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第二章
2-33
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開け放たれた堂の中をサラサラと風が流れて行く。
まるで今朝までの濃厚な交わりの痕跡を掃き清めて行くように、小さな塵を巻き上げては開かれた堂の扉の隙間から外へと消えて行った。
鈴虫の額を冷やす布を何度か取り換えて、嘉平は床板にゴロリと体を投げ出した。まだ油断は出来ないが張詰めた心を少しばかり緩めて眠りに就きたいものだ。ぼんやりと見上げた天井に格子窓から差し込んだ光が帯を成す。一眠りしたら、ここはお妙に任せて上ノ村へと薬を取りに行かねばならない。佐吉か喜一郎が居てくれたのならば、上ノ村への遣いを頼めただろうにとも思ったが、二人もまた夜祭を主宰するという役目を負っているのだ。やはり自分が行かねばならない。今のうちに昼夜の逆転を修正しなければ後々祟るだろう。
瞼を閉じる前に隣に横たわる鈴虫の顔をもう一度見たい。ふとそんな気がして顔を横に向けると、罅割れた唇を薄く開いて熱のこもった息を吐いている。安心できる状態では無い事は分かってはいるが、規則正しく呼吸しているというだけで少し胸を撫で下ろした。
「この子を守ったのは観世音菩薩様なのか、それとも…佐吉なんだろうか…なぁ、鈴虫よ…お前の熱が引いたら、必ず佐吉に会わせてあげるから…」
鈴虫が遠くへ行かないように小さな約束を口にして、日が高く昇る頃まで休もうと嘉平は瞼を閉じた。
空の高いところを風が吹いているのだろうか。堂の扉の隙間から覗く水色の空に白い雲の筋が棚引いている。
佐吉と鈴虫が出会った頃は青々としていた稲田も、今は黄金色に染まった。日を追うごとに秋は深まり、収穫に向けて屋敷の塀の外では人々が忙しく働いている。堂を囲むたった一本の縄の結界の内と外とでは全く違う時間が流れているようであった。
「佐吉兄ぃ!…ううん…眠ぃ…なぁ、なぁ、ちょっとだけ昼寝しようぜっ!」
「ん…確かに疲れたなぁ…あんまり寝てねぇもんなぁ…やっぱりよぉ、この忙しい時期に夜祭ってのは無理があるよなぁ?しかも三日も…俺はずっと笛を吹きっぱなし。何度同じ節回しを吹いたかわからねぇよ。終いには頭が痛くなってくるんだよなぁ。」
「だろ?だろ?みんな、よく飽きもせずに踊ってられるよなぁ?俺も太鼓の撥で変な所に肉刺が出来そうだし、拍子が耳について寝付けなくなるんだよな。親父様もさぁ、ちょこっと昼寝しようやぁ。」
佐吉とその親父と喜一郎は、眠たい目をしばしばとさせながら雑穀類の収穫を大方終えた畑の後始末をしていた。喜一郎は祭が始まってからというもの、屋敷に戻るわけにもゆかず、佐吉の家に寝泊まりし、すっかり実の弟のように馴染んでしまっている。二人の話し声に、しゃがんだまま落穂を拾っていた親父が固まった膝を伸ばして立ち上がった。
「はははっ、喜一郎におねだりされるとなぁ、佐吉よぉ。俺も二晩寝不足が続くとしんどいなァ。また日が暮れる前に薪を用意しに行かなくちゃならねぇし。落穂を雀にくれてやるのは勿体無いが…ちょっとだけなら昼寝しても構わないか?まぁ、その分もうちょっと頑張ってくれよ。」
佐吉と喜一郎は威勢よく返事を返して作業に戻る。
ガサガサ…ガサガサ…と散らかった葉だの茎の切れ端を一所に纏めるを装って、喜一郎が佐吉に近寄ってきた。
「なぁ、佐吉兄ぃ…なんか…なんかさぁ…普通だな。」
「普通?」
「普段の年と変わらねぇ…だろ?…なのによぉ…なのに…」
「……。」
佐吉は返す言葉が思い浮かばない。喜一郎の言わんとしていることは理解できる。自分たちが例年と変わらない収穫作業に勤しんでいるこの時に、世界の一部が大きく変わってしまったとでも言いたいのだろう。
何にも知らない村人が夜祭に加わり踊っている間にこの村は豊かになった。所謂、日照り。官吏から見放され、何の便宜も図られないという状態から脱し、今年の米の収穫分からある程度は村に隠しておくことが出来る様になったのだ。
その恩恵の源を村の男達は知っている。そして感謝もしているだろう。しかし、それは決して表へと出る事は無い。ある日突然米の粥が食べられるようになったことを、まるでお伽話のように観世音菩薩様が貧しい村に恩恵をもたらしてくれたとしか子供たちに説明出来ないのだ。
