冷たい左手

池子

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幕章

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日が落ちて辺りは真っ暗になっていた。六月とはいえ、夜はまだ冷える。
俺は一人で外に出て、この教会の様な別荘を見つめていた。
煙草を口に咥え、肺一杯に紫煙を吸い込む。
いつの間にか考え事をしたい時には、これが無いと駄目な身体になってしまった。
吸い始めた当初は身体に合わなくて、咳込みながら無理矢理にでも吸っていたというのに。
思い返すと吸い始めたきっかけは、少しでも早く煙草で身体を蝕んで、この世界からさっさと消えたかったからだ。
自分で命を断つ程の勇気は無い。俺自身が出来る精一杯の反抗だったのだ。
紫色の煙を吸うと、身体を蝕んでいる気がして俺の心を落ち着かせた。
煙草を口に咥える度、考えしまう事はいつも同じだ。
俺が弱ったら父は母は俺を見てくれるのだろうか。
俺に会いに来てくれるのだろうか。
俺が死んだら悲しんでくれるのだろうか。
そんな事を考えながら、毎日少しずつ俺は自分自身を傷つけていった。
自分でも思うが、相当捻くれた性格をしていると思う。
自分の意志で家を出て家族との関係を断とうとした筈なのに、それでも家族に俺を見て欲しい。
矛盾だらけで本当に笑えてくる。
俺はこれまでの人生、椿倫太郎という役を演じ続けている。
人をまとめ上げる力があり、頼りになる。他者から見た椿倫太郎とはそんなところだろう。
実際は違う、自分の事を見て欲しいと思っている唯の子供なのだ。
こんな俺の本心を知ったら、幻滅する人もいるだろう。
それでも良いと思った事もあった。もう全てがどうでも良く思えていたのだ。
しかし、去年の春に俺を変える出会いがあった。
佐々木海斗が同じ大学に入学してきたのだ。
海斗は俺に向かって初めましてと言った。
俺もその言葉に初めましてと返した。
そう、俺達はまた初めましてから始まっていくんだ。それで良いんだ。
あのね、海斗は忘れてしまっているだろうけど、俺と海斗はずっと昔に会った事があるんだよ。
俺が幼い頃住んでいた地域には小さな教会があり、家に居づらい時はその教会で時間を潰していた。
友達も居なくひとりぼっちだったので、常に本を読んでいた気がする。
今思えば俺の小説好きは、あそこから始まっていたのかもしれない。
そんなある日、小さな男の子が教会に現れた。
「真っ白なお城!」
とよく分からない言葉を発したその子は、膝を擦りむいて泣いていた。
俺は人と話す事が苦手だった為、いつもだったら見向きもしなかったが、その子の事は何故だか放っておけなかった。
教会の牧師に声をかけ、救急箱を貸してもらいその子の膝を手当てする。
そんな俺を不思議そうに見つめ、膝を消毒し絆創膏を貼る頃には、その子の涙はいつの間にか引っ込んでいた。
俺はその子の左手を掴み立ち上がらせ、名前を聞くと小さな声で「海斗」と名乗った。
海斗は最近この辺りに引っ越して来た様で、親に内緒で近くを探検しようとしたら迷子になってしまったらしい。
その際に見つけたこの小さな教会の事を、絵本で見た海外のお城だと勘違いをして忍び込んだ様だ。
俺は海斗と共に家を探す為に、小さな左手をしっかりと繋ぎ直すと教会を後にした。
温かくて、柔らかくて、そしてどこか優しいその手を俺は何故か離す事が出来なかった。

次の日も、また次の日も海斗は俺に会いに教会に遊びに来た。
懐かれてしまったなと思いつつ、毎日会いに来てくれてる事に内心喜んでいた。
幼いながらも俺は海斗の笑顔を見る度に、自分の中が満たされていくのを感じた。
教会で海斗と会う様になって二ヶ月程が経った頃、俺の父親と恋人関係にあった今の母親が正式に籍を入れる事となり、当時住んでいたアパートから引っ越す事となった。
俺は引っ越しに反対したが、年端も行かない子供が意見を言ったところで、何かが変わる訳でもない。
俺は海斗には何も言わずに街を去る事にした。
最後に会ってしまったら、海斗を泣かせてしまうと分かっていたからだ。
それと同じくらいに、俺自身も泣いてしまう事が分かっていたからだ。
父親が再婚してからは、毎日が苦しかった。
同じ屋根の下にいる筈なのに、俺達は家族じゃない。
俺だけが家族じゃない。
そんな苦しくて辛い時には、あの日握った海斗の温かな左手を思い出す。
俺にとって海斗と過ごしたあの教会での時間は、人生で一番価値のある時間だ。
もうこれ以上の事はないだろうと思っていた。
昨年、推理サークルの新入生見学会で海斗の姿を見るまでは。

「倫太郎さんこんなところに居たんですか、探しましたよ。夜は冷えるって言ったの倫太郎さんじゃないですか。風邪を引いてしまいますよ」
玄関の扉が開き、海斗が顔を覗かせた。
「悪かった、外の空気が吸いたくなってね」
「その気持ち分かります、この別荘は窓がないからか空気が籠っている感じがしますよね。やっぱり外の空気は美味しいです。僕今から食堂に向かいますけど、倫太郎さんはどうしますか」
「あぁ、この一本を吸い終わったら俺も向かうよ」
「分かりました」と言って海斗は去って行った。
先程まで口に咥えていた煙草を今は吸う気になれず、地面に押し付けて火を消す。
海斗に教会での出来事を伝える気は無い。
忘れたままでいいんだ。思い出さなくていい。
こんな俺の想いになんて気づかなくていい。



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