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私の主演舞台、愛したはずの幼馴染の脚本で地獄に変わった~凡人だと見下していた彼が、全てを奪っていく~
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私の隣には、いつも蒼井陽彩(あおいひいろ)がいた。
物心ついた頃から、彼は私の「特別」だった。ただし、それは恋愛的な意味合いとは少し違う。彼は、私という太陽を輝かせるために存在する、月のような存在。私の光を受けて、静かにそこにいてくれる、当たり前の存在だった。
陽彩は、いつも優しかった。私が何を言っても「詩織の言う通りだよ」と微笑み、私が何をしても「詩織なら大丈夫」と信じてくれた。彼のその無条件の肯定は、私の自尊心を満たすのに十分すぎるほど心地よかった。
高校二年生の冬、私が彼に告白したのは、そんな「当たり前」を永遠に繋ぎとめておきたかったからだ。私の隣にいるのが、他の誰かであることなんて想像もできなかった。陽彩は泣きそうな顔で喜んで、私の手を取ってくれた。その時、私はこの関係が永遠に続くと信じて疑わなかった。
大学に入り、私は幼い頃からの夢だった女優への道を歩み始めた。演劇サークルに入り、煌びやかな世界の入り口に立った私。一方で、陽彩は文学部に入り、相変わらず地味な服を着て、静かに本を読んだり、パソコンに向かって何かを書きつけたりしていた。
「小説を書くのが趣味なんだ」
そう言って見せてくれた彼の文章は、正直、退屈だった。小難しくて、暗くて、華がない。彼自身をそのまま映したような、冴えない文章。私は適当に褒めながらも、内心では「こんなことしてないで、もっとマシなバイトでもすればいいのに」と思っていた。
私の夢には、お金がかかる。演技レッスン、衣装、美容、交際費。陽彩は、自分の生活を切り詰めてまで、私に援助してくれた。
「これで美味しいものでも食べて、レッスン頑張って」
そう言って、くしゃくしゃの封筒を渡してくる彼に、私は最高の笑顔で「ありがとう」と告げる。その瞬間、申し訳なさよりも、「愛されている私」を実感する優越感のほうが勝っていた。彼の献身は、私が輝くための当然の対価。だって、私は将来、大女優になるのだから。彼も、私の成功を望んでいるはずだ。そう、自分に言い聞かせていた。
そんな日常に、亀裂を入れたのは橘玲司(たちばなれいじ)さんだった。
サークルの代表で、裕福で、自信に満ち溢れていて、何より野心家だった。彼の周りにはいつも人が集まり、彼はその中心で王様のように振る舞っていた。陽彩にはない、圧倒的な「特別感」。私は、その強烈な光に引き寄せられた。
「詩織の才能は、こんなところで燻っているべきじゃない。俺が、お前をトップにしてやる」
玲司さんは、私の耳元でそう囁いた。彼の言葉は、陽彩の優しいだけの肯定とは違う、私の野心を直接的に刺激する甘い毒だった。彼と一緒にいれば、私はもっと輝ける。もっと上のステージに行ける。そう確信した。
陽彩を裏切っている罪悪感が、なかったわけじゃない。でも、玲司さんとの刺激的な逢瀬を重ねるうち、その罪悪感はどんどん麻痺していった。
陽彩から振り込まれたお金で、玲司さんにプレゼントを買った。彼に相応しい女でいるために、新しい服やコスメを買った。
「陽彩のお金で……」という小さな棘が胸に刺さるたび、私は言い訳を考えた。
『これは未来への投資。私が大女優になれば、陽彩に何倍にもして返せる』
『陽彩は優しいから、きっと許してくれる』
『そもそも、こんな凡庸な彼に、私の才能を支える以外の価値なんてないじゃない』
いつしか、私は陽彩を完全に見下していた。私の優しさに甘えて、搾取することしか能のない、退屈な男。彼と会う時間は、私にとって義務と憐憫の時間に変わっていった。
あの日、サークルの部室で玲司さんに抱きついていた時、私の心にあったのは、未来への期待と、陽彩へのわずかな罪悪感だけだった。
「陽彩には悪いけど、やっぱり玲司さんみたいな人とじゃないと、私、輝けないんだよね」
