お伽話 

六笠 嵩也

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第一章

1-15

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「それにしても…」

嘉平は浴衣の下で丸まっている鈴虫の体を、まじまじと見回した。

「それにしても、まともに金的きんてき喰らっちまうなんてついてないなぁ、お前も。傷になったのが切っ先だったからまだ良かったんだよ。玉、潰されたら洒落にならんぞ…」

「…おら、これ、いらない…取れないのかなぁ…。」

嘉平はギョッとした。

「な、何を言い出すかと思えば!観音菩薩様に選ばれた大事な体なんだから取れるわけないだろ。」

「おらがこんな奇妙な体でなかったら…って。」

「だからってなぁ、引っこ抜くわけにもいかんし、切り取ったらもっと痛てぇぞぉ!…まぁ、仮に、仮にだ。お前が普通の娘だったら嫁に出しても良い年頃なんだがな。」

嘉平は困惑しながらも冗談ぽく笑った。しかし、その言葉が鈴虫の心に突き刺さる。

「おら…女に生まれてたら、さきっさんのお嫁さんになれたの?」この言葉は喉につかえて出てこなかった。その代わりに、収まりかけていた涙が再び鈴虫の目からは止め処なく涙が溢れた。小さな背中を揺らして嗚咽が漏れる。まずい事を言ってしまったのかと、急に口籠もる嘉平の哀れみが背中越しに伝わってくる。そっと背中を撫でる手は優しかった。しかしそれが何の慰めになるだろうか。先程までの幸せな時間から、急な坂を転げ落ちるように、どうにもならない悲しみの淵に追いやられてしまった。

「あぁぁ…どうして?…もう、厭だ!だいっきらいだっ!おらは…おらが、だいっきらいだっ!あぁぁ…ぁぁ…」

「す、鈴虫?お前…体が弱ってるから気持ちが不安定なんだよ。ほれ、泣かないたら傷に障るよ。落ち着きなさい。」

夏の日の夕暮れ、急に一陣の冷たい風が吹き、バタバタと音を立てて夕立がやって来た。
激しく降り始めた雨が、鈴虫の慟哭を呑み込んでいく。家路に就いた佐吉の後を追って、鈴虫の涙にも似た大粒の雨が、乾いた田畑を濡らしている。どんなに泣いてもこの悲しみは誰の心にも届かないのだろう。自らの肩を爪を立てて握り締め、鈴虫は散々泣いた。
そして、終いには吸い込まれるように暗い眠りに堕ちていったのだった。


白んだ雨の向こうから男の影が駆けて来る。

家に近くなると楽しげな話し声が聞こえて来た。聞きなれた声にはほっとする。軒に入り顔を上げ、額から流れる滴を手の甲で払い除けた。

「ただいま戻りました。やっと雨が降ったと思ったら、この有様だ!」

「お帰り、佐吉兄ぃ。見事に濡れ鼠だな!」

体に纏わりつく着物を脱ぎ捨て下帯一枚になると、ずぶ濡れの手足を乾いた手拭いで拭いた。
囲炉裏の周りでは、親父と喜一郎がすっかり馴染んだ様子で談笑していた。鍋の中からは野菜と味噌の煮えた香りが漂って食欲をそそる。濡れた着物を桶に突っ込み、替えを羽織ると急いで夕餉の席に着いた。

「あ、そだ。ついでにこの雨で頭も洗っちまえば良かったかな?」

「それなら俺もだっ!着物も外に出して置いたら汚れが落ちて良いや。やるか?!その桶、外に出しておけば水が溜まって丁度良いぞ。」

「まったく、不精な奴らだな。ちょっと湯でも沸かせば良いのに。風邪引くなよ!」親父は呆れて大笑いしながら、椀に野菜のたくさん入った味噌汁を盛り付けて振舞ってくれた。空きっ腹にじんわりと、旨みの効いた汁が浸み込む。少々騒がしいが、やはり一緒に食事をすると男所帯の侘びしさが紛れる。一人寝の親父は一時の寂しさを紛らわすように大いに笑った。
母親が亡くなってから表情が減った親父が笑うのを見ていると、やはり佐吉も嬉しく思えた。佐吉はこの場の雰囲気を作ってくれる感謝の意を込めて、喜一郎にも囲炉裏越しに微笑みかけた。
一頻り笑い、腹が膨れると、親父は囲炉裏の縁にごろりと寝転んで、まもなく静かに寝息を立て始めた。佐吉と喜一郎の二人は音を立てないように席を立ち外に出る。

