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第一章
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その後も佐吉は鈴虫のもとに通いつめていた。
佐吉が屋敷へ上がるのはだいたいいつもお天道様が一番高くに昇る頃だ。ここ数日は毎日のようにやって来る夕立のおかげで夕方になれば涼しくなる。しかし今日もまだ太陽が真上にあるうちは茹だる様な暑さだった。
このところ鈴虫の具合はだいぶ良くなり、もう起き上がって歩けるようになっていた。薬はもう少しで全部飲み終えるので、あとはもう少し食欲が出て体力が戻ってくれれば良い。
今日も薬を飲ませた後に何か食べさせて、少しばかりの二人の時間を楽しもう。嘉平の思惑で動かされているだけかもしれないが、それでも佐吉は幸せだと感じていた。嘉平としても鈴虫が佐吉に心を許してくれている事はありがたい筈だ。このまま想い合う恋人のように番わせたいと思うのはせめてもの親心だろう。
佐吉がいつものように屋敷へ上がる。昨日は部屋の入り口から顔を出して待っていてくれた鈴虫が今日は居ない。おかしいと思いつつも嘉平に連れ立って部屋に入ると、隅っこのほうに小さくなって座っていた。抱き寄せようとすると今日に限って体を強張らせ近付いて来ない。そっと肩に触れる佐吉の手からじりじりと逃れ、下を向いたまま目を合わせることが出来ないでいる。どうやらいつもと様子が違う。喜一郎の代わりをするという話が現実味を帯びてきたという事もあって、警戒されてしまったのかと心配になってきた。
「お鈴ちゃん、なんか…不安なのかい?…お、俺のこと怖いのかい?」
鈴虫は頬っぺた真っ赤に染めて、プイッと顔を叛けた。
「佐吉、そろそろ鈴虫は限界だそうだよ。」
「へっ?」
「行水したいそうなんだよ。悪いが水を汲んでくれないか?汗の臭いが気になるだの、髪が汚いだの…綺麗じゃないとお前に嫌われるんじゃないかって心配だそうだ。で、今日は薬を自分ひとりで頑張って飲んじまったんだよ。可笑しな子だよね。」
「は、はぁ…?!」
佐吉の口から拍子抜けした声が漏れた。
お妙に大きな洗濯盥と筵を借りると屋敷の軒の近くに用意をした。廻り廊下からそのまま降りることが出来そうな位置だ。佐吉は厨に水を運び湯を沸かしてもらうよう頼み、後は黙々と井戸と盥を往復する。鈴虫は廻り廊下の縁に腰掛けて、傷を覆う晒を解きながらその様子を見ていた。瘡蓋は気にならない程になってきたし、痣も紫から黄色に変わって落ち着いて来ている。一時は死んでしまうのではないかと思えたが、どうやらその心配は無くなったようだ。
全ての晒を解き終えると、開放された身体が軽く感じられるのか、鈴虫の顔には笑みが溢れている。久々の陽の光に愛おしそうに手を伸ばし、軽く閉じた瞼の下で開放感を感じているんだろう。まだあどけなさの残る顔立ち、背中に掛かる絹糸の様な長い髪、天を指す白く細い指先、その姿はどこか此の世ならざる者のような神々しさがある。
佐吉は思わず息を呑み、その細い手首に触れてしまった。否、触れるだけでは済まない。衝動的に両手を掴んでしまった。鈴虫が驚いて目を見開いた。あの日と同じ鼈甲色の瞳が佐吉を捕らえる。いま二人を遮るものは何も無い。お互いの息遣いと鼓動に閉じ込められたようだ。もう俺にはこの子しか要らない…佐吉の頭はそれだけで一杯になっていた。
しかし、そんな想いも束の間。突然の声に二人は現実に引き戻される。
「そうだ、佐吉よ、爪を短く切ってきなさい。」
佐吉は驚き手を離し、自分の手と鈴虫を交互にまじまじと見た。そう言われてみれば先程まで畑仕事をしてきたその手はあまり綺麗とは言えない。少しでも早く会いたかったので、身なりなど気にせずにいたのだ。鈴虫は自由が利かないながらも気を遣っていたと言うのに、なんだか申し訳ないような気持ちになってきた。
「気が付かなくてすみません。この間も親父からも不精者って叱られたところで…いけませんね。」
