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第一話 崩落する日常と拒絶の視線
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都内を走る地下鉄の振動が、疲れ切った体に心地よく響く。吊革に掴まりながら、俺、杉浦健一は窓ガラスに映る自分の中年太りし始めた腹を少しだけへこませ、それから口元を緩めた。右手に提げた小さな紙袋の重みが、一週間の労働の疲れを癒やしてくれる気がしたからだ。
「パパ、今週もお疲れ様」
そう言って出迎えてくれる妻、玲子の笑顔が脳裏に浮かぶ。
「お父さん、またスイーツ買ってきたの? 太るよー」
なんて憎まれ口を叩きながらも、目を輝かせてフォークを用意する高校生の娘、美緒の姿も。
俺は四十二歳の中堅商社マンだ。派手な出世コースからは外れているが、真面目にコツコツと働き、都内に念願のマイホームを手に入れた。ローンはまだ三十年近く残っているが、愛する家族と過ごすあの家こそが、俺の城であり、守るべき世界の全てだった。
今日は金曜日。プロジェクトの一区切りがついた記念に、駅ナカの行列ができる店で、家族分のプレミアムプリンを買ったのだ。一個八百円もする代物だ。玲子は濃厚なカスタードが好きだし、美緒は最近流行りのとろけるタイプに目がない。
(早く帰って、二人を驚かせないとな)
そんな平和な思考が、俺の人生最後の「幸福な時間」だったと気づくのは、ほんの数分後のことだ。
電車が主要駅に近づき、車内はさらに混雑を極めていた。身動きが取れないほどの寿司詰め状態。背中や肩に他人の体温が押し付けられる不快感に耐えながら、俺は紙袋が潰れないように胸の前で抱え込んでいた。
その時だった。
「……やだ、ちょっと」
すぐ近くで、押し殺したような女性の声がした。俺の左手の甲に、何かが触れたような感触があった。誰かの鞄か、コートの裾だろう。そう思った瞬間、空気が凍りついた。
「この人、痴漢です!!」
耳をつんざくような悲鳴が、車内の喧騒を切り裂いた。
俺は自分の耳を疑った。周囲の視線が一斉に俺に突き刺さる。目の前には、二十代前半とおぼしき小柄な女性が、涙目で俺を睨みつけていた。彼女の手が、俺の左手首を掴んでいる。
「え……? いや、違います、俺はただ……」
「逃げるなよ!」
弁明しようとした俺の言葉を遮るように、野太い怒声が響いた。
次の瞬間、強烈な力が俺の右肩を掴み、そのまま床へとねじ伏せられた。プリンの入った紙袋が潰れる音が、スローモーションのように聞こえた。
「痛っ! な、何を!」
「現行犯だぞ! 往生際が悪いんだよ、この変態野郎が!」
俺を取り押さえたのは、身長百八十センチはあろうかというガタイの良い男だった。短髪に、いかにも実直そうな顔立ち。仕立ての良いスーツを着たその男は、正義感に燃える英雄のような形相で俺を見下ろしている。
「大丈夫ですか、お嬢さん。もう安心ですよ」
「はい……ありがとうございます……怖かった……」
被害者を名乗る女が、男の背後に隠れて泣き崩れる。周囲の乗客たちからは「最低だな」「いい年して」「警察だ、早く通報しろ」という罵声が浴びせられた。
「違う! 俺は何もしていない! 鞄を持っていただけだ!」
床に這いつくばりながら叫ぶが、誰も聞く耳を持たない。男の腕力は凄まじく、俺は身動き一つ取れなかった。駅員が駆けつけ、警察官が到着するまでの間、俺は数百の軽蔑の視線に晒され続けた。地獄だった。だが、この時の俺はまだ、どこかで楽観視していたのだ。
自分はやっていない。防犯カメラもあるはずだ。何より、妻と娘は俺を信じてくれるはずだと。
***
警察署での取り調べは、精神を削り取る拷問のような時間だった。
「素直に認めたらどうだ? 被害者の下着に君の繊維が付着していたら言い逃れできないぞ」
「やってないものはやってないんです!」
「目撃者もいるんだ。あの場で取り押さえてくれた男性だよ。彼が君の手が動くのをはっきりと見たと証言している」
刑事の言葉に、俺は血の気が引いた。あの男、俺を取り押さえた「正義の味方」が、見たと言うのか? ありもしない事実を?
