2 / 2
第二話 偽りの救世主と冷めゆく心
しおりを挟む
都心を見下ろすタワーマンションの二十五階。窓の外には、煌びやかな東京の夜景が広がっている。だが、俺、杉浦健一の目には、その輝きは嘲笑のようにしか映らなかった。
「……飲めよ。少しは落ち着くぞ」
差し出されたマグカップから、淹れたてのコーヒーの香りが立ち上る。俺はのろのろと顔を上げ、ソファの向かいに座る男を見た。
大学時代からの親友、高島聡だ。セキュリティ会社を経営し、独自の探偵業も営む彼は、鋭い眼光とは裏腹に、今は心配そうな表情で俺を見つめている。
「すまない、高島。こんな所に転がり込んで」
「気にするな。ビジネスホテル暮らしじゃ金も持たんだろ。それに、今の精神状態のお前を一人にしておくわけにはいかない」
俺は高島の言葉に甘え、彼の客間に居候させてもらっていた。
家を追い出されてから一週間。会社からは「事実関係がはっきりするまで自宅待機」を命じられ、事実上の停職状態にある。同僚たちの冷ややかな視線と、上司の迷惑そうな顔が忘れられない。
「……なぁ、高島。俺は本当に何もしてないんだ。信じてくれ」
何度目か分からない言葉を口にする。高島は深く頷き、力強く答えた。
「分かってる。お前がそんなことをする人間じゃないのは、俺が一番よく知ってる。だからこうして匿ってるんだ」
「ありがとう……」
高島の信頼だけが、今の俺を繋ぎ止める唯一の鎖だった。だが、同時に胸の奥が張り裂けそうになる。二十年来の親友が信じてくれているのに、なぜ、人生を共にしてきた妻と娘は俺を信じなかったのか。
「玲子と美緒……どうしてるかな。俺がいなくて困ってないか。家のローンや光熱費の引き落とし口座、変えておかないと……」
未練がましく呟く俺に、高島は少し言いづらそうに視線を逸らした。
「健一。お前は優しすぎる。あいつらは、お前を犯罪者扱いして追い出したんだぞ。心配する必要なんてない」
「でも、騙されてるだけなんだ。あの権田って男と、インチキ弁護士に。誤解が解ければ、きっと……」
俺はまだ、縋っていた。家族の絆という幻想に。
あの日の冷たい拒絶は、ショック状態だったからに違いない。冷静になれば、パパがいない寂しさを感じてくれているはずだ。
そう信じ込むことでしか、己の崩壊を防げなかったのだ。
だが、現実は俺の希望よりも遥かに残酷で、グロテスクだった。
***
杉浦家のリビングには、以前とは違う、甘ったるく歪な空気が充満していた。
ダイニングテーブルの上には、デパ地下で買ってきた色とりどりの惣菜と、高級なワインが並んでいる。かつて健一が座っていた「お父さんの席」には今、権田猛がふんぞり返るように座っていた。
「うん、このローストビーフ、うまいね。玲子さんの選び方はセンスがいい」
「やだ、権田さんったら。私が作ったわけじゃないのに」
玲子は頬を染め、少女のように恥じらっている。彼女は新しいワンピースを着て、念入りに化粧をしていた。夫がいた頃は、家ではジャージ姿で髪を振り乱していたのが嘘のようだ。
「でも、これを選んだのは玲子さんの愛だからね。……本当に、どうしてこんないい奥さんを、あの男は大事にしなかったのかな」
「もう、その話はしないでください。思い出すだけで吐き気がしますから」
玲子はワイングラスを傾け、眉をひそめた。
健一の不在を嘆くどころか、彼女は「厄介払いできた解放感」に浸っていた。権田が見せてくれた(捏造された)証拠データの衝撃は、彼女の中から夫への愛情を根こそぎ奪い去り、代わりに自分を被害者だと信じ込ませるのに十分だったのだ。
そこへ、玄関のドアが開く音がした。
「ただいまー」
明るい声と共にリビングに入ってきたのは、娘の美緒だ。学校の制服姿だが、その手には真新しいブランドのショップバッグが握られている。