「いやぁまぁ、こればっかりは気をつけなくちゃいかんのだよ。鈴虫に触れるときは必ず角の無いように慎重に切って来い。思ったよりも傷つきやすいからな。」
屋敷の奥からお妙が佐吉を呼んでいる。頼んでおいた湯が沸いたのだ。急いで厨へ湯桶を受け取りに向かった。
鈴虫は佐吉が消えた視界の先の芙蓉の花をぼんやりと見つめていた。その奥には古びた小さな堂がある。もうすぐそこへ帰るのだ。
芙蓉の花の合間をひらひらと二匹の黒揚羽が絡み合うようにして飛び回っていた。それに気付いた鈴虫は、自分と佐吉を重ね合わせて嬉しそうに目を細める。しばらく花の合間を飛んだ蝶が、申し合わせたように青く晴れた空へと舞い上がった。鈴虫は青い空へ消えた蝶の行方を目で追うが、二匹の蝶はあっという間に遠くへ飛び去り、もう見えはしない。蝶が飛び去った空を満足気な笑みを湛え見上げる鈴虫。その様子に気が付いた嘉平は静かに歩み寄り、隣に腰掛けると慎重に言葉をかけた。
「綺麗な蝶々だったねぇ。」
鈴虫はコクコクと頷いた。
「まさかの話だが…お前もあんなふうに……」
鈴虫は寂しそうにギュッと目を閉じた。そして、一呼吸置くと震える声で心に閉じ込めた想いを零した。
「……そ…だよ。」
熱い湯桶を持って佐吉が戻ると、嘉平は水を足して鈴虫の長い髪を無言で洗い始めた。その面持ちは何故だか強張っている。
その隣では何も知らない佐吉が汚れた晒を丁寧に洗っては手早く植木の枝に干していった。
「ありがと…ね、さきっさん。」
「ほれ、着てる物を脱いで。それも洗ってあげるから。」
鈴虫は頭を下げたまま首を捻って、一瞬キョトンとした顔を佐吉に向けた。佐吉は元気そうにしている鈴虫の傍に居るだけで楽しくて堪らない。ニコニコしながら何の躊躇も無しに着ている物に手を掛けてくる。鈴虫は頭を嘉平に押さえられ、逃げるわけにはいかないので慌てて襟元と裾を押さえた。
「えっ、えぇっ…まっ、待ってくだせ!あっ、いけません!そ、そんなぁ…。」
慌てる鈴虫を見て嘉平は破顔した。
「ははは、分かった、分かった!鈴虫は恥ずかしくて脱げないそうだ。佐吉よ、お前はもう一杯、湯を沸かして持って来てくれ。ゆぅ~っくりで構わんよ。」
「…はいはい、分かりましたよ。」
少々不満げに手を振りながら佐吉が屋敷の中に消えて行った。
その背中を見送ると、鈴虫は自ら着物を脱ぎ捨て盥の中に腰を下ろした。水面に反射する光がきらきらと濡れた白い肌を飾り、そのあまりの美しさに思わず溜息が出てしまいそうだ。嘉平は薄い背中を糠袋を使って洗いながら隅々まで触れて傷の治りを確かめていく。耳の裏、首筋、鎖骨の窪みと華奢な肩、武骨な指が背中をなぞり水底の谷間に滑り込むと、鈴虫は思わず身体を強張らせた。
「あぁ、やっぱりか…十日以上も何もしなかったから硬くなってしまったな。さて、どうしたものか。」
鈴虫は唇を噛み締めて俯いた。
「今日は…やめて、ね…。」
「あぁ、もうちょっと調子が良くなってからにしようかね。」
佐吉がもうすぐ湯桶と着替えを持って戻ってくるだろう。こんな晴れた日は何も怖れずに楽しげに過ごしたい。それは鈴虫の小さな願いだ。嘉平がその意を汲み取って手を退けると、鈴虫は振り返えって精一杯の笑顔を返した。
「ほれ、もう一つ、頭から掛けるぞ。目ぇ、つむれぇ。」
「あははっ!はいっ、どぞっ!」
鈴の転がるような明るい笑い声が屋敷の奥の厨まで聞こえてくる。いつも言葉少なく小さな声で話す鈴虫が、あんな笑い方をするとは思いも寄らなかった。佐吉は手拭いと着替えを出してもらっている間も外の様子が気になって仕方が無い。しかし、お妙を急かすわけにもゆかず少々苛立ってきた。
「まぁったく!俺が居ないとずいぶん楽しそうだなぁ。」
「佐吉よ、そう言わないでやっておくれ。体がさっぱりして嬉しいんだろ。私もあの子があんな笑い声を立てるのを聞くのはもう何年ぶりかだよ。」
「そぅなんですか。俺、追い払われちまいましたよ。居ない方が良かったかな?」