本心だった。陽彩の優しさだけでは、もう足りなかった。私は、私をさらに高みへと引き上げてくれる、強い光を求めていた。
玲司さんの腕の中で、私は自分が特別な存在になったような、万能感に包まれていた。まさかその時、ドアの向こうで、私の「凡人な彼氏」が全ての音を消して立ち尽くしていたなんて、知る由もなかった。
転機は、突然訪れた。
『虚飾のガランドウ』と名付けられた、匿名の脚本。
それを初めて読んだ時の衝撃は、今でも忘れられない。まるで、私のために書かれたかのような物語。愛に飢え、承認を求め、男を利用して破滅していくヒロイン。その脆さと強かさ、悲劇的な美しさに、私は完全に心を奪われた。
「この役は、私にしかできない」
運命を感じた。玲司さんもこの脚本を絶賛し、私はサークル内で誰もが羨む主役の座を手に入れた。周囲の嫉妬と羨望が、最高のスパイスだった。私は、物語のヒロインと自分を重ね合わせ、稽古に没頭した。スポットライトを浴びる快感は、陽彩への罪悪感を完全に消し去ってくれた。
異変に気づいたのは、公演の一ヶ月ほど前だった。
脚本家の "Kairos" と名乗る人物から、修正稿が送られてきたのだ。そこに書き加えられていた台詞は、私の心の奥底に隠したはずの罪を、的確に抉り出すものばかりだった。
『彼が汗水流して稼いだお金だってわかってる。でも、本当に私を輝かせてくれるのは、あなただけなの。だから、あの子には少しだけ我慢してもらうの。可哀想だけど』
その台詞を口にするたび、陽彩の顔がちらついて、喉がカラカラに乾いた。私が部室で口にした言葉と、驚くほど似ていたからだ。
偶然? いいや、偶然のはずがない。
玲司さんも、追加された台詞に顔を青くしていた。彼の過去の盗作疑惑を仄めかすような、悪意に満ちた独白。
「この "Kairos" って奴、一体何者なんだ……」
玲司さんは苛立ち、私を疑うようになった。私も、彼の知らない過去を知り、不信感を募らせた。稽古場の空気は最悪だった。お互いを疑い、罵り合う日々。
でも、私たちは止まれなかった。公演中止なんて、私たちのプライドが許さない。 "Kairos" という得体の知れない存在への恐怖と、それでもこの完璧な脚本を演じきりたいという欲望が、私たちを舞台へと縛り付けていた。
そして、公演当日。
満員の客席を前に、私は舞台の中央に立っていた。恐怖と興奮で、全身が震えていた。
幕が上がる。スポットライトの熱が、私の肌を焼く。
もう、どうにでもなれ。私は、私という存在の全てを賭けて、このヒロインを演じきってやると決めた。
自分の罪を告白する台詞も、破滅へ向かう絶望も、全てが現実とリンクして、凄まじいリアリティを生んだ。観客が息を飲むのがわかる。私は、確かにこの瞬間、誰よりも輝いていた。
舞台は、大成功に終わった。
カーテンコール。鳴りやまない拍手と喝采。私は、疲労困憊の体で、恍惚としていた。この苦しみは、この栄光のための試練だったのだ。そう、思い込もうとした。
その時だった。
世界が、暗転した。
スクリーンに映し出されたのは、『虚飾のガランドウ ~真実の物語~』という、悪夢のタイトル。
玲司さんの盗作の証拠。他の女との、生々しいやり取り。
そして――私が、陽彩から振り込まれたお金で、玲司さんと遊び歩いていた、数々の写真。銀行の取引明細。
「最低!」「裏切り者!」
観客の喝采は、一瞬にして罵声と嘲笑に変わった。
頭が真っ白になる。耳鳴りがする。隣で立ち尽くす玲司さんの顔も、もう見えなかった。
そして、スクリーンに、決定的な一枚が映し出された。
授賞式で、トロフィーを持って穏やかに微笑む、陽彩の姿。
私の知らない、自信に満ちた、誇らしげな顔。
『脚本 "Kairos" こと 蒼井陽彩 / 第XX回 文芸新人大賞 受賞』
その文字を読んだ瞬間、雷に打たれたように、全身の血が凍りついた。
Kairos。カイロス。
あの冴えない小説を書いていた彼が? 私のために、ただ尽くすだけの退屈な彼が? 私を地獄に突き落としたこの脚本を、全て仕組んだ張本人?