「おかえり、美緒ちゃん。お、買ってきたね」
「うん! 権田さん、ありがとう! ずっと欲しかったんだ、このバッグ!」
美緒は満面の笑みで権田に駆け寄ると、躊躇いなくその肩に抱きついた。
父親である健一には「洗濯物を分けたがった」潔癖な彼女が、出会って間もない男に触れることを何とも思っていない。それは権田が「若くて、金を持っていて、理解のある頼れる大人」として巧みに振る舞っていたからだ。
「似合うよ、美緒ちゃん。君みたいに可愛い子には、それくらい良いものを持ってもらわないとね。……父親が犯罪者だからって、君まで惨めな思いをする必要はないんだ」
「……うん。ホント、パパ……ううん、あの人のせいで学校でもヒソヒソ言われて最悪だったけど、権田さんがいてくれてよかった」
美緒は権田の隣に座り、彼が切り分けたローストビーフを口に運んでもらう。
その光景は、一見すると仲睦まじい家族のようだった。だが、その中心にいるのは、家族を陥れた詐欺師だ。
「そういえば玲子さん。例の件、どうなりました?」
権田がワインを回しながら、何気ない調子で切り出した。
「例の件?」
「家の権利書と、ご主人の実印です。離婚調停を有利に進めるためにも、こちらで管理しておいた方がいいと言いましたよね? あの男が逆上して、勝手に家を売ろうとするかもしれませんから」
もっともらしい嘘だった。だが、不安に付け込まれている玲子には、それが慈悲深い提案に聞こえる。
「あ、はい。探しておきました。金庫の中に……」
「そうですか。後で確認させてください。僕が責任を持って守りますから」
権田の目が、獲物を前にした獣のように一瞬だけ鋭く光ったが、玲子も美緒もそれに気づかない。
食事が終わり、美緒が「部屋で宿題してくる」と二階へ上がると、リビングには大人二人だけの時間が訪れる。
「……玲子さん」
権田が低い声で囁き、テーブル越しに玲子の手を握る。
「不安でしょう? でも、もう大丈夫だ。僕がついている」
「権田さん……」
玲子は潤んだ瞳で権田を見つめ返す。夫への失望と将来への不安で空いた心の穴を、この男が埋めてくれると錯覚していた。
権田は立ち上がり、玲子の肩を抱いてソファへと誘う。
「今日は泊まっていいですよね? 悪い虫がつかないように、番犬になりますよ」
「……番犬だなんてもったいないわ。……新しい主(あるじ)様、かしら」
玲子は自分から権田の胸に身を寄せた。
その夜、主寝室からは、かつて健一と玲子が愛を育んだベッドが軋む音が、微かに漏れ出ていた。
壁に掛けられた家族写真の中の健一だけが、その裏切りを静かに見つめていた。
***
数日後。高島が経営するオフィスの個室で、俺は一枚のモニターを見つめていた。
「……覚悟して見てくれ、健一」
高島がキーボードを叩くと、動画が再生された。
それは、駅構内の防犯カメラの映像だ。一般には公開されない類のものだが、高島のコネと技術で入手したらしい。
画面には、ラッシュアワー前の駅のホームの端、死角になる柱の陰が映っている。
そこに、二人の男女がいた。
一人は、俺を取り押さえた男、権田猛。
もう一人は、俺を痴漢だと訴えた被害者の女だ。
二人は親しげに話し込んでいる。音声はないが、その表情は明るい。女がスマホの画面を見せ、権田が何やら指示を出しているように見える。そして、二人はハイタッチを交わし、笑い合った。
その後、二人は時間をずらして電車に乗り込んでいった。俺が乗ったのと同じ車両に。
「これは……!」
「ああ。間違いなくグルだ。偶然居合わせたわけじゃない。最初からターゲットを物色して、役割分担を決めていたんだ」
高島が冷ややかな声で解説する。
「お前は狙われたんだよ、健一。……そして、こっちも見てくれ」
高島が次に差し出したのは、探偵からの調査報告書だった。