「親父様、俺はこの夜祭が終わってもまだ二、三日は屋敷には帰る事が出来ないんだ…えっと、出来ないと思うんだ…何故かって言うと…まぁ…何て言うか…」
喜一郎は言葉を濁した。その言葉の先は分かっているので敢えて聞く必要も無い。親父はくしゃっと顔を中心に寄せる様に笑って見せた。そのぎゅっと閉じた瞼の下には、仄暗い囲炉裏の残り火に映し出された鈴虫の可憐な微笑みがある。みんな、分かっているのだ。分かっていて敢えて言葉にしない。佐吉が背中をポンと叩く。さぁ、少し休もう。そしてまた、何も無かったように夜祭に興じるのだ。
撓わに実った柿の木の下、三人は好き勝手な方を向いて寝転んだ。感情を読まれたくない者と、だらしなくなるであろう寝顔を見られたくない者とが居合わせている。
高く澄み渡る青空の下、風がそよぎ来る方向に目を遣れば、屋敷の裏手の杉林まではすぐそばに見える。この畦道を辿って行けば会いたいと願うあの子に会えるはずなのだ。それなのに今は遠く遠く遥かに遠く、思いの丈すら届きはしない。
このままほんの少し眠ったら、頭上に見えるまだ熟さない柿の実が夕焼け色に染まるまでがむしゃらに働こう。佐吉は二人に背を向けて瞼を閉じた。
もう、これが夜祭最後の晩。
感情を殺して篠笛を吹き続けろ。何も考える必要など無い。ただ、燃える火を見詰めて音を繰り出せば良い。楽し気に踊り、疲れるまで手足を動かし続ける女たちの影絵が、舞い上がる火の粉を呑み込んでゆく。そして段々と辺りは暗さを増して、燃え盛る火が全て消えれば夜祭りも終わる。
そう、終わるのだ。
ーーーーーー
第二章 終了
お付き合いいただき、誠にありがとうございました。
第二章も25話で終わらせるつもりでしたが全然収まらず、うっかりしてたら1回のヒートに30話も使っていました。
着地点はまだまだ遠く、佐吉さんと鈴虫さんが幸せになる迄にはたっぷり困難が用意されております。
ストックが無い状態で連載しているので遅刻気味ですが、あまり遅い時間に更新しないように頑張ります。
こんな調子でオメガあるある全開で次回より第三章に入ります。
どうぞよろしくお願いいたします。m(_ _)m
まるで今朝までの濃厚な交わりの痕跡を掃き清めて行くように、小さな塵を巻き上げては開かれた堂の扉の隙間から外へと消えて行った。
鈴虫の額を冷やす布を何度か取り換えて、嘉平は床板にゴロリと体を投げ出した。まだ油断は出来ないが張詰めた心を少しばかり緩めて眠りに就きたいものだ。ぼんやりと見上げた天井に格子窓から差し込んだ光が帯を成す。一眠りしたら、ここはお妙に任せて上ノ村へと薬を取りに行かねばならない。佐吉か喜一郎が居てくれたのならば、上ノ村への遣いを頼めただろうにとも思ったが、二人もまた夜祭を主宰するという役目を負っているのだ。やはり自分が行かねばならない。今のうちに昼夜の逆転を修正しなければ後々祟るだろう。
瞼を閉じる前に隣に横たわる鈴虫の顔をもう一度見たい。ふとそんな気がして顔を横に向けると、罅割れた唇を薄く開いて熱のこもった息を吐いている。安心できる状態では無い事は分かってはいるが、規則正しく呼吸しているというだけで少し胸を撫で下ろした。
「この子を守ったのは観世音菩薩様なのか、それとも…佐吉なんだろうか…なぁ、鈴虫よ…お前の熱が引いたら、必ず佐吉に会わせてあげるから…」
鈴虫が遠くへ行かないように小さな約束を口にして、日が高く昇る頃まで休もうと嘉平は瞼を閉じた。
空の高いところを風が吹いているのだろうか。堂の扉の隙間から覗く水色の空に白い雲の筋が棚引いている。
佐吉と鈴虫が出会った頃は青々としていた稲田も、今は黄金色に染まった。日を追うごとに秋は深まり、収穫に向けて屋敷の塀の外では人々が忙しく働いている。堂を囲むたった一本の縄の結界の内と外とでは全く違う時間が流れているようであった。
「佐吉兄ぃ!…ううん…眠ぃ…なぁ、なぁ、ちょっとだけ昼寝しようぜっ!」
「ん…確かに疲れたなぁ…あんまり寝てねぇもんなぁ…やっぱりよぉ、この忙しい時期に夜祭ってのは無理があるよなぁ?しかも三日も…俺はずっと笛を吹きっぱなし。何度同じ節回しを吹いたかわからねぇよ。終いには頭が痛くなってくるんだよなぁ。」