「あ……ああ……あああああああああああああっ!」
意味をなさない絶叫が、私の口から迸った。
全て、繋がってしまった。
楽屋の冷たい椅子に座り、私は抜け殻になっていた。
そこに、静かな足音が近づいてくる。顔を上げると、陽彩が立っていた。舞台の上から見た、あの穏やかな、しかし全てを見透かすような表情で。
「ひ……いろ……?」
私は、最後の望みを賭けて、彼に這い寄った。スカートの裾を掴み、みっともなく泣きじゃくった。
「ごめんなさい! 陽彩! 私が全部間違ってた! だから、お願い、もう一度……!」
彼が昔のように「詩織なら大丈夫だよ」と、微笑んでくれるかもしれない。そう、心のどこかで期待していた。
だが、彼から返ってきたのは、慈悲など一欠片もない、絶対零度の視線だった。
「詩織。君が主役の舞台は、もう終わったんだよ」
聞いたことのない、冷たくて硬質な声。
彼は、私が今まで一度も見たことのない、怜悧な笑みを浮かべていた。それは、全てを支配し、全てを嘲笑う、創造主の笑みだった。
「君はもう、僕の物語の登場人物じゃない。さよなら、僕の書いた最悪のヒロイン」
その言葉は、死刑宣告だった。
彼は、私の手を無造作に振り払い、背を向けた。その背中は、もう私の知っている陽彩のものではなかった。私の知らない、遠い、大きな存在だった。
「いや……! 待って! 陽彩……!」
私の絶叫は、空っぽの楽屋に虚しく響くだけだった。
私は、その場に崩れ落ちたまま、動けなかった。
虚飾のガランドウ。
見栄と嘘で塗り固められた、中身が空っぽの女。
それは、私が演じたヒロインの名前であり、今、この瞬間の、私の名前だった。
私が手に入れたかった輝きは、全て彼の手のひらの上で踊らされただけの幻。そして私は、その幻に目が眩み、唯一、私を本当に愛してくれていた光を、自らの手で永遠に失ったのだ。
後悔するには、あまりにも、もう遅すぎた。
物心ついた頃から、彼は私の「特別」だった。ただし、それは恋愛的な意味合いとは少し違う。彼は、私という太陽を輝かせるために存在する、月のような存在。私の光を受けて、静かにそこにいてくれる、当たり前の存在だった。
陽彩は、いつも優しかった。私が何を言っても「詩織の言う通りだよ」と微笑み、私が何をしても「詩織なら大丈夫」と信じてくれた。彼のその無条件の肯定は、私の自尊心を満たすのに十分すぎるほど心地よかった。
高校二年生の冬、私が彼に告白したのは、そんな「当たり前」を永遠に繋ぎとめておきたかったからだ。私の隣にいるのが、他の誰かであることなんて想像もできなかった。陽彩は泣きそうな顔で喜んで、私の手を取ってくれた。その時、私はこの関係が永遠に続くと信じて疑わなかった。
大学に入り、私は幼い頃からの夢だった女優への道を歩み始めた。演劇サークルに入り、煌びやかな世界の入り口に立った私。一方で、陽彩は文学部に入り、相変わらず地味な服を着て、静かに本を読んだり、パソコンに向かって何かを書きつけたりしていた。
「小説を書くのが趣味なんだ」
そう言って見せてくれた彼の文章は、正直、退屈だった。小難しくて、暗くて、華がない。彼自身をそのまま映したような、冴えない文章。私は適当に褒めながらも、内心では「こんなことしてないで、もっとマシなバイトでもすればいいのに」と思っていた。
私の夢には、お金がかかる。演技レッスン、衣装、美容、交際費。陽彩は、自分の生活を切り詰めてまで、私に援助してくれた。
「これで美味しいものでも食べて、レッスン頑張って」
そう言って、くしゃくしゃの封筒を渡してくる彼に、私は最高の笑顔で「ありがとう」と告げる。その瞬間、申し訳なさよりも、「愛されている私」を実感する優越感のほうが勝っていた。彼の献身は、私が輝くための当然の対価。だって、私は将来、大女優になるのだから。彼も、私の成功を望んでいるはずだ。そう、自分に言い聞かせていた。