夕立の通り過ぎた後に涼しい風が吹き渡る。雲間から大きな白い月が覗き辺りは明るかった。草の葉の上には先程の雨粒がきらきらと水晶のように美しく輝いている。あちらこちらから数知れない虫たちが、透き通った声で囁き合い、夏の夜の全てを占めてゆく。二人はしばらく月を眺めて夜の空気を胸に吸い込んだ。そして、どちらともなく歩みを合わせると、露を踏まないようにしてすっかり居慣れた作業小屋へ向かった。屋根から滴り落ちる滴に当たらないように素早く戸を開ける。
小屋に入ると、何となく定位置になった壁際に二人はそれぞれ収まった。
佐吉はどうしても喜一郎に言いたかったことがあった。それを今夜はまず、肝を据えて話そう。ここ数日で知った彼の一面からすると、否定される不安は拭いきれない。だが、佐吉の知っている喜一郎を信じよう。そう意を決して口を開いた。

「鈴虫は俺が抱かせて貰うことで話は着いたよ。」

「ふ~ん…そりゃ、願ったり叶ったり!ありがたい!これで俺はもうあれと遣らなくて済むんだな。」

「でだ、喜一郎よ、鈴虫は俺と契りを交わす。だから…もう、決して鈴虫を傷つけたりしないでくれ。鈴虫を俺の許嫁だと思って大事にしてやってくれ。せめて、殴る蹴るは…もう、止めてくれ。これは俺からの頼みだ。」

喜一郎は沈黙した。そして大きな溜息と共に重たい口調で言った。

「…佐吉兄ぃ…あれを許嫁って?馬鹿野郎だ。俺の話をちゃんと聞いてなかったのか。なんであんな奴に情けをかけるんだ?人が好いのにも程があるだろ。報われないぞ。あれは化け物だ。あれの体もお役目も、変えようがないんだからな。」

「分かってる……つもりだ、全部。だから、せめてお前は鈴虫を傷つけるのを止めてくれ。」

「馬鹿野郎だ…。泣くなよ!その代わり、泣くなよ!辛い思いしても絶対に泣くなよ!!!」

「…その…つもりだ。」

佐吉は抱えた膝頭の上で唇を噛み締めた。暫しの沈黙が流れる。
喜一郎はごろりと床に寝転び背中を向けると、決まり悪そうにボソボソと話し始めた。

「俺だって別に…始めはあそこまで酷く殴るつもりはなかったんだ。」

「そか、だよな。俺もお前がそういう奴だとは思えなくて変だと思ったんだ。」

「水弾きはな、あれがどんな物だか知らないって言うから作ってやったんだ。あれはな、他の子がどんな遊びをしているか知らないんだ。だからせめて一つくらい作って見せてやろうかと…そしたら、あれは嬉しそうに…嬉しそうに笑って……。」

喜一郎は遠い目で幼い日を思い出す。
今日のような暑い夏の日は毎日のように仲間と連れ立って、河原で水遊びをしたり、山で虫取りなどして遊んだものだ。それは子供時代のかけがえの無い大切な思い出であり、それがあって今の佐吉との関係もある。その大切な記憶の中で唯一の暗い影。一点の曇りも無い幸せな時間についた小さな滲みのような存在が鈴虫なのだ。
燦燦と降り注ぐ太陽の光の下、駆け出す喜一郎が振り返ると、そこにはいつも寂しそうに佇む鈴虫が居た。声を上げるでもなく、ただ手を振って背中を見送る眼差しが、いつまでもいつまでも、大人になった今でも追い縋って来るようで辛かった。

「駄目だッ!あれに心を許しちゃいけない!化け物なんだ!騙されちゃいけない!」

喜一郎は声を荒げて自分の心に蓋をした。その面持ちは苦渋に満ちている。佐吉にはだんだんと喜一郎の長年の苦しみが伝わってきた。どうにも折り合いのつかない矛盾は、佐吉が代役をかって出ても解消される事は無いのだろう。

「…だよな。分かるよ。俺もお前の話を聞いて、人ではない何かなのかも知れないって思った。でも、鈴虫を見ると…あんまりにも可愛いんだ。たぶん、鈴虫には得体の知れない恐ろしさと、守って遣りたくなるような愛らしさが同居してるんだろうな。喜一郎、お前は間近で事の次第を見てきた分、怖ろしさが勝り、俺は話を聞いただけだから…。きっと…それだけのことだろう。」

「うぅ…ん、そうなのかも知れないな…。」

「あっ、そだ!旦那様、お前のこと心配してるぞ。」

「あぁ…ありがとな。佐吉兄ぃ……」

喜一郎は心の中に閉じ込めていた暗い影の記憶を吐き出してしまうと、どこか穏やかな安堵感に包まれていた。このまま屋敷に帰った後、どうやって鈴虫と接していけば良いのかという問いの答えはまだ無い。きっと、すぐに変えていく事は難しいだろう。しかし、いつかきっと鈴虫が投げかけてくれた笑顔に、素直な優しさを返せるような関係になれれば良い。

会話が途切れると、虫たちの声が小屋を占める。二人は瞼の落ちるに任せて今日を終えようとしていた。


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