「あぁ、それはね、違うよ。あの子の体にはそれなりの価値がある。だからね、やたらに人目に晒さないように躾けてあるから恥ずかしがってるだけだよ。お前等みたいに童の頃から素っ裸で川に飛び込んだりしたりしてたわけじゃないからねぇ!」
「う~ん…お鈴ちゃんは綺麗だけど体の造りは男だし…男同士だから…。」
「違う。違う…違うんだよ。いまに分かるから。佐吉よ、出来るのであれば、お前はあの子を女として大切に扱ってやってくれ。」
「俺、女って母さんと怖ぇ姉さんしか知らんからなぁ…あっ、あと、お妙様。」
お妙は苦笑しながら湯桶を手渡した。
佐吉は湯桶と手拭いと着替えの浴衣とを纏めて持って外へ出た。屋敷の角から水浴びをする鈴虫を遠目に隠れ見ると、頭から水を掛けられては愛らしくはしゃいでいる。佐吉はこのままずっと鈴虫の笑顔を眺めていたかった。おそらくとんでもない腑抜けた顔になっていただろう。しかしそこを嘉平に見つかった。
「おぉ~助兵衛な佐吉ぃ~、こっち見んなぁ。後向いて歩いてこ~い。」
「はぁ?!す、助兵衛って!もうッ!何でそんな変なことを?わかりましたよ、わかりましたって!」
佐吉は本当に後ろ向きに歩いて二人の所に湯桶を届けた。そんな姿を見て鈴虫が楽しげに笑っている。
「まだ後向いてろよ。」
バシャバシャと水を掛ける音と鈴虫の笑い声。たとえ後を向いていても、何だか目のやり場に困るような気恥ずかしい心持がする。上がり湯を掛けて体を拭いているんだろうと、音だけで簡単に想像出来てしまうのも遣る瀬無い。いつまで後ろを向いていれば良いのだろう。この状況で振り返ることを許されないのは非常にもどかしい。大した時間では無い筈なのに永遠のように感じる。
突っ立ったままそんな事を考えて悶々としているところ、急に手を引っ張られた。
「…んッ!?」
「ほれ、これで御満足かな?」
嘉平は二人の手を引き合わせて握らせると、鈴虫の背中をぽんと押して、振り向いた佐吉の胸元に収めてやった。
「あぁ…お鈴ちゃん、待ってたよ。」
うん、待ってた…ずっと……
鈴虫は嬉しくて何も言えず、ただその腕の中で深く息を吸い込んだ。
佐吉が屋敷へ上がるのはだいたいいつもお天道様が一番高くに昇る頃だ。ここ数日は毎日のようにやって来る夕立のおかげで夕方になれば涼しくなる。しかし今日もまだ太陽が真上にあるうちは茹だる様な暑さだった。
このところ鈴虫の具合はだいぶ良くなり、もう起き上がって歩けるようになっていた。薬はもう少しで全部飲み終えるので、あとはもう少し食欲が出て体力が戻ってくれれば良い。
今日も薬を飲ませた後に何か食べさせて、少しばかりの二人の時間を楽しもう。嘉平の思惑で動かされているだけかもしれないが、それでも佐吉は幸せだと感じていた。嘉平としても鈴虫が佐吉に心を許してくれている事はありがたい筈だ。このまま想い合う恋人のように番わせたいと思うのはせめてもの親心だろう。
佐吉がいつものように屋敷へ上がる。昨日は部屋の入り口から顔を出して待っていてくれた鈴虫が今日は居ない。おかしいと思いつつも嘉平に連れ立って部屋に入ると、隅っこのほうに小さくなって座っていた。抱き寄せようとすると今日に限って体を強張らせ近付いて来ない。そっと肩に触れる佐吉の手からじりじりと逃れ、下を向いたまま目を合わせることが出来ないでいる。どうやらいつもと様子が違う。喜一郎の代わりをするという話が現実味を帯びてきたという事もあって、警戒されてしまったのかと心配になってきた。
「お鈴ちゃん、なんか…不安なのかい?…お、俺のこと怖いのかい?」
鈴虫は頬っぺた真っ赤に染めて、プイッと顔を叛けた。
「佐吉、そろそろ鈴虫は限界だそうだよ。」
「へっ?」
「行水したいそうなんだよ。悪いが水を汲んでくれないか?汗の臭いが気になるだの、髪が汚いだの…綺麗じゃないとお前に嫌われるんじゃないかって心配だそうだ。で、今日は薬を自分ひとりで頑張って飲んじまったんだよ。可笑しな子だよね。」
「は、はぁ…?!」
佐吉の口から拍子抜けした声が漏れた。