「嘘だ……そんなはずはない……」
「奥さんと娘さんがいるんだろう? 家族のためにも、早く楽になった方がいいんじゃないか?」
家族。その言葉が出た瞬間、俺の目から涙が溢れた。
玲子。美緒。ごめん、怖い思いをさせて。でも、パパは絶対にやってない。信じてくれ。今すぐ家に帰って、抱きしめたい。
弁護士を呼ぶ金などなく、当番弁護士が来るのを待つしかなかった。勾留が決まり、留置場へ入れられる。冷たい床と、薄汚れた毛布。俺は一睡もできず、ただひたすらに家族のことを考えていた。
玲子なら、「主人がそんなことするはずありません」と毅然と言ってくれるはずだ。美緒だって、「お父さんはキモいけど犯罪者じゃないよ」と笑い飛ばしてくれるはずだ。
その信頼だけが、俺の心を繋ぎ止める唯一の命綱だった。
しかし、俺が留置場で震えていたその頃、署の面会室では、俺の命綱を断ち切る残酷な儀式が行われていたことを、俺は知る由もなかった。
***
警察署の無機質な長椅子に座り、杉浦玲子は震える手でハンカチを握りしめていた。隣に座る娘の美緒も、青ざめた顔で俯いている。
「ご主人、なかなか容疑を認めないようでして……」
申し訳なさそうにそう言ったのは、電車内で夫を取り押さえてくれたという男性、権田猛(ごんだ たけし)だった。彼は被害者の女性のケアをした後、わざわざ「ご家族が心配だろうから」と、この場に残ってくれていたのだ。
「そんな……あの人が痴漢なんて……間違いですよね? 夫は真面目だけが取り柄の人なんです」
玲子はすがるような思いで権田を見上げた。しかし、権田の隣に座る、彼が紹介してくれたという「性犯罪問題に詳しい」弁護士の男が、重苦しい表情で首を横に振った。
「奥様、お嬢様。信じたくないお気持ちは痛いほど分かります。ですが……我々が独自に入手した、ご主人のスマートフォンの解析データを見ていただけますか」
弁護士がタブレット端末を差し出す。そこには、目を覆いたくなるような画像が並んでいた。
駅の階段で撮られたと思われる盗撮写真。満員電車で女性に密着している動画。そして、裏アカウントと思われるSNSでの、「今日の獲物は女子高生」「バレなきゃ天国」といった卑猥な書き込みの数々。
「いや……! 何これ……お父さんなの……?」
美緒が悲鳴を上げて口元を押さえる。玲子の頭の中が真っ白になった。
「これは……本当に夫のものなんですか?」
「残念ながら。ご主人は表向きは真面目な会社員を演じていましたが、裏では常習的にこうした行為を繰り返していたようです。警察もこのデータをおそらく把握するでしょう」
権田が、優しく、しかし力強く言葉を継いだ。
「奥さん、これは病気なんです。性依存症というやつです。彼を庇うことは、彼のためになりません。それに、このままでは被害者の方から多額の慰謝料を請求され、家も財産も全て失うことになります」
「家が……なくなる……?」
玲子は呆然と呟いた。やっと手に入れたマイホーム。美緒の進学費用。老後の資金。夫の愚行によって、それが全て消えてしまう?