そこには、権田の素性が記されていた。自称投資家だが実態はなく、過去に何度か金銭トラブルの噂があるが、警察沙汰にはなっていないプロの詐欺師。ターゲットの家庭に入り込み、信頼を得て資産を搾取する「背乗り(はいのり)」に近い手口を使う危険人物。
そして、報告書の最後には、数枚の写真が添付されていた。
俺の手が震えた。
一枚目は、我が家のゴミ捨て場の写真だ。
半透明のゴミ袋の中に、俺が長年かけて集めてきたアナログレコードのコレクションが無造作に詰め込まれている。割れたジャケット、折れ曲がった盤面。
俺の宝物が、ゴミとして捨てられていた。
二枚目は、週末のショッピングモールの駐車場で撮られたものだ。
権田が運転席に乗り込み、助手席には玲子が、後部座席には美緒が乗っている。
俺の愛車だ。俺が家族のためにローンを組んで買ったミニバンだ。
玲子は助手席で楽しそうに笑い、権田の腕に手を添えている。美緒も後部座席から身を乗り出し、権田に何か話しかけている。
その笑顔。
俺が逮捕され、必死に無実を訴えていた時には一度も見せてくれなかった、屈託のない笑顔。
「……なんだ、これは」
口から乾いた音が漏れた。
「今の杉浦家の様子だ。近所の聞き込みによると、権田はほぼ毎日入り浸っている。奥さんとも、まあ……そういう関係にあると見て間違いないだろう」
高島が苦々しげに言う。
俺の中で、何かがプツリと切れる音がした。
悲しみではない。絶望でもない。
もっと冷たく、重く、鋭利な何かが、心臓の奥底から湧き上がってくるのを感じた。
レコードを捨てられたことへの怒りか? 車を乗っ取られたことへの憤りか?
いや、違う。
俺が地獄の底で、彼女たちを心配し、信じてもらえないことに苦しんでいたその時、彼女たちは俺を排除した世界で、詐欺師と共に「幸せな家族ごっこ」を演じていたのだ。
俺の苦しみなど、彼女たちにとっては「生理的に無理な過去」でしかなかったのだ。
騙されている?
ああ、そうかもしれない。権田はプロだ。玲子や美緒を騙すなんて赤子の手をひねるようなものだろう。
だが、騙されたからといって、俺への裏切りが正当化されるわけではない。
彼女たちは、俺の言葉よりも、他人の男の甘い言葉を選んだ。俺との二十年よりも、偽造されたデータを信じた。そして今、俺の痕跡を消し去り、別の男に媚びを売って笑っている。
「……高島」
俺の声は、自分でも驚くほど低く、冷え切っていた。
「ああ」
「俺は、あいつらを心配していた。バカだったよ。……あいつらは、被害者なんかじゃない。俺を殺した共犯者だ」
指に嵌めていた結婚指輪を引き抜く。薬指には、白く跡が残っていたが、今の俺にはそれが呪いの痕にしか見えなかった。
俺は指輪をテーブルの上に、カツンと音を立てて置いた。
「徹底的にやってくれ。情けは無用だ。……俺の全てを奪おうとした代償を、骨の髄まで払わせてやる」
俺の目から涙は消えていた。代わりに宿っていたのは、どす黒い復讐の炎だ。
高島はニヤリと不敵に笑い、俺の肩を強く叩いた。
「待っていたぞ、その言葉を。……さあ、反撃の時間だ」
モニターに映る権田の笑顔と、それに寄り添う妻と娘の笑顔。
その幸せそうな表情が、恐怖と絶望に歪む瞬間を想像し、俺は拳を固く握りしめた。
もう、あの家に戻りたいとは思わない。あそこはもう俺の家ではない。
魔女と悪魔が住む巣窟だ。ならば、焼き払うしかない。
俺たちは、次回の離婚調停の期日に向けて、静かに、しかし確実に牙を研ぎ始めた。
裁判所という公開処刑の場で、彼女たちに「真実」という名の劇薬を飲ませるために。
窓の外では、雷鳴が轟き始めていた。激しい雨が、街の汚れを洗い流そうとしているかのように、降り注ごうとしていた。
「……飲めよ。少しは落ち着くぞ」
