉強は無駄。必要なのは座学より実習だ。などとわけのわからないことを延々と口にした。自分は実習とやらもしてないくせに偉そうに。
この場の空気はまさに地獄だった。
一刻も早くここから抜け出したくて、私は食事のペースを早めた。
だけど茶碗の山は全然減らなくて、お腹が異様に苦しくなった。このままだと本気でお腹が破裂してしまいそうなので、試しにお兄ちゃんに少し食べてくれないかとお願いしてみたけど、食べかけの飯なんて嫌だと断られてしまった。
そして、私の都合なんか無視して、すぐに自己満足のウンチク語りを始めてしまう。
この時ばかりは、色々諦めてる私も流石に怒りを露にしかけた。
お母さんが物理担当、お兄ちゃんが精神担当で、私を拷問の実験台にでもして楽しんでいるのかと心の底から思った。
結局何も言えないまま、一刻も早くこの空間から逃げ出してしまいたくて、無理やり胃袋に詰め込んだ。嫌がる身体を叱咤して、咀嚼する。
「ごちそうさま。それじゃ私、宿題あるから部屋に戻るね」
時々えずいたりもしたけど、なんとか茶碗の中身を空にして、私は食卓を離れる。
お兄ちゃんは宿題というワードにイラッと来たみたいだけど、気にしてる余裕なんてなかった。
食器を片付けると、逃げるようにリビングを後にして、手すりを使いながら階段を上がる。
あまりにもお腹が苦しい。途中、足が止まって、吐き気を抑える時間が必要な程だった。
「うう……苦しい」
部屋に戻ると、立っているのも座っているのも辛くて、ベッドに横たわった。
お腹を抑えて、しばらく天井を眺めていた。
息もお腹も何もかもが苦しくて、気を抜けば胃の中のものがすべて逆流してきそうだった。
出産間近の妊婦さんはこんな気持ちなんだろうか。不謹慎にもそんなことを思う。
必死に関係ないことを考えて、ひたすらに消化が進むのを待っていたけど、無理だった。ついに耐えきれなくなった私は、トイレで吐いた。
「はあ、ほんと最悪」
すべてが終わって、自然と漏れた言葉からはツンとした胃液の臭いがした。
ただ胃の中のものを吐き出しただけなのに、私の身体は持久走を終えた後のように疲れ切っていた。このまま動きたくなかったけど、今の姿を家族に見られたら終わる。
なんとか四肢に力を込め、汚れた口元をトイレットペーパーで拭って、それごと水を流すと、消臭スプレーを過剰に振りまいて、側面の小窓も開ける。
そんなふうに嘔吐の処理を淡々と行う姿なんて、SNSでわたしを慕ってくれる人たちに見られたら、一瞬で幻滅されてしまうだろう。なにより私自身がそうなのだから間違いない。お母さんの言いなりで、こんな惨めな姿にさせられて。最低だ。
大急ぎで頭を洗って、肌のお手入れもして髪を乾かす。
三十分もかからないうちに出てきたのに、脱衣所を出た途端に突然横からドスの利いた声をかけられた。
「わっ、お兄ちゃん!? どうしたの?」
驚いて声の方向を向けば、階段にお兄ちゃんが座って、私の方を睨んでいた。
「お前、風呂長すぎ。どんだけ待たせるんだよ」
「ええ……これでも結構早く出たんだよ?」
「知らねえよ。とにかく、俺も風呂入るからどけ」
乱暴に答えると、お兄ちゃんは私を押しのけるように脱衣所へ入っていく。ちゃんと道空けといたのに、どうしてそういうことするのかな。
「……うるさいな」
乱暴に閉じられた扉を静かに見つめながら、私は冷めた声で呟いた。
「お母さん。お風呂出たよ」
「そう。輝樹はお風呂に入った?」
「うん。早く入りたくて、階段で座って待ってたみたい。そんなに入りたいなら、お兄ちゃんが先でもよかったのに」