「僕の知恵を使えば、離婚と財産分与を迅速に行うことで、奥さんとお嬢さんの生活と資産だけは守れるかもしれません。……ご主人は罪を償う必要がありますが、あなたたちまで地獄を見る必要はない」
権田の低い声は、混乱の極みにあった玲子にとって、慈悲深い救済の響きを持っていた。彼は被害者の女性を助けた正義の人だ。その彼が、こうして親身になってくれている。嘘をつくはずがない。
「お母さん……私、無理。あんな写真撮ってる人と一緒に住めない。同じ洗濯機とか絶対嫌だ」
美緒が涙目で訴える。その瞳には、父親への軽蔑と生理的な嫌悪感が宿っていた。
玲子の中で、夫への二十年の信頼が音を立てて崩れ落ちた。愛していた夫は虚像だったのだ。裏ではこんな汚らわしいことをして、私たちを騙していたのだ。
悲しみは、やがてどす黒い怒りへと変わっていった。
「……権田さん。お願いします。私たちを、守ってください」
「任せてください。僕が必ず、お二人を幸せな未来へ導きますよ」
権田は誠実そうな笑みを浮かべ、玲子の震える手をそっと包み込んだ。その温もりに、玲子は安堵の涙を流した。彼女は気づいていなかった。その手が、夫を陥れ、自分たちを地獄へ引きずり込む悪魔の手であることに。
***
四十八時間後、俺は釈放された。
証拠不十分、というわけではない。俺が否認し続けたため、在宅捜査に切り替わっただけだ。会社には警察から連絡がいっているはずだ。どうなっているか想像するだけで胃が痛くなる。
だが、今は家族だ。玲子と美緒に会って、ちゃんと説明しなくては。
ボロボロのスーツ、伸び放題の髭、脂ぎった髪。酷い姿だったが、俺はタクシーを飛ばして自宅へと向かった。
夕闇に沈む我が家。リビングの明かりがついているのを見て、俺は安堵のため息をついた。
玄関の前に立ち、震える手で鍵穴に鍵を差し込む。カチャリ、と音がしてドアが開いた。
「ただいま……玲子、美緒」
玄関に入ると、廊下の向こうから二人が出てきた。
俺は駆け寄ろうとした。抱きしめて、「怖かった」と言いたかった。
「来るな!」
鋭い声が、俺の足を止めた。
声の主は美緒だった。いつも俺に甘えていた娘が、ゴキブリでも見るような目つきで俺を睨んでいる。
「美緒……? どうしたんだ、父さんだよ」
「近づかないで! 汚い! 性犯罪者が私の名前を呼ばないで!」
「え……?」
思考が停止した。性犯罪者? なぜ娘がそんなことを言う?
俺は助けを求めるように妻を見た。
「玲子……信じてくれるよな? 俺はやってない。冤罪なんだ」
しかし、玲子の視線は美緒以上に冷徹だった。そこには、かつて俺に向けられていた愛情の欠片もなかった。あるのは、氷のような軽蔑と、燃えるような憎悪だけ。
「冤罪? よくそんな嘘がつけるわね。証拠は全部見せてもらったわ」
「証拠? 何のことだ? 警察は何も……」
「とぼけないで! スマホの中にあった盗撮画像、裏アカの書き込み! 全部見たのよ! あなたが裏でそんなことをしていたなんて……私、あなたと結婚していたことが恥ずかしいわ!」
玲子が足元に置いてあった大きなゴミ袋を蹴り飛ばした。中から俺の服や下着がこぼれ落ちる。
「え、ちょっと待ってくれ。スマホの画像? 裏アカ? 何を言ってるんだ、俺はそんなもの……」
「言い訳は聞きたくない! もう弁護士には相談してあるの。離婚届は郵送するから、判を押して送り返して。慰謝料と財産分与で、この家は私たちがもらうわ。あなたは出て行って」
「玲子、おかしいよ! 誰に何を吹き込まれたんだ!?」
俺が一歩踏み出すと、美緒が悲鳴を上げて後ずさった。
「キャーッ! 触らないで! 痴漢!」
その言葉が、俺の心臓を抉った。
最愛の娘に、痴漢呼ばわりされた。
何もしていないのに。ただ、家族のために必死で働いて、プリンを買って帰ろうとしただけなのに。
「……出て行ってと言ってるでしょ!」
玲子が俺の胸を突き飛ばした。数日の勾留で体力を奪われていた俺は、無様に尻餅をついた。
玄関のタタキに転がった俺を見下ろしながら、玲子は冷酷に告げた。
「二度と私たちの前に顔を見せないで。……生理的に無理なのよ、あなた」
バタン! と激しい音を立てて、目の前でドアが閉ざされた。
内側からチェーンロックがかかる音が、死刑宣告のように響いた。
「玲子! 美緒! 開けてくれ! 俺の話を聞いてくれ!」
ドアを叩き、叫んだ。近所の目など気にならなかった。
だが、扉は二度と開かなかった。
家の中から、美緒の泣き声と、玲子が誰かと電話で話す声が微かに聞こえた。
「はい……権田さん……ええ、追い出しました……ありがとうございます、あなただけが頼りです……」
権田?