そんな日常に、亀裂を入れたのは橘玲司(たちばなれいじ)さんだった。
サークルの代表で、裕福で、自信に満ち溢れていて、何より野心家だった。彼の周りにはいつも人が集まり、彼はその中心で王様のように振る舞っていた。陽彩にはない、圧倒的な「特別感」。私は、その強烈な光に引き寄せられた。
「詩織の才能は、こんなところで燻っているべきじゃない。俺が、お前をトップにしてやる」
玲司さんは、私の耳元でそう囁いた。彼の言葉は、陽彩の優しいだけの肯定とは違う、私の野心を直接的に刺激する甘い毒だった。彼と一緒にいれば、私はもっと輝ける。もっと上のステージに行ける。そう確信した。
陽彩を裏切っている罪悪感が、なかったわけじゃない。でも、玲司さんとの刺激的な逢瀬を重ねるうち、その罪悪感はどんどん麻痺していった。
陽彩から振り込まれたお金で、玲司さんにプレゼントを買った。彼に相応しい女でいるために、新しい服やコスメを買った。
「陽彩のお金で……」という小さな棘が胸に刺さるたび、私は言い訳を考えた。
『これは未来への投資。私が大女優になれば、陽彩に何倍にもして返せる』
『陽彩は優しいから、きっと許してくれる』
『そもそも、こんな凡庸な彼に、私の才能を支える以外の価値なんてないじゃない』
いつしか、私は陽彩を完全に見下していた。私の優しさに甘えて、搾取することしか能のない、退屈な男。彼と会う時間は、私にとって義務と憐憫の時間に変わっていった。
あの日、サークルの部室で玲司さんに抱きついていた時、私の心にあったのは、未来への期待と、陽彩へのわずかな罪悪感だけだった。
「陽彩には悪いけど、やっぱり玲司さんみたいな人とじゃないと、私、輝けないんだよね」
本心だった。陽彩の優しさだけでは、もう足りなかった。私は、私をさらに高みへと引き上げてくれる、強い光を求めていた。
玲司さんの腕の中で、私は自分が特別な存在になったような、万能感に包まれていた。まさかその時、ドアの向こうで、私の「凡人な彼氏」が全ての音を消して立ち尽くしていたなんて、知る由もなかった。
転機は、突然訪れた。
『虚飾のガランドウ』と名付けられた、匿名の脚本。
それを初めて読んだ時の衝撃は、今でも忘れられない。まるで、私のために書かれたかのような物語。愛に飢え、承認を求め、男を利用して破滅していくヒロイン。その脆さと強かさ、悲劇的な美しさに、私は完全に心を奪われた。
「この役は、私にしかできない」
運命を感じた。玲司さんもこの脚本を絶賛し、私はサークル内で誰もが羨む主役の座を手に入れた。周囲の嫉妬と羨望が、最高のスパイスだった。私は、物語のヒロインと自分を重ね合わせ、稽古に没頭した。スポットライトを浴びる快感は、陽彩への罪悪感を完全に消し去ってくれた。
異変に気づいたのは、公演の一ヶ月ほど前だった。
脚本家の "Kairos" と名乗る人物から、修正稿が送られてきたのだ。そこに書き加えられていた台詞は、私の心の奥底に隠したはずの罪を、的確に抉り出すものばかりだった。
『彼が汗水流して稼いだお金だってわかってる。でも、本当に私を輝かせてくれるのは、あなただけなの。だから、あの子には少しだけ我慢してもらうの。可哀想だけど』
その台詞を口にするたび、陽彩の顔がちらついて、喉がカラカラに乾いた。私が部室で口にした言葉と、驚くほど似ていたからだ。
偶然? いいや、偶然のはずがない。
玲司さんも、追加された台詞に顔を青くしていた。彼の過去の盗作疑惑を仄めかすような、悪意に満ちた独白。
「この "Kairos" って奴、一体何者なんだ……」
玲司さんは苛立ち、私を疑うようになった。私も、彼の知らない過去を知り、不信感を募らせた。稽古場の空気は最悪だった。お互いを疑い、罵り合う日々。
でも、私たちは止まれなかった。公演中止なんて、私たちのプライドが許さない。 "Kairos" という得体の知れない存在への恐怖と、それでもこの完璧な脚本を演じきりたいという欲望が、私たちを舞台へと縛り付けていた。
