お伽話 

六笠 嵩也

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第二章

2-31

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東の空が白む頃、最後の一人が事を終えた。

格子の間から薄い光が差し込むのを待っていたかのように、堂の鍵が冷たい金属音とともに外される。堂の扉が開くと、夜明けの澄んだ空気が静かに床を這いながら広がって来た。思わず気怠く佇んでいた男達の背筋も伸びる。この男達に供された南海補堕洛浄土の狂宴はこれを以てお開きとなったのだ。
お妙は男達を堂の外まで送り出して外で待つ嘉平に引き渡した。これでようやく今日の自分の役目は終わりだ。

あと、一日…

疲れ切った眼差しで、動かなくなった鈴虫を見下ろす。眠ってしまう前に何か食べさせなくてはいけないだろう。庭で嘉平と話をしている若者達が帰った後に、もうひと頑張りして厨に立つとするか。そんなことをぼんやりと考えながら行燈の火を消して回る。お妙もこの役目に肉体的な限界を感じていた。鈴虫とは離れた壁に凭れ、そのままずるずるっと崩れる様に座り込むと、壁板越しに庭で話す嘉平の声が耳に届いた。

「皆様方におかれましては、誠に目出度いことで御座います。この辺りの村々はいにしえより他に漏らさぬ秘密を共有することで結束を固めてまいりました。今後、何か困難にぶつかった時は、ここで顔を合わせた誼という事で力を合わせる誓いを立てていただきたい。よろしいですね。決して近隣の村を裏切らずに和を以て接するのですぞ。」

嘉平は屋敷の門の前で集った若者一人一人に縁起物の下帯を手渡して祝いの言葉を述べた。
庭に出揃った若者は皆、寝不足気味な顔をしてはいた。しかし、ある種の晴れやかさを湛えた表情をしている。相手が何者であれ、大人として一歩を踏み出したという自信の表れなのだろうか。そう考えると祝辞を述べる嘉平にも多少なりの達成感が湧いてくる。そう、これで良かったんだ…これで。

「ちょっと待ってよ、嘉平殿!現身様の体が大変な事になっているの。まだあと一日って言ってたけど、絶対に無理だから明日の事は断って下され!」

恙無く事を終わらせようとしていた嘉平の後から風野の怒声が響いた。その足元ではお妙が止めに入ろうとして縋りついている。

「風野様、何を仰いますか。そんなこと出来る筈も御座いません。」

「ダメ!嘉平殿、現身様に触れてみられよ。こんなに体が熱を持っているのに?もう目を開く力も残っておりませんぞ!それに、こちらに来て見て!肩の噛み傷の辺りに血が滲んできております。思ったよりも傷が深いのかも知れませんよ。」

嘉平はとりあえず男達を外で待たせて急いで堂の中に入った。堂の中は多少は換気されたとは言えかなりの悪臭が立ち込めている。鈴虫が放つ芳香など何処にも感じられやしない。嘉平は死んだように横たわる鈴虫の額に手を添えるとその体温に驚いた。今までも高熱を出すのは鈴虫の体質としてよくあることではあった。だがしかし、今回は今までで一、二を争う程に状態が悪い。是非とも村の威信にかけて決行したいところではあるのだが、せっかく育て上げた現身をたったの一度で失ってしまう事になりかねない危うさだ。
嘉平は大きく溜息を吐いて立ち上がると、自分の額をグッと掌で押さえて考え込みながら鈴虫に背を向けた。今回は現身が傷つけられるという事故が起こってしまったのだから仕方がない。頭巾の客人はいずれも村人よりも身分の高い者。誰も表立って難癖付けられようもない。そう、悪いのは噛んだ男という事にすれば角がたたないだろう。嘉平は堂の階段を下りながら注目を集める様に大声を張り上げた。

「申し訳ない!誠に申し訳ないのだが、明日の方々はご遠慮いただきたい。現身様の噛み傷の具合が思った以上に悪いのだ。誠に申し訳ないが、そのように各村長様へお伝え願いたい!あっ、上ノ村からお越しの方は…あぁ、ちょっと待って下され。」

あの二十歳超えの口淫を所望した男が振り返った。

「済まんがのぉ、村長殿に解熱と傷の薬湯を分けて欲しいとお伝え願えませんかのぉ…」

「はい、嘉平様、おやすい御用です。解熱と傷の薬湯…ですね?膏薬もですかねぇ?よく分かりませんが伝えておきます。…で、お届けは?」

「あぁ、儂が受け取りに参ります。出来れは急ぎ用立てて貰いたいのでそれだけは確実にお願いしたい。」

「承知いたしました。そのように伝えます。この度は大変お世話になりました。では、お暇いたします。」

やけに澄み渡る秋晴れの空の下を若者たちが和気藹々と帰ってゆく。
夜の営みを曲がりなりにも体験し、無垢な体に別れを告げたと言うのに、こう見るとあの口虐を尽くした青年も皆、秋風のように清々しいから不思議なものである。
その中には意気投合したのか、今夜の鎮守の杜の夜祭に再会しようと申し合わせている者達もいる。人に告げる事の無い後ろめたい秘め事の共有は、村々の強固な横の繋がりを作るための役には立ったようだ。
各々何度も振り帰りながら手を振って、河の上流と下流と二手に分かれて帰ってゆく。客人は全て近隣の村の大切な若い働き手である。無事に村まで帰すまでが村長の責任なのだ。若者たちが粟粒のようになって消えて行くまで、嘉平もまた手を振って門の前で見送った。

「鈴虫よ…よくやった。十分だ…もう、十分だよ…」

いつまでも手を振って見送る嘉平の顔を窺い見る者は今はいない。とうに消えた若者たちの姿に替わって、真っ赤に潤んだ目が見詰める道の先には桃の枝を携えた幼い日の鈴虫が笑っている。その可憐な花の付いた枝を奪い取って粉々にした対価は、あの若者たちの笑顔と村々の安泰なのか。誰にも計り知れない心の深淵で、嘉平は得るものと失うものとの狭間を苦悶しながら行き来していた。

「湯を…沸かしてやろうね、鈴虫よ…あぁ…佐吉に会わせるまえに…綺麗にしてやらなくては…」

ふらり…ふらり…と、厨に向かう。熾火おきびに柴をくべているとやつれたお妙が顔を出した。この年老いた母も相当な負担が掛ったに違いない。いつ倒れてもし不思議ではない程に疲弊しているようだ。

「母様、ここは儂がやっておきますんでお休みください。」

「…そうね。鈴虫のことは風野様が看ていてくれるというから私は少し眠らせてもらおうかしら…もうあの子、ほとんど何の香りもしなくなってしまったわ。本当だったらあと二、三日は甘く香ってくれるのにね…まるで抜け殻のようなのよ。」

「母様…そんなに暗いお顔をしないでください。さぁ、さぁ、奥で休まれよ。」

「そうね、おねがいしますよ…」

背中を丸めた老婆が屋敷の奥へと去ってゆく。その背中を追うべき者は、とうの昔に自ら命を絶った。そして一縷の望みであった喜一郎の許嫁も破談を言い渡し、どうなる事か全くわからない。負うには重き重圧が、か細い老婆の背にも圧し掛かっているのだ。
沸々と鍋の中で湯が沸き立ち始めた。食べ物が先か、それとも傷の手当てに使うのが先か…
そんなことも思いつかない程に嘉平には不安が重圧になっていた。

「…どうしてくれようか。」

ポツリと呟く嘉平の不安に、光を差すような言葉は降っては来なかった。


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