誰だそれは。
俺の知らない男の名前を、妻が縋るように呼んでいる。
夜風が吹き抜け、汗ばんだシャツを冷やしていく。
俺は閉ざされた玄関の前で、膝を抱えて動けなかった。
潰れたプリンの甘ったるい匂いが、スーツのポケットから漂ってくる。それは、腐臭のように俺の鼻をつき、吐き気を催させた。
俺の城は奪われた。
俺の愛した家族は、俺を汚物として捨てた。
まだ、何も終わっていない。いや、地獄はここから始まるのだと、本能が警鐘を鳴らしていた。
俺の視界が涙で歪む中、スマホが震えた。
画面には、親友である高島の名前が表示されていた。
「……助けてくれ、高島」
掠れた声でそう呟くのが精一杯だった。
俺の人生は、何者かの悪意によって、粉々に砕け散ってしまったのだ。
「パパ、今週もお疲れ様」
そう言って出迎えてくれる妻、玲子の笑顔が脳裏に浮かぶ。
「お父さん、またスイーツ買ってきたの? 太るよー」
なんて憎まれ口を叩きながらも、目を輝かせてフォークを用意する高校生の娘、美緒の姿も。
俺は四十二歳の中堅商社マンだ。派手な出世コースからは外れているが、真面目にコツコツと働き、都内に念願のマイホームを手に入れた。ローンはまだ三十年近く残っているが、愛する家族と過ごすあの家こそが、俺の城であり、守るべき世界の全てだった。
今日は金曜日。プロジェクトの一区切りがついた記念に、駅ナカの行列ができる店で、家族分のプレミアムプリンを買ったのだ。一個八百円もする代物だ。玲子は濃厚なカスタードが好きだし、美緒は最近流行りのとろけるタイプに目がない。
(早く帰って、二人を驚かせないとな)
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その時だった。
「……やだ、ちょっと」
すぐ近くで、押し殺したような女性の声がした。俺の左手の甲に、何かが触れたような感触があった。誰かの鞄か、コートの裾だろう。そう思った瞬間、空気が凍りついた。
「この人、痴漢です!!」
耳をつんざくような悲鳴が、車内の喧騒を切り裂いた。
俺は自分の耳を疑った。周囲の視線が一斉に俺に突き刺さる。目の前には、二十代前半とおぼしき小柄な女性が、涙目で俺を睨みつけていた。彼女の手が、俺の左手首を掴んでいる。
「え……? いや、違います、俺はただ……」
「逃げるなよ!」
弁明しようとした俺の言葉を遮るように、野太い怒声が響いた。
次の瞬間、強烈な力が俺の右肩を掴み、そのまま床へとねじ伏せられた。プリンの入った紙袋が潰れる音が、スローモーションのように聞こえた。
「痛っ! な、何を!」
「現行犯だぞ! 往生際が悪いんだよ、この変態野郎が!」
俺を取り押さえたのは、身長百八十センチはあろうかというガタイの良い男だった。短髪に、いかにも実直そうな顔立ち。仕立ての良いスーツを着たその男は、正義感に燃える英雄のような形相で俺を見下ろしている。
「大丈夫ですか、お嬢さん。もう安心ですよ」
「はい……ありがとうございます……怖かった……」
被害者を名乗る女が、男の背後に隠れて泣き崩れる。周囲の乗客たちからは「最低だな」「いい年して」「警察だ、早く通報しろ」という罵声が浴びせられた。
「違う! 俺は何もしていない! 鞄を持っていただけだ!」
床に這いつくばりながら叫ぶが、誰も聞く耳を持たない。男の腕力は凄まじく、俺は身動き一つ取れなかった。駅員が駆けつけ、警察官が到着するまでの間、俺は数百の軽蔑の視線に晒され続けた。地獄だった。だが、この時の俺はまだ、どこかで楽観視していたのだ。
自分はやっていない。防犯カメラもあるはずだ。何より、妻と娘は俺を信じてくれるはずだと。
***
警察署での取り調べは、精神を削り取る拷問のような時間だった。
「素直に認めたらどうだ? 被害者の下着に君の繊維が付着していたら言い逃れできないぞ」
「やってないものはやってないんです!」
「目撃者もいるんだ。あの場で取り押さえてくれた男性だよ。彼が君の手が動くのをはっきりと見たと証言している」
刑事の言葉に、俺は血の気が引いた。あの男、俺を取り押さえた「正義の味方」が、見たと言うのか? ありもしない事実を?
