お伽話 

六笠 嵩也

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第二章

2-7

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赤い夕焼けが皺枯れた細い指の影を深く浮かび上がらせる。
文机の前に正座して、お妙は静かに硯に向かい墨を磨っていた。これから記す決まり文句のような出だしは頭に入っている。しかし、そこから先の部分のを何と記すべきか。思いつく事柄を全て並べ立てては順序などに思いを巡らしていると、取り止めも無くなり堂々巡りしてしまう。
鈴虫の閉じ込められた堂に佐吉が入ってからだいぶ時間が経っていた。嘉平が戻る前に大まかな所は仕上げおきたいものだ。耄碌もうろくしたと自分を叱咤しながら白い木綿の布を晒布を広げた。ふと赤ん坊の顔が脳裏に浮び、お妙の手が暫し止まる。そう、鈴虫は小さく生まれついた愛らしい顔立ちの男の子だった。

あの日…孫娘を亡くた悲しみを誰にも悟られまいと、気丈に釜戸の前に立っていたお妙の元に、血塗ちまみれの嘉平が駆け込んできた。その胸に抱かれていた未だ胎脂に覆われた赤ん坊…神か仏が願いを聞き届けて、再びこの手に授けてくれた大切な命。お妙にとってはその子が男の子でも、忌み子の産んだ子でも、どうでも良かった。失われた孫娘が姿を変えて戻って来てくれたようで、ただ愛しくてたまらなかったのだ。
その子が今、どうにもならない自らの体と闘っている。

「鈴虫よ…私はこれで最後になるかも知れない…あぁ、この後は喜一郎の嫁に伝えていければ良かったのに…ごめんよ、鈴虫。さぞや心細かろう…」

お妙は筆を握ると白い布地に文字を連ねてゆく。
そこには鈴虫が観世音菩薩の現身として振舞うにあたり、その功徳に浴する者が守らねばならない約束事を書き記さねばならない。体が小さく、あまり丈夫とは言えない鈴虫を思うと、乱暴な扱いをされる事は絶対に避けたい。まずはその辺りを明記しておこう。

それから…

お妙の手は何度も止まる。時に小さな喜一郎を抱き上げる雪虫の笑顔が浮び、時に首を括った嫁の苦悶の顔が浮ぶ。色々ありすぎた人生に、更に鈴虫の悲しみが刻まれようとしている。
このおきてに携わる誰もが、それぞれの運命に弄ばれる事からは逃れられないのは分っている。どうせ逃れられないのならば、その対価として出来うる限り大きなものを得てやろう。お妙は精一杯思案を巡らせて巧妙な文章を組み立ててゆく。これが鈴虫に代わってしてやれる運命への仕返しだ。
お妙は滑らせる墨の跡を涙で滲ませないように気を張って筆を進めた。


山の端に夕日が隠れる頃に嘉平は何とか屋敷に戻ることが出来た。上ノ村の村長むらおさは怪我を負った際に、鈴虫の体の様子を診ていたので話は早かった。「始まったようだ」その一言で全てを察した上ノ村長は近隣への手配を請け負ってくれると言う。嘉平は屋敷の中の事と、村の女子供への対処をすれば良いだけだ。
しかし、そうは言っても簡単なことではない。時期があまり良くないのだ。どうせならば稲の刈り取りが終わった後の秋の祭礼の時期と被って貰えれば良かった。そうすれば自然と女や子供の目を逸らすことが出来ただろう。しかし凡その時期は見当がついても、その通りに鈴虫の体に観世音菩薩の御力が宿るとは限らないのだ。
何と言い繕って時期を早めようか。嘉平は思案に暮れながら、とうとう屋敷まで辿り着いてしまった。

「母さま、ただいま戻りました。手配は引き受けてくれるそうです。そして、これ、ここに、上ノ村より葛粉を分けていただきました。食の落ちた鈴虫の口に入れて欲しいとの事です。頃合を見て葛湯を作りますのでお運び願います。」