差し出されたマグカップから、淹れたてのコーヒーの香りが立ち上る。俺はのろのろと顔を上げ、ソファの向かいに座る男を見た。
大学時代からの親友、高島聡だ。セキュリティ会社を経営し、独自の探偵業も営む彼は、鋭い眼光とは裏腹に、今は心配そうな表情で俺を見つめている。
「すまない、高島。こんな所に転がり込んで」
「気にするな。ビジネスホテル暮らしじゃ金も持たんだろ。それに、今の精神状態のお前を一人にしておくわけにはいかない」
俺は高島の言葉に甘え、彼の客間に居候させてもらっていた。
家を追い出されてから一週間。会社からは「事実関係がはっきりするまで自宅待機」を命じられ、事実上の停職状態にある。同僚たちの冷ややかな視線と、上司の迷惑そうな顔が忘れられない。
「……なぁ、高島。俺は本当に何もしてないんだ。信じてくれ」
何度目か分からない言葉を口にする。高島は深く頷き、力強く答えた。
「分かってる。お前がそんなことをする人間じゃないのは、俺が一番よく知ってる。だからこうして匿ってるんだ」
「ありがとう……」
高島の信頼だけが、今の俺を繋ぎ止める唯一の鎖だった。だが、同時に胸の奥が張り裂けそうになる。二十年来の親友が信じてくれているのに、なぜ、人生を共にしてきた妻と娘は俺を信じなかったのか。
「玲子と美緒……どうしてるかな。俺がいなくて困ってないか。家のローンや光熱費の引き落とし口座、変えておかないと……」
未練がましく呟く俺に、高島は少し言いづらそうに視線を逸らした。
「健一。お前は優しすぎる。あいつらは、お前を犯罪者扱いして追い出したんだぞ。心配する必要なんてない」
「でも、騙されてるだけなんだ。あの権田って男と、インチキ弁護士に。誤解が解ければ、きっと……」
俺はまだ、縋っていた。家族の絆という幻想に。
あの日の冷たい拒絶は、ショック状態だったからに違いない。冷静になれば、パパがいない寂しさを感じてくれているはずだ。
そう信じ込むことでしか、己の崩壊を防げなかったのだ。
だが、現実は俺の希望よりも遥かに残酷で、グロテスクだった。
***
杉浦家のリビングには、以前とは違う、甘ったるく歪な空気が充満していた。
ダイニングテーブルの上には、デパ地下で買ってきた色とりどりの惣菜と、高級なワインが並んでいる。かつて健一が座っていた「お父さんの席」には今、権田猛がふんぞり返るように座っていた。
「うん、このローストビーフ、うまいね。玲子さんの選び方はセンスがいい」
「やだ、権田さんったら。私が作ったわけじゃないのに」
玲子は頬を染め、少女のように恥じらっている。彼女は新しいワンピースを着て、念入りに化粧をしていた。夫がいた頃は、家ではジャージ姿で髪を振り乱していたのが嘘のようだ。
「でも、これを選んだのは玲子さんの愛だからね。……本当に、どうしてこんないい奥さんを、あの男は大事にしなかったのかな」
「もう、その話はしないでください。思い出すだけで吐き気がしますから」
玲子はワイングラスを傾け、眉をひそめた。
健一の不在を嘆くどころか、彼女は「厄介払いできた解放感」に浸っていた。権田が見せてくれた(捏造された)証拠データの衝撃は、彼女の中から夫への愛情を根こそぎ奪い去り、代わりに自分を被害者だと信じ込ませるのに十分だったのだ。
そこへ、玄関のドアが開く音がした。
「ただいまー」
明るい声と共にリビングに入ってきたのは、娘の美緒だ。学校の制服姿だが、その手には真新しいブランドのショップバッグが握られている。
「おかえり、美緒ちゃん。お、買ってきたね」
「うん! 権田さん、ありがとう! ずっと欲しかったんだ、このバッグ!」
美緒は満面の笑みで権田に駆け寄ると、躊躇いなくその肩に抱きついた。
父親である健一には「洗濯物を分けたがった」潔癖な彼女が、出会って間もない男に触れることを何とも思っていない。それは権田が「若くて、金を持っていて、理解のある頼れる大人」として巧みに振る舞っていたからだ。
「似合うよ、美緒ちゃん。君みたいに可愛い子には、それくらい良いものを持ってもらわないとね。……父親が犯罪者だからって、君まで惨めな思いをする必要はないんだ」
「……うん。ホント、パパ……ううん、あの人のせいで学校でもヒソヒソ言われて最悪だったけど、権田さんがいてくれてよかった」
美緒は権田の隣に座り、彼が切り分けたローストビーフを口に運んでもらう。
その光景は、一見すると仲睦まじい家族のようだった。だが、その中心にいるのは、家族を陥れた詐欺師だ。
「そういえば玲子さん。例の件、どうなりました?」
権田がワインを回しながら、何気ない調子で切り出した。
「例の件?」
「家の権利書と、ご主人の実印です。離婚調停を有利に進めるためにも、こちらで管理しておいた方がいいと言いましたよね? あの男が逆上して、勝手に家を売ろうとするかもしれませんから」
もっともらしい嘘だった。だが、不安に付け込まれている玲子には、それが慈悲深い提案に聞こえる。
「あ、はい。探しておきました。金庫の中に……」
「そうですか。後で確認させてください。僕が責任を持って守りますから」
権田の目が、獲物を前にした獣のように一瞬だけ鋭く光ったが、玲子も美緒もそれに気づかない。
食事が終わり、美緒が「部屋で宿題してくる」と二階へ上がると、リビングには大人二人だけの時間が訪れる。
「……玲子さん」
権田が低い声で囁き、テーブル越しに玲子の手を握る。
「不安でしょう? でも、もう大丈夫だ。僕がついている」
「権田さん……」
玲子は潤んだ瞳で権田を見つめ返す。夫への失望と将来への不安で空いた心の穴を、この男が埋めてくれると錯覚していた。
権田は立ち上がり、玲子の肩を抱いてソファへと誘う。
「今日は泊まっていいですよね? 悪い虫がつかないように、番犬になりますよ」
「……番犬だなんてもったいないわ。……新しい主(あるじ)様、かしら」
玲子は自分から権田の胸に身を寄せた。
その夜、主寝室からは、かつて健一と玲子が愛を育んだベッドが軋む音が、微かに漏れ出ていた。
壁に掛けられた家族写真の中の健一だけが、その裏切りを静かに見つめていた。
***
数日後。高島が経営するオフィスの個室で、俺は一枚のモニターを見つめていた。
「……覚悟して見てくれ、健一」
高島がキーボードを叩くと、動画が再生された。
それは、駅構内の防犯カメラの映像だ。一般には公開されない類のものだが、高島のコネと技術で入手したらしい。
画面には、ラッシュアワー前の駅のホームの端、死角になる柱の陰が映っている。
そこに、二人の男女がいた。
一人は、俺を取り押さえた男、権田猛。
もう一人は、俺を痴漢だと訴えた被害者の女だ。
二人は親しげに話し込んでいる。音声はないが、その表情は明るい。女がスマホの画面を見せ、権田が何やら指示を出しているように見える。そして、二人はハイタッチを交わし、笑い合った。
その後、二人は時間をずらして電車に乗り込んでいった。俺が乗ったのと同じ車両に。
「これは……!」
「ああ。間違いなくグルだ。偶然居合わせたわけじゃない。最初からターゲットを物色して、役割分担を決めていたんだ」
高島が冷ややかな声で解説する。
「お前は狙われたんだよ、健一。……そして、こっちも見てくれ」
高島が次に差し出したのは、探偵からの調査報告書だった。
そこには、権田の素性が記されていた。自称投資家だが実態はなく、過去に何度か金銭トラブルの噂があるが、警察沙汰にはなっていないプロの詐欺師。ターゲットの家庭に入り込み、信頼を得て資産を搾取する「背乗り(はいのり)」に近い手口を使う危険人物。
そして、報告書の最後には、数枚の写真が添付されていた。
俺の手が震えた。
一枚目は、我が家のゴミ捨て場の写真だ。
半透明のゴミ袋の中に、俺が長年かけて集めてきたアナログレコードのコレクションが無造作に詰め込まれている。割れたジャケット、折れ曲がった盤面。
俺の宝物が、ゴミとして捨てられていた。
二枚目は、週末のショッピングモールの駐車場で撮られたものだ。
権田が運転席に乗り込み、助手席には玲子が、後部座席には美緒が乗っている。
俺の愛車だ。俺が家族のためにローンを組んで買ったミニバンだ。
玲子は助手席で楽しそうに笑い、権田の腕に手を添えている。美緒も後部座席から身を乗り出し、権田に何か話しかけている。
その笑顔。
俺が逮捕され、必死に無実を訴えていた時には一度も見せてくれなかった、屈託のない笑顔。
「……なんだ、これは」
口から乾いた音が漏れた。
「今の杉浦家の様子だ。近所の聞き込みによると、権田はほぼ毎日入り浸っている。奥さんとも、まあ……そういう関係にあると見て間違いないだろう」
高島が苦々しげに言う。
俺の中で、何かがプツリと切れる音がした。
悲しみではない。絶望でもない。
もっと冷たく、重く、鋭利な何かが、心臓の奥底から湧き上がってくるのを感じた。
レコードを捨てられたことへの怒りか? 車を乗っ取られたことへの憤りか?
いや、違う。
俺が地獄の底で、彼女たちを心配し、信じてもらえないことに苦しんでいたその時、彼女たちは俺を排除した世界で、詐欺師と共に「幸せな家族ごっこ」を演じていたのだ。
俺の苦しみなど、彼女たちにとっては「生理的に無理な過去」でしかなかったのだ。
騙されている?
ああ、そうかもしれない。権田はプロだ。玲子や美緒を騙すなんて赤子の手をひねるようなものだろう。
だが、騙されたからといって、俺への裏切りが正当化されるわけではない。
彼女たちは、俺の言葉よりも、他人の男の甘い言葉を選んだ。俺との二十年よりも、偽造されたデータを信じた。そして今、俺の痕跡を消し去り、別の男に媚びを売って笑っている。
「……高島」
俺の声は、自分でも驚くほど低く、冷え切っていた。
「ああ」
「俺は、あいつらを心配していた。バカだったよ。……あいつらは、被害者なんかじゃない。俺を殺した共犯者だ」
指に嵌めていた結婚指輪を引き抜く。薬指には、白く跡が残っていたが、今の俺にはそれが呪いの痕にしか見えなかった。
俺は指輪をテーブルの上に、カツンと音を立てて置いた。
「徹底的にやってくれ。情けは無用だ。……俺の全てを奪おうとした代償を、骨の髄まで払わせてやる」
俺の目から涙は消えていた。代わりに宿っていたのは、どす黒い復讐の炎だ。
高島はニヤリと不敵に笑い、俺の肩を強く叩いた。
「待っていたぞ、その言葉を。……さあ、反撃の時間だ」
モニターに映る権田の笑顔と、それに寄り添う妻と娘の笑顔。
その幸せそうな表情が、恐怖と絶望に歪む瞬間を想像し、俺は拳を固く握りしめた。
もう、あの家に戻りたいとは思わない。あそこはもう俺の家ではない。
魔女と悪魔が住む巣窟だ。ならば、焼き払うしかない。
俺たちは、次回の離婚調停の期日に向けて、静かに、しかし確実に牙を研ぎ始めた。
裁判所という公開処刑の場で、彼女たちに「真実」という名の劇薬を飲ませるために。
窓の外では、雷鳴が轟き始めていた。激しい雨が、街の汚れを洗い流そうとしているかのように、降り注ごうとしていた。
10
この作品は感想を受け付けておりません。
あなたにおすすめの小説
僕が諦めた初恋の彼女は、偽ヒーローに身も心も捧げた後、全てを失ってから本当のヒーローが僕だったと知ったらしい
ledled
恋愛
高校二年生の水無月湊は、同じ図書委員の学年一の美少女・白鷺院麗華への恋を、戦う前に諦めた。
彼女には、心の底から焦がれる「ヒーロー」がいると知ってしまったからだ。