「嘘だ……そんなはずはない……」
「奥さんと娘さんがいるんだろう? 家族のためにも、早く楽になった方がいいんじゃないか?」
家族。その言葉が出た瞬間、俺の目から涙が溢れた。
玲子。美緒。ごめん、怖い思いをさせて。でも、パパは絶対にやってない。信じてくれ。今すぐ家に帰って、抱きしめたい。
弁護士を呼ぶ金などなく、当番弁護士が来るのを待つしかなかった。勾留が決まり、留置場へ入れられる。冷たい床と、薄汚れた毛布。俺は一睡もできず、ただひたすらに家族のことを考えていた。
玲子なら、「主人がそんなことするはずありません」と毅然と言ってくれるはずだ。美緒だって、「お父さんはキモいけど犯罪者じゃないよ」と笑い飛ばしてくれるはずだ。
その信頼だけが、俺の心を繋ぎ止める唯一の命綱だった。
しかし、俺が留置場で震えていたその頃、署の面会室では、俺の命綱を断ち切る残酷な儀式が行われていたことを、俺は知る由もなかった。
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「ご主人、なかなか容疑を認めないようでして……」
申し訳なさそうにそう言ったのは、電車内で夫を取り押さえてくれたという男性、権田猛(ごんだ たけし)だった。彼は被害者の女性のケアをした後、わざわざ「ご家族が心配だろうから」と、この場に残ってくれていたのだ。
「そんな……あの人が痴漢なんて……間違いですよね? 夫は真面目だけが取り柄の人なんです」
玲子はすがるような思いで権田を見上げた。しかし、権田の隣に座る、彼が紹介してくれたという「性犯罪問題に詳しい」弁護士の男が、重苦しい表情で首を横に振った。
「奥様、お嬢様。信じたくないお気持ちは痛いほど分かります。ですが……我々が独自に入手した、ご主人のスマートフォンの解析データを見ていただけますか」
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美緒が悲鳴を上げて口元を押さえる。玲子の頭の中が真っ白になった。
「これは……本当に夫のものなんですか?」
「残念ながら。ご主人は表向きは真面目な会社員を演じていましたが、裏では常習的にこうした行為を繰り返していたようです。警察もこのデータをおそらく把握するでしょう」
権田が、優しく、しかし力強く言葉を継いだ。
「奥さん、これは病気なんです。性依存症というやつです。彼を庇うことは、彼のためになりません。それに、このままでは被害者の方から多額の慰謝料を請求され、家も財産も全て失うことになります」
「家が……なくなる……?」
玲子は呆然と呟いた。やっと手に入れたマイホーム。美緒の進学費用。老後の資金。夫の愚行によって、それが全て消えてしまう?
「僕の知恵を使えば、離婚と財産分与を迅速に行うことで、奥さんとお嬢さんの生活と資産だけは守れるかもしれません。……ご主人は罪を償う必要がありますが、あなたたちまで地獄を見る必要はない」
権田の低い声は、混乱の極みにあった玲子にとって、慈悲深い救済の響きを持っていた。彼は被害者の女性を助けた正義の人だ。その彼が、こうして親身になってくれている。嘘をつくはずがない。
「お母さん……私、無理。あんな写真撮ってる人と一緒に住めない。同じ洗濯機とか絶対嫌だ」
美緒が涙目で訴える。その瞳には、父親への軽蔑と生理的な嫌悪感が宿っていた。
玲子の中で、夫への二十年の信頼が音を立てて崩れ落ちた。愛していた夫は虚像だったのだ。裏ではこんな汚らわしいことをして、私たちを騙していたのだ。
悲しみは、やがてどす黒い怒りへと変わっていった。
「……権田さん。お願いします。私たちを、守ってください」
「任せてください。僕が必ず、お二人を幸せな未来へ導きますよ」
権田は誠実そうな笑みを浮かべ、玲子の震える手をそっと包み込んだ。その温もりに、玲子は安堵の涙を流した。彼女は気づいていなかった。その手が、夫を陥れ、自分たちを地獄へ引きずり込む悪魔の手であることに。
***
四十八時間後、俺は釈放された。
証拠不十分、というわけではない。俺が否認し続けたため、在宅捜査に切り替わっただけだ。会社には警察から連絡がいっているはずだ。どうなっているか想像するだけで胃が痛くなる。
だが、今は家族だ。玲子と美緒に会って、ちゃんと説明しなくては。
ボロボロのスーツ、伸び放題の髭、脂ぎった髪。酷い姿だったが、俺はタクシーを飛ばして自宅へと向かった。
夕闇に沈む我が家。リビングの明かりがついているのを見て、俺は安堵のため息をついた。
玄関の前に立ち、震える手で鍵穴に鍵を差し込む。カチャリ、と音がしてドアが開いた。
「ただいま……玲子、美緒」
玄関に入ると、廊下の向こうから二人が出てきた。
俺は駆け寄ろうとした。抱きしめて、「怖かった」と言いたかった。
「来るな!」
鋭い声が、俺の足を止めた。
声の主は美緒だった。いつも俺に甘えていた娘が、ゴキブリでも見るような目つきで俺を睨んでいる。
「美緒……? どうしたんだ、父さんだよ」
「近づかないで! 汚い! 性犯罪者が私の名前を呼ばないで!」
「え……?」
思考が停止した。性犯罪者? なぜ娘がそんなことを言う?