そして、公演当日。
満員の客席を前に、私は舞台の中央に立っていた。恐怖と興奮で、全身が震えていた。
幕が上がる。スポットライトの熱が、私の肌を焼く。
もう、どうにでもなれ。私は、私という存在の全てを賭けて、このヒロインを演じきってやると決めた。
自分の罪を告白する台詞も、破滅へ向かう絶望も、全てが現実とリンクして、凄まじいリアリティを生んだ。観客が息を飲むのがわかる。私は、確かにこの瞬間、誰よりも輝いていた。
舞台は、大成功に終わった。
カーテンコール。鳴りやまない拍手と喝采。私は、疲労困憊の体で、恍惚としていた。この苦しみは、この栄光のための試練だったのだ。そう、思い込もうとした。
その時だった。
世界が、暗転した。
スクリーンに映し出されたのは、『虚飾のガランドウ ~真実の物語~』という、悪夢のタイトル。
玲司さんの盗作の証拠。他の女との、生々しいやり取り。
そして――私が、陽彩から振り込まれたお金で、玲司さんと遊び歩いていた、数々の写真。銀行の取引明細。
「最低!」「裏切り者!」
観客の喝采は、一瞬にして罵声と嘲笑に変わった。
頭が真っ白になる。耳鳴りがする。隣で立ち尽くす玲司さんの顔も、もう見えなかった。
そして、スクリーンに、決定的な一枚が映し出された。
授賞式で、トロフィーを持って穏やかに微笑む、陽彩の姿。
私の知らない、自信に満ちた、誇らしげな顔。
『脚本 "Kairos" こと 蒼井陽彩 / 第XX回 文芸新人大賞 受賞』
その文字を読んだ瞬間、雷に打たれたように、全身の血が凍りついた。
Kairos。カイロス。
あの冴えない小説を書いていた彼が? 私のために、ただ尽くすだけの退屈な彼が? 私を地獄に突き落としたこの脚本を、全て仕組んだ張本人?
「あ……ああ……あああああああああああああっ!」
意味をなさない絶叫が、私の口から迸った。
全て、繋がってしまった。
楽屋の冷たい椅子に座り、私は抜け殻になっていた。
そこに、静かな足音が近づいてくる。顔を上げると、陽彩が立っていた。舞台の上から見た、あの穏やかな、しかし全てを見透かすような表情で。
「ひ……いろ……?」
私は、最後の望みを賭けて、彼に這い寄った。スカートの裾を掴み、みっともなく泣きじゃくった。
「ごめんなさい! 陽彩! 私が全部間違ってた! だから、お願い、もう一度……!」
彼が昔のように「詩織なら大丈夫だよ」と、微笑んでくれるかもしれない。そう、心のどこかで期待していた。
だが、彼から返ってきたのは、慈悲など一欠片もない、絶対零度の視線だった。
「詩織。君が主役の舞台は、もう終わったんだよ」
聞いたことのない、冷たくて硬質な声。
彼は、私が今まで一度も見たことのない、怜悧な笑みを浮かべていた。それは、全てを支配し、全てを嘲笑う、創造主の笑みだった。
「君はもう、僕の物語の登場人物じゃない。さよなら、僕の書いた最悪のヒロイン」
その言葉は、死刑宣告だった。
彼は、私の手を無造作に振り払い、背を向けた。その背中は、もう私の知っている陽彩のものではなかった。私の知らない、遠い、大きな存在だった。
「いや……! 待って! 陽彩……!」
私の絶叫は、空っぽの楽屋に虚しく響くだけだった。
私は、その場に崩れ落ちたまま、動けなかった。
虚飾のガランドウ。
見栄と嘘で塗り固められた、中身が空っぽの女。
それは、私が演じたヒロインの名前であり、今、この瞬間の、私の名前だった。
私が手に入れたかった輝きは、全て彼の手のひらの上で踊らされただけの幻。そして私は、その幻に目が眩み、唯一、私を本当に愛してくれていた光を、自らの手で永遠に失ったのだ。
後悔するには、あまりにも、もう遅すぎた。
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