お妙に大きな洗濯盥と筵を借りると屋敷の軒の近くに用意をした。廻り廊下からそのまま降りることが出来そうな位置だ。佐吉は厨に水を運び湯を沸かしてもらうよう頼み、後は黙々と井戸と盥を往復する。鈴虫は廻り廊下の縁に腰掛けて、傷を覆う晒を解きながらその様子を見ていた。瘡蓋は気にならない程になってきたし、痣も紫から黄色に変わって落ち着いて来ている。一時は死んでしまうのではないかと思えたが、どうやらその心配は無くなったようだ。
全ての晒を解き終えると、開放された身体が軽く感じられるのか、鈴虫の顔には笑みが溢れている。久々の陽の光に愛おしそうに手を伸ばし、軽く閉じた瞼の下で開放感を感じているんだろう。まだあどけなさの残る顔立ち、背中に掛かる絹糸の様な長い髪、天を指す白く細い指先、その姿はどこか此の世ならざる者のような神々しさがある。
佐吉は思わず息を呑み、その細い手首に触れてしまった。否、触れるだけでは済まない。衝動的に両手を掴んでしまった。鈴虫が驚いて目を見開いた。あの日と同じ鼈甲色の瞳が佐吉を捕らえる。いま二人を遮るものは何も無い。お互いの息遣いと鼓動に閉じ込められたようだ。もう俺にはこの子しか要らない…佐吉の頭はそれだけで一杯になっていた。
しかし、そんな想いも束の間。突然の声に二人は現実に引き戻される。
「そうだ、佐吉よ、爪を短く切ってきなさい。」
佐吉は驚き手を離し、自分の手と鈴虫を交互にまじまじと見た。そう言われてみれば先程まで畑仕事をしてきたその手はあまり綺麗とは言えない。少しでも早く会いたかったので、身なりなど気にせずにいたのだ。鈴虫は自由が利かないながらも気を遣っていたと言うのに、なんだか申し訳ないような気持ちになってきた。
「気が付かなくてすみません。この間も親父からも不精者って叱られたところで…いけませんね。」
「いやぁまぁ、こればっかりは気をつけなくちゃいかんのだよ。鈴虫に触れるときは必ず角の無いように慎重に切って来い。思ったよりも傷つきやすいからな。」
屋敷の奥からお妙が佐吉を呼んでいる。頼んでおいた湯が沸いたのだ。急いで厨へ湯桶を受け取りに向かった。
鈴虫は佐吉が消えた視界の先の芙蓉の花をぼんやりと見つめていた。その奥には古びた小さな堂がある。もうすぐそこへ帰るのだ。
芙蓉の花の合間をひらひらと二匹の黒揚羽が絡み合うようにして飛び回っていた。それに気付いた鈴虫は、自分と佐吉を重ね合わせて嬉しそうに目を細める。しばらく花の合間を飛んだ蝶が、申し合わせたように青く晴れた空へと舞い上がった。鈴虫は青い空へ消えた蝶の行方を目で追うが、二匹の蝶はあっという間に遠くへ飛び去り、もう見えはしない。蝶が飛び去った空を満足気な笑みを湛え見上げる鈴虫。その様子に気が付いた嘉平は静かに歩み寄り、隣に腰掛けると慎重に言葉をかけた。
「綺麗な蝶々だったねぇ。」
鈴虫はコクコクと頷いた。
「まさかの話だが…お前もあんなふうに……」
鈴虫は寂しそうにギュッと目を閉じた。そして、一呼吸置くと震える声で心に閉じ込めた想いを零した。
「……そ…だよ。」
熱い湯桶を持って佐吉が戻ると、嘉平は水を足して鈴虫の長い髪を無言で洗い始めた。その面持ちは何故だか強張っている。
その隣では何も知らない佐吉が汚れた晒を丁寧に洗っては手早く植木の枝に干していった。
「ありがと…ね、さきっさん。」
「ほれ、着てる物を脱いで。それも洗ってあげるから。」
鈴虫は頭を下げたまま首を捻って、一瞬キョトンとした顔を佐吉に向けた。佐吉は元気そうにしている鈴虫の傍に居るだけで楽しくて堪らない。ニコニコしながら何の躊躇も無しに着ている物に手を掛けてくる。鈴虫は頭を嘉平に押さえられ、逃げるわけにはいかないので慌てて襟元と裾を押さえた。
「えっ、えぇっ…まっ、待ってくだせ!あっ、いけません!そ、そんなぁ…。」
慌てる鈴虫を見て嘉平は破顔した。
「ははは、分かった、分かった!鈴虫は恥ずかしくて脱げないそうだ。佐吉よ、お前はもう一杯、湯を沸かして持って来てくれ。ゆぅ~っくりで構わんよ。」