私は嫌味っぽくならないような口調でぼやく。
思わず我慢できない本音を漏らしてしまったけど、お母さんは機嫌を悪くしないだろうか。私の胸はバクバクしていた。
「何言ってるの。外から帰ってきて、汗もかいてたでしょ。お風呂に入らないとばっちいじゃない」
けれど、お母さんは平然と答えた。
「……確かに。そうだね」
私は笑顔を浮かべて肯定する。
お母さんは潔癖症だ。外から帰ってきたら、いの一番に手洗い。そのままシャワーを浴びないと気がすまない。本人は潔癖症を否定するけど、家から歩いて五分もしないコンビニに行っただけでもそれなのだから、苦しい言い訳だ。
別に私はお母さんのことなんてどうでもいい。問題はそのエゴを押しつけられることだ。
お母さんは潔癖症の中でも、自分の領域の外に激しく抵抗するタイプだ。そしてお母さんの領域は家の中。つまり、外から入ってきたものは全て病原体に見えている。だから、お兄ちゃんを待たせてでも私を一番にお風呂に入れさせたのだ。私は本当は食後にゆっくり入りたいのに。さっさとお風呂に入りたいお兄ちゃんの間ですれ違いが生じる。お母さんのせいで。
「ほんと嫌よね。輝樹ったら、自分のわがままが通らないと怒り出すんだから。ほんと、気疲れしちゃうわ」
首にタオルをかけたまま、食卓につく私に料理を配膳しながら、お母さんは愚痴をこぼす。
やっぱり、お兄ちゃんったらまた癇癪起こしたんだ。理由は間違いなくお風呂の優先順位だろう。
そしてそれがあったから、お母さんはお風呂に出る前に私に当たったんだ。少しでもストレスを発散するために。
ここで私も気疲れしてるんだよ。なんて返せば恐ろしい未来が待っているのは火を見るよりも明らかだ。
私は、強引に口の端を釣り上げて、笑顔を浮かべた。
「あはは。お兄ちゃんも大変なんだよ。お母さんも、お疲れ様」
自分で言っててヘドが出そうだった。
あれが大変なものか。今年で二十一になるくせに、大学にも行ってないし、仕事もしてないんだから。
「まったく。雫はあんなふうになっちゃだめだからね」
兄の姿がないのをいい事に、お母さんがこれ見よがしに陰口を叩く。
その言葉に肯定も否定したくなかった私は、曖昧に笑ってごまかした。
あんな風になるなだなんて、どの口がほざいてるんだか。
お兄ちゃんをあんな風にした張本人のくせに。
「はい、これ。今日は混ぜご飯にしたのよ。自信作だから、たくさん食べてね」
沸々と湧いた怒りは、お母さんの声と、お茶碗の置かれる音で霧散する。
早く、早く食べないと。
あまりゆっくりご飯を食べてると、洗い物の時間が遅くなるとお母さんが怒る。私がやるって言ってもいいって怒る。それに、お風呂が終わったらお兄ちゃんもくる。
お兄ちゃんと一緒にご飯を食べるなんて絶対に嫌だ。その前に部屋に戻らないと。
自分の箸を取って、いただきますと手を合わせる。それから、私は異変に気づいた。
「待って。お母さん、私こんなに食べれないよ」
私はお茶碗を両手で抱えて、お母さんに見せつけた。
盛り付けられたご飯がすごいことになっていた。茶色っぽいお米が器をはみ出して、たけのこや人参が混じった小山を築いている。
まるで、育ち盛りの男の子が食べるような量だ。
「あら、ごめんなさい。ちょっと盛りすぎちゃったかしら。でも、もうよそっちゃったし、食べなさい」
お母さんは何喰わぬ顔で謝ると、続いて残酷なことを言いだした。
最近の私は食が細くなってきて、茶碗半分のご飯ですら満足してしまうほどだ。それなのにこんな量……食べられるはずがない!