俺は助けを求めるように妻を見た。
「玲子……信じてくれるよな? 俺はやってない。冤罪なんだ」
しかし、玲子の視線は美緒以上に冷徹だった。そこには、かつて俺に向けられていた愛情の欠片もなかった。あるのは、氷のような軽蔑と、燃えるような憎悪だけ。
「冤罪? よくそんな嘘がつけるわね。証拠は全部見せてもらったわ」
「証拠? 何のことだ? 警察は何も……」
「とぼけないで! スマホの中にあった盗撮画像、裏アカの書き込み! 全部見たのよ! あなたが裏でそんなことをしていたなんて……私、あなたと結婚していたことが恥ずかしいわ!」
玲子が足元に置いてあった大きなゴミ袋を蹴り飛ばした。中から俺の服や下着がこぼれ落ちる。
「え、ちょっと待ってくれ。スマホの画像? 裏アカ? 何を言ってるんだ、俺はそんなもの……」
「言い訳は聞きたくない! もう弁護士には相談してあるの。離婚届は郵送するから、判を押して送り返して。慰謝料と財産分与で、この家は私たちがもらうわ。あなたは出て行って」
「玲子、おかしいよ! 誰に何を吹き込まれたんだ!?」
俺が一歩踏み出すと、美緒が悲鳴を上げて後ずさった。
「キャーッ! 触らないで! 痴漢!」
その言葉が、俺の心臓を抉った。
最愛の娘に、痴漢呼ばわりされた。
何もしていないのに。ただ、家族のために必死で働いて、プリンを買って帰ろうとしただけなのに。
「……出て行ってと言ってるでしょ!」
玲子が俺の胸を突き飛ばした。数日の勾留で体力を奪われていた俺は、無様に尻餅をついた。
玄関のタタキに転がった俺を見下ろしながら、玲子は冷酷に告げた。
「二度と私たちの前に顔を見せないで。……生理的に無理なのよ、あなた」
バタン! と激しい音を立てて、目の前でドアが閉ざされた。
内側からチェーンロックがかかる音が、死刑宣告のように響いた。
「玲子! 美緒! 開けてくれ! 俺の話を聞いてくれ!」
ドアを叩き、叫んだ。近所の目など気にならなかった。
だが、扉は二度と開かなかった。
家の中から、美緒の泣き声と、玲子が誰かと電話で話す声が微かに聞こえた。
「はい……権田さん……ええ、追い出しました……ありがとうございます、あなただけが頼りです……」
権田?
誰だそれは。
俺の知らない男の名前を、妻が縋るように呼んでいる。
夜風が吹き抜け、汗ばんだシャツを冷やしていく。
俺は閉ざされた玄関の前で、膝を抱えて動けなかった。
潰れたプリンの甘ったるい匂いが、スーツのポケットから漂ってくる。それは、腐臭のように俺の鼻をつき、吐き気を催させた。
俺の城は奪われた。
俺の愛した家族は、俺を汚物として捨てた。
まだ、何も終わっていない。いや、地獄はここから始まるのだと、本能が警鐘を鳴らしていた。
俺の視界が涙で歪む中、スマホが震えた。
画面には、親友である高島の名前が表示されていた。
「……助けてくれ、高島」
掠れた声でそう呟くのが精一杯だった。
俺の人生は、何者かの悪意によって、粉々に砕け散ってしまったのだ。
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