「…はいはい、分かりましたよ。」
少々不満げに手を振りながら佐吉が屋敷の中に消えて行った。
その背中を見送ると、鈴虫は自ら着物を脱ぎ捨て盥の中に腰を下ろした。水面に反射する光がきらきらと濡れた白い肌を飾り、そのあまりの美しさに思わず溜息が出てしまいそうだ。嘉平は薄い背中を糠袋を使って洗いながら隅々まで触れて傷の治りを確かめていく。耳の裏、首筋、鎖骨の窪みと華奢な肩、武骨な指が背中をなぞり水底の谷間に滑り込むと、鈴虫は思わず身体を強張らせた。
「あぁ、やっぱりか…十日以上も何もしなかったから硬くなってしまったな。さて、どうしたものか。」
鈴虫は唇を噛み締めて俯いた。
「今日は…やめて、ね…。」
「あぁ、もうちょっと調子が良くなってからにしようかね。」
佐吉がもうすぐ湯桶と着替えを持って戻ってくるだろう。こんな晴れた日は何も怖れずに楽しげに過ごしたい。それは鈴虫の小さな願いだ。嘉平がその意を汲み取って手を退けると、鈴虫は振り返えって精一杯の笑顔を返した。
「ほれ、もう一つ、頭から掛けるぞ。目ぇ、つむれぇ。」
「あははっ!はいっ、どぞっ!」
鈴の転がるような明るい笑い声が屋敷の奥の厨まで聞こえてくる。いつも言葉少なく小さな声で話す鈴虫が、あんな笑い方をするとは思いも寄らなかった。佐吉は手拭いと着替えを出してもらっている間も外の様子が気になって仕方が無い。しかし、お妙を急かすわけにもゆかず少々苛立ってきた。
「まぁったく!俺が居ないとずいぶん楽しそうだなぁ。」
「佐吉よ、そう言わないでやっておくれ。体がさっぱりして嬉しいんだろ。私もあの子があんな笑い声を立てるのを聞くのはもう何年ぶりかだよ。」
「そぅなんですか。俺、追い払われちまいましたよ。居ない方が良かったかな?」
「あぁ、それはね、違うよ。あの子の体にはそれなりの価値がある。だからね、やたらに人目に晒さないように躾けてあるから恥ずかしがってるだけだよ。お前等みたいに童の頃から素っ裸で川に飛び込んだりしたりしてたわけじゃないからねぇ!」
「う~ん…お鈴ちゃんは綺麗だけど体の造りは男だし…男同士だから…。」
「違う。違う…違うんだよ。いまに分かるから。佐吉よ、出来るのであれば、お前はあの子を女として大切に扱ってやってくれ。」
「俺、女って母さんと怖ぇ姉さんしか知らんからなぁ…あっ、あと、お妙様。」
お妙は苦笑しながら湯桶を手渡した。
佐吉は湯桶と手拭いと着替えの浴衣とを纏めて持って外へ出た。屋敷の角から水浴びをする鈴虫を遠目に隠れ見ると、頭から水を掛けられては愛らしくはしゃいでいる。佐吉はこのままずっと鈴虫の笑顔を眺めていたかった。おそらくとんでもない腑抜けた顔になっていただろう。しかしそこを嘉平に見つかった。
「おぉ~助兵衛な佐吉ぃ~、こっち見んなぁ。後向いて歩いてこ~い。」
「はぁ?!す、助兵衛って!もうッ!何でそんな変なことを?わかりましたよ、わかりましたって!」
佐吉は本当に後ろ向きに歩いて二人の所に湯桶を届けた。そんな姿を見て鈴虫が楽しげに笑っている。
「まだ後向いてろよ。」
バシャバシャと水を掛ける音と鈴虫の笑い声。たとえ後を向いていても、何だか目のやり場に困るような気恥ずかしい心持がする。上がり湯を掛けて体を拭いているんだろうと、音だけで簡単に想像出来てしまうのも遣る瀬無い。いつまで後ろを向いていれば良いのだろう。この状況で振り返ることを許されないのは非常にもどかしい。大した時間では無い筈なのに永遠のように感じる。
突っ立ったままそんな事を考えて悶々としているところ、急に手を引っ張られた。
「…んッ!?」
「ほれ、これで御満足かな?」
嘉平は二人の手を引き合わせて握らせると、鈴虫の背中をぽんと押して、振り向いた佐吉の胸元に収めてやった。
「あぁ…お鈴ちゃん、待ってたよ。」
うん、待ってた…ずっと……
鈴虫は嬉しくて何も言えず、ただその腕の中で深く息を吸い込んだ。
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