「だろ?だろ?みんな、よく飽きもせずに踊ってられるよなぁ?俺も太鼓の撥で変な所に肉刺が出来そうだし、拍子が耳について寝付けなくなるんだよな。親父様もさぁ、ちょこっと昼寝しようやぁ。」
佐吉とその親父と喜一郎は、眠たい目をしばしばとさせながら雑穀類の収穫を大方終えた畑の後始末をしていた。喜一郎は祭が始まってからというもの、屋敷に戻るわけにもゆかず、佐吉の家に寝泊まりし、すっかり実の弟のように馴染んでしまっている。二人の話し声に、しゃがんだまま落穂を拾っていた親父が固まった膝を伸ばして立ち上がった。
「はははっ、喜一郎におねだりされるとなぁ、佐吉よぉ。俺も二晩寝不足が続くとしんどいなァ。また日が暮れる前に薪を用意しに行かなくちゃならねぇし。落穂を雀にくれてやるのは勿体無いが…ちょっとだけなら昼寝しても構わないか?まぁ、その分もうちょっと頑張ってくれよ。」
佐吉と喜一郎は威勢よく返事を返して作業に戻る。
ガサガサ…ガサガサ…と散らかった葉だの茎の切れ端を一所に纏めるを装って、喜一郎が佐吉に近寄ってきた。
「なぁ、佐吉兄ぃ…なんか…なんかさぁ…普通だな。」
「普通?」
「普段の年と変わらねぇ…だろ?…なのによぉ…なのに…」
「……。」
佐吉は返す言葉が思い浮かばない。喜一郎の言わんとしていることは理解できる。自分たちが例年と変わらない収穫作業に勤しんでいるこの時に、世界の一部が大きく変わってしまったとでも言いたいのだろう。
何にも知らない村人が夜祭に加わり踊っている間にこの村は豊かになった。所謂、日照り。官吏から見放され、何の便宜も図られないという状態から脱し、今年の米の収穫分からある程度は村に隠しておくことが出来る様になったのだ。
その恩恵の源を村の男達は知っている。そして感謝もしているだろう。しかし、それは決して表へと出る事は無い。ある日突然米の粥が食べられるようになったことを、まるでお伽話のように観世音菩薩様が貧しい村に恩恵をもたらしてくれたとしか子供たちに説明出来ないのだ。
「親父様、俺はこの夜祭が終わってもまだ二、三日は屋敷には帰る事が出来ないんだ…えっと、出来ないと思うんだ…何故かって言うと…まぁ…何て言うか…」
喜一郎は言葉を濁した。その言葉の先は分かっているので敢えて聞く必要も無い。親父はくしゃっと顔を中心に寄せる様に笑って見せた。そのぎゅっと閉じた瞼の下には、仄暗い囲炉裏の残り火に映し出された鈴虫の可憐な微笑みがある。みんな、分かっているのだ。分かっていて敢えて言葉にしない。佐吉が背中をポンと叩く。さぁ、少し休もう。そしてまた、何も無かったように夜祭に興じるのだ。
撓わに実った柿の木の下、三人は好き勝手な方を向いて寝転んだ。感情を読まれたくない者と、だらしなくなるであろう寝顔を見られたくない者とが居合わせている。
高く澄み渡る青空の下、風がそよぎ来る方向に目を遣れば、屋敷の裏手の杉林まではすぐそばに見える。この畦道を辿って行けば会いたいと願うあの子に会えるはずなのだ。それなのに今は遠く遠く遥かに遠く、思いの丈すら届きはしない。
このままほんの少し眠ったら、頭上に見えるまだ熟さない柿の実が夕焼け色に染まるまでがむしゃらに働こう。佐吉は二人に背を向けて瞼を閉じた。
もう、これが夜祭最後の晩。
感情を殺して篠笛を吹き続けろ。何も考える必要など無い。ただ、燃える火を見詰めて音を繰り出せば良い。楽し気に踊り、疲れるまで手足を動かし続ける女たちの影絵が、舞い上がる火の粉を呑み込んでゆく。そして段々と辺りは暗さを増して、燃え盛る火が全て消えれば夜祭りも終わる。
そう、終わるのだ。
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第二章 終了
お付き合いいただき、誠にありがとうございました。
第二章も25話で終わらせるつもりでしたが全然収まらず、うっかりしてたら1回のヒートに30話も使っていました。
着地点はまだまだ遠く、佐吉さんと鈴虫さんが幸せになる迄にはたっぷり困難が用意されております。
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どうぞよろしくお願いいたします。m(_ _)m
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