だけど、ここで残そうものならお母さんの機嫌がすこぶる悪くなるのは目に見えていた。
……仕方ないか。
「わかった。頑張って食べるね」
「そうしなさい。まったく、あんたはいつも全然御飯食べないから、心配になるわ」
素直に言うことを聞いてみせると、お母さんは頬を押さえてため息をついた。
その時お母さんが発した言葉は、偶然にも今日のお休みに遥ちゃんに言われた言葉と同じだった。でも、遥ちゃんと違ってお母さんのそれは、微塵も心に響かないどころか疎ましい。
「……うぇ」
炊き込みご飯の山、略して炊き込み山の攻略は非常に難航した。山頂付近を平地にしたところで、早くも限界が来る。
自然と箸が止まる。身体が限界を訴えていた。
もうやめて! 胃がはち切れちゃう!
わかってる。でも、やめられない。お母さんに怒られるから。
「母さん。俺も飯食っていい?」
吐きそうになりながら山の中腹に至ったところで、そんな声が飛び込んでくる。
「輝樹。もうお風呂上がったの?」
「おう」
髪も乾かしていない。
まだ十分も経っていないのに、もう来てしまった。お兄ちゃんが。
「お兄ちゃん。服くらい着なよ」
荒れ狂う吐き気を抑えて、私は毒づいた。
兄の学校は下着一枚で、ほぼ裸も同然だ。
別にパンツさえ履いてればお兄ちゃんがどんな格好でいようと責めるつもりはない。
でも、醜く肥え太ったお腹をさらけ出しながら歩かれるのは結構きついものがある。しかも、お腹の毛の処理も一切してないからなおさらだ。
「あ? やだよ。服とか暑苦しいし。それより、母さん、俺も腹減ったから飯よそって」
私の言葉をあっさり否定すると、お兄ちゃんは横柄な態度でお母さんに頼み込む。
そんな頼み方、私だったら絶対できないけど。
お母さんはソファに座ってスマホをいじったまた、なにも言わない。
「んだよ、それくらいやってくれてもいいじゃねえかよ」
お兄ちゃんはムッとして文句を口にする。
当然、お母さんは微動だにしない。
もし、文句を言ったのが私だったら、お母さんは睨むことで言うことを聞かせただろう。事実、昔はそうしていた。でも、お兄ちゃんは私と違ってお母さんの眼光に怯えない。それどころか反抗するから、いつも大声で怒鳴り合っていた。そんな日々が毎日続き、疲れてしまったお母さんは、今みたいに完全無視するようになった。
それでもお兄ちゃんは口撃を続けるけど、お母さんが全く反応しないから、諦める。
基本、お母さんとお兄ちゃんの喧嘩は、そんなふうにわだかまりを残したまま収束する。まるで冷戦だ。そして、残ったストレスの捌け口となるのが私なのだ。
お兄ちゃんはその後もぶちぶちと文句を言ってたけど、やがて「仕方ねえなあ」と不機嫌そうに口にして、物理的に重そうな腰を上げた。
その間も、私は炊き込み山の攻略に勤しんでいた。でも、もういよいよ限界で、少し動いただけでも吐きそうだ。
「お、今日は鶏肉か。しかもこれって照り焼きか?」
よそってきたご飯を食卓に並べると、お兄ちゃんはいただきますも言わずに大皿の照り焼きチキンに箸を伸ばした。そのまま三切れくらい一気に掴み取って、同時に口の中へと突っ込むと、乱暴に一噛み二噛みして呑み込む。ほぼ丸呑みだった。そんな状態の食材を消化しなきゃいけない胃が可哀想だと思った。
「なあ、雫。照り焼きがなんで照り焼きって言うか知ってるか?」
不意にお兄ちゃんが尋ねてくる。
「ううん。知らないけど」
私は首を振りつつ、次に襲いかかってくるストレスに備えた。
いつもの流れだった。
たまにこうして向かい合って話す機会があると、お兄ちゃんは決まって何かについて知ってるかと口にする。
ここで私が知ってると口にすれば、お。流石だな。と褒めたふりをして、知らないと口にすれば馬鹿にするように「そんなことも知らないのか」と言ってウンチクが始まるのだ。
どっちになっても、私は苦しい。そして、お兄ちゃんはストレスを発散することができる。
「なんだ。そんなことも知らないのか」
ほら来た。
笑ってしまうくらい予想通りの言葉が飛んでくる。
試しに本当に笑ってみた。驚くほど冷めた笑顔が出来た気がして、すぐにやめた。
「照り焼きってな。タレの糖分で照りつくから照り焼きっていうんだぞ。ちなみに日本の照り焼きはソースを塗って焼く調理法のことで、アメリカのテリヤキはテリヤキソースで作った料理全般のことを指すんだってよ」
お兄ちゃんは箸をカチカチと鳴らしながら、自慢げに語る。
どうやら同じ言葉でも国によって意味が違うらしい。
全くもって、どーーーーでもよかった。
だけど、その気持ちを正直に打ち明けると、怒り出して面倒なことになる。
「そうなんだ。初めて知ったよ」
だから、私は心を殺して、誠心誠意感心したような演技をした。
すると、お兄ちゃんはすんなり騙されたようで、気持ちよさそうにうなずいた。
「勉強は大事だぞ」
それって、自分に向けた言葉かな。
お兄ちゃんがアドバイスのように口にした言葉に、心の中でツッコミを入れる。
言ってから、すぐに自分が口にした矛盾に気づいたのだろうか。
お兄ちゃんは途端に眉を潜めて、舌打ちをした。自分の言葉に気に障ったのだろう。
なぜなら、お兄ちゃんがこんな粗悪なニートになってしまったのは、大学受験に何度も失敗したのが原因だから。
それからお兄ちゃんは、堰を切ったように勉強は無駄。必要なのは座学より実習だ。などとわけのわからないことを延々と口にした。自分は実習とやらもしてないくせに偉そうに。
この場の空気はまさに地獄だった。
一刻も早くここから抜け出したくて、私は食事のペースを早めた。
だけど茶碗の山は全然減らなくて、お腹が異様に苦しくなった。このままだと本気でお腹が破裂してしまいそうなので、試しにお兄ちゃんに少し食べてくれないかとお願いしてみたけど、食べかけの飯なんて嫌だと断られてしまった。
そして、私の都合なんか無視して、すぐに自己満足のウンチク語りを始めてしまう。
この時ばかりは、色々諦めてる私も流石に怒りを露にしかけた。
お母さんが物理担当、お兄ちゃんが精神担当で、私を拷問の実験台にでもして楽しんでいるのかと心の底から思った。
結局何も言えないまま、一刻も早くこの空間から逃げ出してしまいたくて、無理やり胃袋に詰め込んだ。嫌がる身体を叱咤して、咀嚼する。
「ごちそうさま。それじゃ私、宿題あるから部屋に戻るね」
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お兄ちゃんは宿題というワードにイラッと来たみたいだけど、気にしてる余裕なんてなかった。
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あまりにもお腹が苦しい。途中、足が止まって、吐き気を抑える時間が必要な程だった。
「うう……苦しい」
部屋に戻ると、立っているのも座っているのも辛くて、ベッドに横たわった。
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息もお腹も何もかもが苦しくて、気を抜けば胃の中のものがすべて逆流してきそうだった。
出産間近の妊婦さんはこんな気持ちなんだろうか。不謹慎にもそんなことを思う。
必死に関係ないことを考えて、ひたすらに消化が進むのを待っていたけど、無理だった。ついに耐えきれなくなった私は、トイレで吐いた。
「はあ、ほんと最悪」
すべてが終わって、自然と漏れた言葉からはツンとした胃液の臭いがした。
ただ胃の中のものを吐き出しただけなのに、私の身体は持久走を終えた後のように疲れ切っていた。このまま動きたくなかったけど、今の姿を家族に見られたら終わる。
なんとか四肢に力を込め、汚れた口元をトイレットペーパーで拭って、それごと水を流すと、消臭スプレーを過剰に振りまいて、側面の小窓も開ける。
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