「心得たよ。で、嘉平や、書き止める文言はこんなものでどうだろうか。」

畳の上に広げられた晒布に綿々と綴られた文言は見事なものであった。

「母さま、見事にございます。」

お妙はそれを聞くと安堵の溜息を吐いた。

「そうかね、あぁ、では私はまだ早いけれど、もう寝かせてもらいますよ。お前も何か食べてから早々に休みなさいね。」

「…そうですね、でも…佐吉が堂を出るのを確かめてから休もうと思います。」

「そうかい、あの二人…引き剥がすのは可哀相な気もするけど…仕方が無い。後のことは頼んだよ。おやすみなさい。」

嘉平はお妙に背を向けて襖を閉めると、静まり返った廊下を厨へと向かい、小さく燈した明かりを頼りに鍋底を浚って簡単な夕餉を済ませた。この明かりが燃え尽きるまでに嘉平にはもう少しやるべきことが残っている。足早に納戸へ行き、普段余り使われていない行灯を一つ用意する。そして行李を開けて古びた女物の着物を一枚取り出した。その着物は薄い単衣で、あちこちに継接ぎのある酷く粗末なものであった。それらを持って廊下を戻り、自室に入るとそれらを入り口近くに置いたまま横になった。

屋敷の中は静まり返っていた。少し前まで虫や蛙の鳴き声が賑やかだったのが、今はすっかり落ち着いた会話の様な音色になっている。いつのまにか忍び足で季節は通り過ぎて秋めいた空気へと変わっていた。物寂しい沈黙の中に嘉平は独り佇みながら物思いに耽る。

「南無観世音菩薩…南無観世音菩薩…南無…。」

表で僅かに戸の閉まる音が聞こえた。思っていたよりも早く佐吉は堂を出たようだ。嘉平は昼間の疲れと、二つ目の言い付けが守られたことを確認できた安堵感から、強烈な眠気に襲われてそのまま朝まで眠りに付いた。


足音を忍ばせて佐吉は家路を急ぐ。誰の目にも留まらぬように家まで帰らねばならないのだ。
蛇がとぐろを巻くように、佐吉の中には悲しみや、切なさや、愛しい者を守りきれない不甲斐無さ、ありとあらゆる負の感情が渦巻いていた。あんな状態で鈴虫を独り置いてきたかったわけが無い。出来る事ならば二人で遠くへ逃れて、二度とこの土地へ戻りたくなかった。しかし、もし捕まれば今度こそ鈴虫の体はただでは済まされないだろう。結局は一緒に居残ることも、連れて逃げる事も叶わないのだ。

佐吉の頭上には一筋の雲も無い夜空が広がっていた。人間の気持ちなどとは関係なく自然は美しい。ただ凛と澄み切った漆黒の中に白い月と星が明るく輝いている。そして、そこから降り注ぐ淡い光が地上を青く照らし、佐吉の帰るべき道を真っ直ぐに指し示す。真綿のように白くて軽い鈴虫をその背に負って通った道を、今夜は青黒く重い孤独を抱えて独り行く。これが目印だよと教えた柿木から道を逸れると灯りの無い我が家だ。

佐吉は家まで辿り着きはしたが、親父と喜一郎の顔をまともに見ることも、話をすることも出来るとは思えなかったので、そのまま音を立てぬようにして作業小屋へと独り入って行った。
格子窓から僅かに月光の漏れる薄暗い作業小屋で膝を抱えると、否が応にも鈴虫の顔が脳裏に浮んだ。ほんの少し前まで繋いでいた指が温度を失っゆく。目頭に溜まる感情を押し殺そうと、佐吉は瞼をきつく閉じ、両の拳を固く握り締めた。

「…すず…すず、俺は…俺は!…ごめんよ…やっぱり、俺は無力だっ!!ごめん…ごめんよ…俺は一体どうすれば良かったんだろうか。」


おら、しあわせだから…だいじょうぶ…

閉じた瞼の裏で鈴虫が笑った。

精一杯の優しい言葉をくれた瞼の裏の鈴虫を手放したくない。佐吉は喉を詰めて声を殺し、真っ黒な天井に向かって鈴虫の名を呼んだ。闇の中に伸ばした手は、空を掴み決して鈴虫には届かない。そんな事は分っている。それでもそうせずには居られなかった。

「…お鈴ちゃん…俺の手を離さないでよ…俺も離さないから…」

佐吉は暗い空間を掴んだまま力無く床に横になると、独りぼっちの眠りに就いた。
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