失恋の痛みを噛み締める湊の耳に、麗華がクラスのチャラ男と付き合い始めたという噂が届く。彼女は、その男こそが探し続けたヒーローだと信じきっていた。
だが湊は知らない。彼女が神格化するヒーローが、過去の記憶すらない自分自身だったことを。
そして麗華もまだ知らない。偽りの愛に全てを捧げた先に待つ絶望と、真実を知った時にはもう何もかもが手遅れだということを。
これは、残酷なすれ違いから始まる、後悔と再生のラブストーリー。
※この小説は生成AIを活用して執筆しています。内容は人による監修・編集済みです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
魔王を倒した手柄を横取りされたけど、俺を処刑するのは無理じゃないかな
七辻ゆゆ
ファンタジー
「では罪人よ。おまえはあくまで自分が勇者であり、魔王を倒したと言うのだな?」
「そうそう」
茶番にも飽きてきた。処刑できるというのなら、ぜひやってみてほしい。
無理だと思うけど。
裏切りの代償
中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。
尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。
取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。
自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。
冤罪で辺境に幽閉された第4王子
satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。
「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。
辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。
魔王を倒した勇者を迫害した人間様方の末路はなかなか悲惨なようです。
カモミール
ファンタジー
勇者ロキは長い冒険の末魔王を討伐する。
だが、人間の王エスカダルはそんな英雄であるロキをなぜか認めず、
ロキに身の覚えのない罪をなすりつけて投獄してしまう。
国民たちもその罪を信じ勇者を迫害した。
そして、処刑場される間際、勇者は驚きの発言をするのだった。
裏切られ続けた負け犬。25年前に戻ったので人生をやり直す。当然、裏切られた礼はするけどね
魚夢ゴールド
ファンタジー
冒険者ギルドの雑用として働く隻腕義足の中年、カーターは裏切られ続ける人生を送っていた。
元々は食堂の息子という人並みの平民だったが、
王族の継承争いに巻き込まれてアドの街の毒茸流布騒動でコックの父親が毒茸の味見で死に。
代わって雇った料理人が裏切って金を持ち逃げ。
父親の親友が融資を持ち掛けるも平然と裏切って借金の返済の為に母親と妹を娼館へと売り。
カーターが冒険者として金を稼ぐも、後輩がカーターの幼馴染に横恋慕してスタンピードの最中に裏切ってカーターは片腕と片足を損失。カーターを持ち上げていたギルマスも裏切り、幼馴染も去って後輩とくっつく。
その後は負け犬人生で冒険者ギルドの雑用として細々と暮らしていたのだが。
ある日、人ならざる存在が話しかけてきた。
「この世界は滅びに進んでいる。是正しなければならない。手を貸すように」
そして気付けは25年前の15歳にカーターは戻っており、二回目の人生をやり直すのだった。
もちろん、裏切ってくれた連中への返礼と共に。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる