3 / 4
第三話 証拠収集と包囲網
しおりを挟む
八月に入り、キャンパスは夏休み特有の静寂と、うだるような熱気に包まれていた。
セミの鳴き声が耳鳴りのように響く中、俺、瀬川蒼太は冷房の効いた大学の事務棟にいた。
手にはクリアファイルが一冊。中には、俺の今後を――そして、ある愚かな茶番劇を終わらせるための重要な書類が入っている。
「失礼します。学生課の杉本さんはいらっしゃいますか?」
カウンター越しに声をかけると、初老の職員が顔を上げた。彼は俺の顔を見るなり、柔和な笑みを浮かべた。
「おや、瀬川君じゃないか。どうしたんだい? 夏休みだというのに」
「ええ、次年度の特待生手続きの件で、少し確認したいことがありまして」
杉本さんは、俺が特待生に選ばれたことを我が事のように喜んでくれた恩人だ。俺の家庭の事情も、ある程度は把握してくれている。
俺は周囲に人がいないことを確認してから、声を潜めた。
「実は……少し変な噂を耳にしまして。念のために確認させていただきたいんです」
「変な噂?」
「はい。学生会の幹部クラスになると、大学の理事に口利きをして、特定の学生の学費を免除させたり、逆に退学を阻止したりする『裏枠』がある……という話なんですが」
俺の言葉を聞いた瞬間、杉本さんは呆気にとられたような顔をし、次の瞬間、吹き出した。
「ははは! なんだいそれは。漫画かドラマの話かい?」
「……やはり、あり得ませんか」
「あり得ないよ。断言する。本学の学費免除規定は、理事会で厳格に定められている。成績優秀者か、あるいは国際的な功績を残した学生のみだ。学生会の役員ごときが口を挟める余地なんて、一ミリもないよ。それに『裏枠』なんて作ったら、それこそ大学の認可に関わる不祥事だ」
杉本さんは涙を拭いながら、書類をパタパタと振った。
「誰がそんな馬鹿なことを言っているんだい? もしそんな詐欺師みたいな学生がいるなら、教えてほしいくらいだよ」
「……いえ、ただの噂なら安心しました。ありがとうございます」
俺は礼を言って事務棟を出た。
予想通りだ。
鰐淵恭介が美咲に吹き込んだ「裏工作」や「コネ」など、最初から存在しなかった。
あいつはただ、世間知らずで思い込みの激しい美咲を騙し、自分の性欲を満たすためだけに「彼氏を退学から救う」という甘い毒餌をぶら下げたのだ。
そして美咲は、その毒を「特効薬」だと信じ込んで、喜んで飲み干した。
「……馬鹿な奴らだ」
炎天下のアスファルトを歩きながら、俺は冷ややかな感情を噛み締めていた。
かつては愛おしいと思っていた美咲の純粋さが、今はただの愚鈍さにしか見えない。
だが、これで一つ目の証拠が固まった。
次は、鰐淵という男の化けの皮を剥ぐ番だ。
俺の足は、図書館のPCルームへと向かっていた。
特待生に選ばれたことで、俺は来月開催される「学生総会」の資料作成補助を教授から頼まれていた。その権限を使えば、学生会の共有サーバーにある一部のデータにアクセスすることができる。
もちろん、本来の目的は資料作成だが、俺の狙いは別にある。
「鰐淵恭介……お前の隙だらけの尻尾、掴んでやるよ」
PCルームの隅の席に座り、IDとパスワードを打ち込む。
画面に無機質なフォルダが並ぶ。
俺は工学部情報学科の学生だ。データの解析や、隠されたファイルの痕跡を辿ることは得意分野だった。
まずは、学生会の会計データを開く。
鰐淵は副会長という立場を利用し、予算の管理を一任されていると聞いていた。
「……なんだ、これ」
ものの数分もしないうちに、違和感が見つかった。
『備品購入費』『イベント運営費』『渉外費』。
それらの項目に計上されている金額と、実際に添付されている領収書のデータに、奇妙なズレがある。
特に『渉外費』の項目は杜撰だった。架空の業者名義の領収書が何枚も混ざっている。業者名をネットで検索しても、ヒットしない会社ばかりだ。
「毎月、五万から十万……。チリも積もれば、か」
鰐淵の実家は金持ちだという触れ込みだったが、どうやらそれも怪しい。
こいつは学生会費を自分の財布代わりにしている。
美咲にちらつかせていた「金持ちの余裕」も、実際は横領した金で作られたハリボテだったわけだ。
だが、これだけでは「事務処理のミス」で逃げられる可能性がある。
もっと決定的な、奴が言い逃れできない証拠が必要だ。
俺はさらにデータの深層へと潜った。
共有サーバーの中に、個人用のフォルダを作成している痕跡はないか。あるいは、削除されたデータの履歴に、不審なものはないか。
カチャカチャとキーボードを叩く音が、静かな部屋に響く。
一時間後。
俺はついに、隠しフォルダを見つけ出した。
フォルダ名は『Personal_W』。パスワードがかかっているが、生年月日や学籍番号を組み合わせた単純なものだった。セキュリティ意識の低さに呆れる。
ロックを解除し、中身を開いた瞬間。
俺は思わず息を呑み、吐き気を覚えた。
そこにあったのは、画像や動画ファイルの山だった。
ファイル名には、女性の名前がつけられている。
『Tomoko』『Sayaka』『Yumi』……そして、『Misaki』。
震える手で『Misaki』のフォルダをクリックする。
画面に表示されたのは、先日のカラオケボックスで撮影されたであろう、美咲のあられもない姿だった。
涙目でピースサインをする美咲。スカートを捲り上げられている美咲。
そして、動画ファイルもあった。再生ボタンを押すと、鰐淵の下卑た声と、それに従順に応える美咲の声が流れてきた。
『蒼太くんのため、だもんね?』
『……はい、そうです。彼を助けてください』
ヘッドホンから流れるその音声は、俺の心に残っていた最後の情けを、完全に断ち切る鋭利な刃物となった。
彼女は、俺のためにやっていると信じている。
だが、現実はどうだ?
彼女のその姿は、鰐淵のコレクションの一つとして、デジタルデータの中に永久に保存されているだけだ。
他のフォルダの女性たちも、おそらく似たような手口で騙され、食い物にされたのだろう。
「……許さない」
怒りで視界が赤く染まる感覚があった。
俺への裏切り云々ではない。これは明白な犯罪だ。
横領、脅迫、リベンジポルノの収集。
鰐淵恭介は、学生の風上にも置けない犯罪者だ。
そして、それに加担し、自ら進んで被写体となった美咲もまた、同罪だ。
俺はUSBメモリを取り出し、全てのデータをコピーした。
横領の証拠となる会計帳簿のスクリーンショット。
架空請求の領収書データ。
そして、この忌まわしい『Personal_W』の中身全て。
コピー完了のプログレスバーが100%になるのを見届け、俺はPCをシャットダウンした。
「これで、チェックメイトだ」
ポケットに入れたUSBメモリが、熱を帯びているように感じた。
これで奴らを社会的に抹殺できる。
だが、その前に一つだけ、やっておかなくてはならないことがあった。
***
数日後の夕方。
俺は駅前のカフェに美咲を呼び出した。
美咲はすぐにやってきた。新しいワンピースを着て、髪も巻いている。傍から見れば、デートの待ち合わせに来た幸せな女子大生だ。
だが、俺の目には、その笑顔の下にある疲労と、どこか焦点の定まらない瞳がはっきりと見えていた。
「ごめんね、待った?」
「いや、俺も今来たところだ」
向かいの席に座った美咲は、アイスティーを注文した。
俺たちは他愛のない話をした。夏休みの予定、最近のニュース、俺のバイトの話。
美咲はずっとニコニコしていた。
「蒼太くん、顔色が良くなって本当によかった」と、何度も繰り返した。
俺はカップの縁を指でなぞりながら、核心へと踏み込むタイミングを計っていた。
これが最後のチャンスだ。
もし彼女が、ここで全てを打ち明けてくれれば。
「騙されていた」と泣きついてくれれば、俺の行動も変わったかもしれない。鰐淵だけをターゲットにして、美咲のことは守ってやったかもしれない。
「なぁ、美咲」
「ん? なあに?」
ストローを口に含んだまま、美咲が小首を傾げる。
俺は彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「最近、何か隠してないか?」
「えっ……」
美咲の動きが止まった。
視線が泳ぎ、ストローから口を離す。
「隠してるって、何を?」
「何でもいい。悩み事とか、困ってることとか。あるいは……俺に言えないような誰かとの付き合いとか」
かなり踏み込んだ聞き方だった。
美咲の顔色がサッと青ざめる。彼女の手が、テーブルの上で小さく震え始めた。
彼女の頭の中で、様々な言い訳が駆け巡っているのが分かる。
言うなら今だ。
「脅されている」と。「あなたのために無理をしている」と。
そう言ってくれれば、俺は「知っているよ」と言って、その重荷を取り除いてやれる。
沈黙が数秒続いた。
やがて、美咲は再び笑顔を作った。
それは、ひどく脆く、歪な笑顔だった。
「ううん、何もないよ。本当に」
「……本当に?」
「うん。私、今すごく幸せだもん。蒼太くんと一緒にいられるだけで十分だよ。だから、心配しないで?」
美咲は俺の手の上に、自分の手を重ねてきた。
その手は冷たかった。
彼女は選んだのだ。
真実を告げて俺と向き合うことよりも、「悲劇のヒロイン」として自己満足の世界に浸り続けることを。
あるいは、ここまで汚れてしまった自分を直視するのが怖くて、嘘を突き通すしかなかったのかもしれない。
俺の中で、何かが完全に冷え固まった。
失望という言葉すら生温い。
これは「絶縁」の決意だ。
「そうか。何もないなら、いいんだ」
俺は彼女の手を、そっと、しかし拒絶の意思を込めて振りほどいた。
美咲が一瞬、傷ついたような顔をする。
だが、俺はもうその表情に心を動かされることはなかった。
「あ、そうだ。来週の学生総会、美咲も出るよな?」
「え? うん、一年生は全員参加だし……。蒼太くんも?」
「ああ。俺、特待生として少し発表があるんだ」
「すごい! 楽しみにしてるね!」
美咲は無邪気に喜んだ。
その発表が、自分への死刑宣告になるとも知らずに。
「ああ、楽しみにしててくれ。最高のステージにするから」
俺は残りのコーヒーを飲み干し、席を立った。
もう、彼女にかける言葉は何もない。
あとは、舞台の幕が上がるのを待つだけだ。
***
アパートに帰った俺は、最後の仕上げに取り掛かった。
集めた証拠データを整理し、プレゼンテーション資料を作成する。
タイトルは『学生会運営における重大な不正および倫理違反に関する告発』。
本来ならば大学の監査委員会に提出すべきものだが、それでは生温い。鰐淵の親の力で揉み消される可能性もゼロではない。
だから、俺はもっと効果的で、残酷な方法を選んだ。
学生総会。
全学生、教職員、そして理事会の一部も参加する大規模なイベント。
そこで特待生代表の挨拶として登壇する俺には、マイクとプロジェクターの使用権限がある。
その場ですべてを晒す。
鰐淵の悪事も、横領の実態も、そして美咲との不貞の証拠も。
「……やりすぎか?」
ふと自問する。
美咲のプライバシーまで晒す必要があるのか。
だが、USBメモリの中の動画を思い出すたびに、その迷いは消え失せた。
彼女は俺の名前を使って、鰐淵との行為に耽っていた。
『蒼太くんのため』という免罪符を掲げて、自ら進んで共犯者になったのだ。
その代償は払ってもらわなければならない。
俺は匿名のアカウントを作成し、過去の被害者と思われる学生たちにコンタクトを取った。
フォルダ名にあった『Tomoko』や『Sayaka』たちだ。
SNSを駆使して彼女たちのアカウントを特定し、慎重にメッセージを送る。
『突然のご連絡失礼します。学生会副会長・鰐淵恭介の件で、重要な証拠を持っています。彼を告発するつもりですが、ご協力いただけませんか? 名前は伏せます』
返信はすぐに来た。
彼女たちもまた、鰐淵に人生を狂わされ、泣き寝入りしていた被害者たちだった。
『あいつを破滅させられるなら、何でもします』
『証言します。あいつに脅されたLINEの履歴、全部残ってます』
次々と集まる、怨嗟の声。
鰐淵への憎しみで繋がった包囲網は、確実に、そして強固に完成しつつあった。
当日のシナリオを頭の中でリハーサルする。
俺が登壇し、挨拶を始める。
鰐淵は最前列の役員席で、ふんぞり返って聞いているだろう。
そして、スクリーンに最初の証拠が映し出された時、奴はどんな顔をするだろうか。
美咲は、客席で何を感じるだろうか。
想像するだけで、背筋がゾクゾクするような高揚感が湧き上がってくる。
これは復讐ではない。
ただの「清算」だ。
歪んだ関係、嘘で塗り固められた日常、そして無意味な自己犠牲。
それら全てを、白日の下に晒して終わらせる。
窓の外では、遠くで花火の音が響いていた。
夏の終わりが近づいている。
そして、俺たちの関係の終わりも、すぐそこまで来ていた。
「さようなら、美咲」
俺はPCの画面を閉じ、深く息を吐いた。
準備は整った。
あとは、断罪の時を待つのみだ。
セミの鳴き声が耳鳴りのように響く中、俺、瀬川蒼太は冷房の効いた大学の事務棟にいた。
手にはクリアファイルが一冊。中には、俺の今後を――そして、ある愚かな茶番劇を終わらせるための重要な書類が入っている。
「失礼します。学生課の杉本さんはいらっしゃいますか?」
カウンター越しに声をかけると、初老の職員が顔を上げた。彼は俺の顔を見るなり、柔和な笑みを浮かべた。
「おや、瀬川君じゃないか。どうしたんだい? 夏休みだというのに」
「ええ、次年度の特待生手続きの件で、少し確認したいことがありまして」
杉本さんは、俺が特待生に選ばれたことを我が事のように喜んでくれた恩人だ。俺の家庭の事情も、ある程度は把握してくれている。
俺は周囲に人がいないことを確認してから、声を潜めた。
「実は……少し変な噂を耳にしまして。念のために確認させていただきたいんです」
「変な噂?」
「はい。学生会の幹部クラスになると、大学の理事に口利きをして、特定の学生の学費を免除させたり、逆に退学を阻止したりする『裏枠』がある……という話なんですが」
俺の言葉を聞いた瞬間、杉本さんは呆気にとられたような顔をし、次の瞬間、吹き出した。
「ははは! なんだいそれは。漫画かドラマの話かい?」
「……やはり、あり得ませんか」
「あり得ないよ。断言する。本学の学費免除規定は、理事会で厳格に定められている。成績優秀者か、あるいは国際的な功績を残した学生のみだ。学生会の役員ごときが口を挟める余地なんて、一ミリもないよ。それに『裏枠』なんて作ったら、それこそ大学の認可に関わる不祥事だ」
杉本さんは涙を拭いながら、書類をパタパタと振った。
「誰がそんな馬鹿なことを言っているんだい? もしそんな詐欺師みたいな学生がいるなら、教えてほしいくらいだよ」
「……いえ、ただの噂なら安心しました。ありがとうございます」
俺は礼を言って事務棟を出た。
予想通りだ。
鰐淵恭介が美咲に吹き込んだ「裏工作」や「コネ」など、最初から存在しなかった。
あいつはただ、世間知らずで思い込みの激しい美咲を騙し、自分の性欲を満たすためだけに「彼氏を退学から救う」という甘い毒餌をぶら下げたのだ。
そして美咲は、その毒を「特効薬」だと信じ込んで、喜んで飲み干した。
「……馬鹿な奴らだ」
炎天下のアスファルトを歩きながら、俺は冷ややかな感情を噛み締めていた。
かつては愛おしいと思っていた美咲の純粋さが、今はただの愚鈍さにしか見えない。
だが、これで一つ目の証拠が固まった。
次は、鰐淵という男の化けの皮を剥ぐ番だ。
俺の足は、図書館のPCルームへと向かっていた。
特待生に選ばれたことで、俺は来月開催される「学生総会」の資料作成補助を教授から頼まれていた。その権限を使えば、学生会の共有サーバーにある一部のデータにアクセスすることができる。
もちろん、本来の目的は資料作成だが、俺の狙いは別にある。
「鰐淵恭介……お前の隙だらけの尻尾、掴んでやるよ」
PCルームの隅の席に座り、IDとパスワードを打ち込む。
画面に無機質なフォルダが並ぶ。
俺は工学部情報学科の学生だ。データの解析や、隠されたファイルの痕跡を辿ることは得意分野だった。
まずは、学生会の会計データを開く。
鰐淵は副会長という立場を利用し、予算の管理を一任されていると聞いていた。
「……なんだ、これ」
ものの数分もしないうちに、違和感が見つかった。
『備品購入費』『イベント運営費』『渉外費』。
それらの項目に計上されている金額と、実際に添付されている領収書のデータに、奇妙なズレがある。
特に『渉外費』の項目は杜撰だった。架空の業者名義の領収書が何枚も混ざっている。業者名をネットで検索しても、ヒットしない会社ばかりだ。
「毎月、五万から十万……。チリも積もれば、か」
鰐淵の実家は金持ちだという触れ込みだったが、どうやらそれも怪しい。
こいつは学生会費を自分の財布代わりにしている。
美咲にちらつかせていた「金持ちの余裕」も、実際は横領した金で作られたハリボテだったわけだ。
だが、これだけでは「事務処理のミス」で逃げられる可能性がある。
もっと決定的な、奴が言い逃れできない証拠が必要だ。
俺はさらにデータの深層へと潜った。
共有サーバーの中に、個人用のフォルダを作成している痕跡はないか。あるいは、削除されたデータの履歴に、不審なものはないか。
カチャカチャとキーボードを叩く音が、静かな部屋に響く。
一時間後。
俺はついに、隠しフォルダを見つけ出した。
フォルダ名は『Personal_W』。パスワードがかかっているが、生年月日や学籍番号を組み合わせた単純なものだった。セキュリティ意識の低さに呆れる。
ロックを解除し、中身を開いた瞬間。
俺は思わず息を呑み、吐き気を覚えた。
そこにあったのは、画像や動画ファイルの山だった。
ファイル名には、女性の名前がつけられている。
『Tomoko』『Sayaka』『Yumi』……そして、『Misaki』。
震える手で『Misaki』のフォルダをクリックする。
画面に表示されたのは、先日のカラオケボックスで撮影されたであろう、美咲のあられもない姿だった。
涙目でピースサインをする美咲。スカートを捲り上げられている美咲。
そして、動画ファイルもあった。再生ボタンを押すと、鰐淵の下卑た声と、それに従順に応える美咲の声が流れてきた。
『蒼太くんのため、だもんね?』
『……はい、そうです。彼を助けてください』
ヘッドホンから流れるその音声は、俺の心に残っていた最後の情けを、完全に断ち切る鋭利な刃物となった。
彼女は、俺のためにやっていると信じている。
だが、現実はどうだ?
彼女のその姿は、鰐淵のコレクションの一つとして、デジタルデータの中に永久に保存されているだけだ。
他のフォルダの女性たちも、おそらく似たような手口で騙され、食い物にされたのだろう。
「……許さない」
怒りで視界が赤く染まる感覚があった。
俺への裏切り云々ではない。これは明白な犯罪だ。
横領、脅迫、リベンジポルノの収集。
鰐淵恭介は、学生の風上にも置けない犯罪者だ。
そして、それに加担し、自ら進んで被写体となった美咲もまた、同罪だ。
俺はUSBメモリを取り出し、全てのデータをコピーした。
横領の証拠となる会計帳簿のスクリーンショット。
架空請求の領収書データ。
そして、この忌まわしい『Personal_W』の中身全て。
コピー完了のプログレスバーが100%になるのを見届け、俺はPCをシャットダウンした。
「これで、チェックメイトだ」
ポケットに入れたUSBメモリが、熱を帯びているように感じた。
これで奴らを社会的に抹殺できる。
だが、その前に一つだけ、やっておかなくてはならないことがあった。
***
数日後の夕方。
俺は駅前のカフェに美咲を呼び出した。
美咲はすぐにやってきた。新しいワンピースを着て、髪も巻いている。傍から見れば、デートの待ち合わせに来た幸せな女子大生だ。
だが、俺の目には、その笑顔の下にある疲労と、どこか焦点の定まらない瞳がはっきりと見えていた。
「ごめんね、待った?」
「いや、俺も今来たところだ」
向かいの席に座った美咲は、アイスティーを注文した。
俺たちは他愛のない話をした。夏休みの予定、最近のニュース、俺のバイトの話。
美咲はずっとニコニコしていた。
「蒼太くん、顔色が良くなって本当によかった」と、何度も繰り返した。
俺はカップの縁を指でなぞりながら、核心へと踏み込むタイミングを計っていた。
これが最後のチャンスだ。
もし彼女が、ここで全てを打ち明けてくれれば。
「騙されていた」と泣きついてくれれば、俺の行動も変わったかもしれない。鰐淵だけをターゲットにして、美咲のことは守ってやったかもしれない。
「なぁ、美咲」
「ん? なあに?」
ストローを口に含んだまま、美咲が小首を傾げる。
俺は彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「最近、何か隠してないか?」
「えっ……」
美咲の動きが止まった。
視線が泳ぎ、ストローから口を離す。
「隠してるって、何を?」
「何でもいい。悩み事とか、困ってることとか。あるいは……俺に言えないような誰かとの付き合いとか」
かなり踏み込んだ聞き方だった。
美咲の顔色がサッと青ざめる。彼女の手が、テーブルの上で小さく震え始めた。
彼女の頭の中で、様々な言い訳が駆け巡っているのが分かる。
言うなら今だ。
「脅されている」と。「あなたのために無理をしている」と。
そう言ってくれれば、俺は「知っているよ」と言って、その重荷を取り除いてやれる。
沈黙が数秒続いた。
やがて、美咲は再び笑顔を作った。
それは、ひどく脆く、歪な笑顔だった。
「ううん、何もないよ。本当に」
「……本当に?」
「うん。私、今すごく幸せだもん。蒼太くんと一緒にいられるだけで十分だよ。だから、心配しないで?」
美咲は俺の手の上に、自分の手を重ねてきた。
その手は冷たかった。
彼女は選んだのだ。
真実を告げて俺と向き合うことよりも、「悲劇のヒロイン」として自己満足の世界に浸り続けることを。
あるいは、ここまで汚れてしまった自分を直視するのが怖くて、嘘を突き通すしかなかったのかもしれない。
俺の中で、何かが完全に冷え固まった。
失望という言葉すら生温い。
これは「絶縁」の決意だ。
「そうか。何もないなら、いいんだ」
俺は彼女の手を、そっと、しかし拒絶の意思を込めて振りほどいた。
美咲が一瞬、傷ついたような顔をする。
だが、俺はもうその表情に心を動かされることはなかった。
「あ、そうだ。来週の学生総会、美咲も出るよな?」
「え? うん、一年生は全員参加だし……。蒼太くんも?」
「ああ。俺、特待生として少し発表があるんだ」
「すごい! 楽しみにしてるね!」
美咲は無邪気に喜んだ。
その発表が、自分への死刑宣告になるとも知らずに。
「ああ、楽しみにしててくれ。最高のステージにするから」
俺は残りのコーヒーを飲み干し、席を立った。
もう、彼女にかける言葉は何もない。
あとは、舞台の幕が上がるのを待つだけだ。
***
アパートに帰った俺は、最後の仕上げに取り掛かった。
集めた証拠データを整理し、プレゼンテーション資料を作成する。
タイトルは『学生会運営における重大な不正および倫理違反に関する告発』。
本来ならば大学の監査委員会に提出すべきものだが、それでは生温い。鰐淵の親の力で揉み消される可能性もゼロではない。
だから、俺はもっと効果的で、残酷な方法を選んだ。
学生総会。
全学生、教職員、そして理事会の一部も参加する大規模なイベント。
そこで特待生代表の挨拶として登壇する俺には、マイクとプロジェクターの使用権限がある。
その場ですべてを晒す。
鰐淵の悪事も、横領の実態も、そして美咲との不貞の証拠も。
「……やりすぎか?」
ふと自問する。
美咲のプライバシーまで晒す必要があるのか。
だが、USBメモリの中の動画を思い出すたびに、その迷いは消え失せた。
彼女は俺の名前を使って、鰐淵との行為に耽っていた。
『蒼太くんのため』という免罪符を掲げて、自ら進んで共犯者になったのだ。
その代償は払ってもらわなければならない。
俺は匿名のアカウントを作成し、過去の被害者と思われる学生たちにコンタクトを取った。
フォルダ名にあった『Tomoko』や『Sayaka』たちだ。
SNSを駆使して彼女たちのアカウントを特定し、慎重にメッセージを送る。
『突然のご連絡失礼します。学生会副会長・鰐淵恭介の件で、重要な証拠を持っています。彼を告発するつもりですが、ご協力いただけませんか? 名前は伏せます』
返信はすぐに来た。
彼女たちもまた、鰐淵に人生を狂わされ、泣き寝入りしていた被害者たちだった。
『あいつを破滅させられるなら、何でもします』
『証言します。あいつに脅されたLINEの履歴、全部残ってます』
次々と集まる、怨嗟の声。
鰐淵への憎しみで繋がった包囲網は、確実に、そして強固に完成しつつあった。
当日のシナリオを頭の中でリハーサルする。
俺が登壇し、挨拶を始める。
鰐淵は最前列の役員席で、ふんぞり返って聞いているだろう。
そして、スクリーンに最初の証拠が映し出された時、奴はどんな顔をするだろうか。
美咲は、客席で何を感じるだろうか。
想像するだけで、背筋がゾクゾクするような高揚感が湧き上がってくる。
これは復讐ではない。
ただの「清算」だ。
歪んだ関係、嘘で塗り固められた日常、そして無意味な自己犠牲。
それら全てを、白日の下に晒して終わらせる。
窓の外では、遠くで花火の音が響いていた。
夏の終わりが近づいている。
そして、俺たちの関係の終わりも、すぐそこまで来ていた。
「さようなら、美咲」
俺はPCの画面を閉じ、深く息を吐いた。
準備は整った。
あとは、断罪の時を待つのみだ。
10
あなたにおすすめの小説
僕が諦めた初恋の彼女は、偽ヒーローに身も心も捧げた後、全てを失ってから本当のヒーローが僕だったと知ったらしい
ledled
恋愛
高校二年生の水無月湊は、同じ図書委員の学年一の美少女・白鷺院麗華への恋を、戦う前に諦めた。
彼女には、心の底から焦がれる「ヒーロー」がいると知ってしまったからだ。
失恋の痛みを噛み締める湊の耳に、麗華がクラスのチャラ男と付き合い始めたという噂が届く。彼女は、その男こそが探し続けたヒーローだと信じきっていた。
だが湊は知らない。彼女が神格化するヒーローが、過去の記憶すらない自分自身だったことを。
そして麗華もまだ知らない。偽りの愛に全てを捧げた先に待つ絶望と、真実を知った時にはもう何もかもが手遅れだということを。
これは、残酷なすれ違いから始まる、後悔と再生のラブストーリー。
※この小説は生成AIを活用して執筆しています。内容は人による監修・編集済みです。
壊れていく音を聞きながら
夢窓(ゆめまど)
恋愛
結婚してまだ一か月。
妻の留守中、夫婦の家に突然やってきた母と姉と姪
何気ない日常のひと幕が、
思いもよらない“ひび”を生んでいく。
母と嫁、そしてその狭間で揺れる息子。
誰も気づきがないまま、
家族のかたちが静かに崩れていく――。
壊れていく音を聞きながら、
それでも誰かを思うことはできるのか。
魔王を倒した手柄を横取りされたけど、俺を処刑するのは無理じゃないかな
七辻ゆゆ
ファンタジー
「では罪人よ。おまえはあくまで自分が勇者であり、魔王を倒したと言うのだな?」
「そうそう」
茶番にも飽きてきた。処刑できるというのなら、ぜひやってみてほしい。
無理だと思うけど。
学園長からのお話です
ラララキヲ
ファンタジー
学園長の声が学園に響く。
『昨日、平民の女生徒の食べていたお菓子を高位貴族の令息5人が取り囲んで奪うという事がありました』
昨日ピンク髪の女生徒からクッキーを貰った自覚のある王太子とその側近4人は項垂れながらその声を聴いていた。
学園長の話はまだまだ続く……
◇テンプレ乙女ゲームになりそうな登場人物(しかし出てこない)
◇ふんわり世界観。ゆるふわ設定。
◇なろうにも上げています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる