世界の果ての階段を

kijima13

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1.プロローグ

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 「随分、遅かったじゃないか。博士」
 メシア・エヴァはそう言った。
 声は低くも高くもない。だが、よく研がれた刃のように、無駄な響きを一切含まない。しゃべり言葉でありながら、どこか書かれた文章をそのまま読み上げているような硬質さがあった。
 痩せた男――博士と呼ばれた男は、肩をすくめて一礼する。
 「これはこれは、申し訳ありません」
 大げさに両手を広げ、芝居がかった調子で続けた。

「ここは道が複雑でしてね。まるで人生のようですから」
 クスクスと笑い、さらに付け足す。
 「それに今日は、時間が長い日でしょう? どうにも進みが悪くて」
 メシア・エヴァは、即座には返さなかった。
 ほんのわずかな間を置き、視線を主人公から外さずに言う。
 「そうか。火鼠の日か」
 その言葉は、確認というより、独り言に近かった。
 「ここから出ないと、暦が分からなくなる」
 淡々とした口調だった。困惑も苛立ちも含まれていない。ただ、事実としてそうなのだと告げているだけだった。
 左右に座る男女は、何も反応しない。兵士たちも同様だ。火鼠の日という言葉が意味を持つのは、この場ではメシア・エヴァだけのようだった。
 博士は、わざとらしく頷いた。
 「ええ、ええ。閉じこもっていると、季節はすぐに迷子になりますからね」
 主人公は、そのやり取りを聞きながら、奇妙な感覚にとらわれていた。
 暦、という言葉が、ひどく遠いものに思えた。日付も、曜日も、彼の中には存在しない。あるのは、少年が教えてくれた「伸びる一日」だけだ。
 メシア・エヴァは、ようやく主人公に向かって言葉を向けた。
 「こちらへ」
 短い命令だった。
 その一言で、この場の時間が、彼女のものであることがはっきりした。

主人公は、示された席に座った。
 長いテーブルの右側、男女の間だった。椅子を引く音が、広い室内にわずかに響いたが、二人は反応しなかった。視線も動かさない。まるで、最初からそこに座っている前提で用意されていた空席だったかのようだ。
 主人公は、顔を向けないまま、右と左をそれとなく窺った。
 右側の男は、体格がよかった。肩幅が広く、無駄な脂肪のない身体つきだ。黒髪は短く刈られ、黒い服は装飾のない実用的なものだった。鼻は低いが大きく、顔の中心にどっしりと据わっている。目は細く、眉は太い。
 額に、黒い亀の印があった。
 それほど大きくはないが、はっきりとした輪郭を持つ。皮膚の上に乗っているというより、下から浮かび上がっているように見えた。入れ墨かもしれない、と主人公は思ったが、断定はできなかった。
 左側の女にも、同じ位置に印があった。
 青い龍だった。
 女は小柄で、身体の線が細い。髪は異様なほど長く、背中を越えてまっすぐに伸びている。色は黒ではなく、わずかに青みを帯びていた。光を受けると、深い水の底のような色合いになる。
 着ている服も濃い青で統一されている。布の質は柔らかそうだが、形は簡素だった。
 肌は透き通るほど白い。血の気がなく、温度を感じさせない。つり上がった目は小さく、鼻も小さい。全体の造作は整っているが、どこか人形めいていた。
 二人とも、微動だにしない。
 呼吸しているはずなのに、その気配が伝わってこない。生きているというより、役割としてそこに配置されている存在に見えた。
 主人公は、視線を正面に戻した。
 長いテーブルの向こう側で、メシア・エヴァがこちらを見ている。その視線には、先ほどと変わらぬ静けさがあった。
 この席は、観察されるための席だ。
 主人公は、理由もなくそう確信した。

主人公は、反対側の席にも視線を向けた。
 長いテーブルを挟んだ向こう側に、男女が二人、並んで座っている。
 男は、長い髪を後ろで一つに縛っていた。色は黒ではなく、黄みがかっている。身体は痩せているが、筋肉の輪郭がはっきりしていた。着ているのは作業着のような黄色い服で、その上からでも鍛え上げられているのが分かる。
 男の目が、主人公を捉えていた。
 大きく、瞬きが少ない。興味深そうに覗き込むその視線は、人を見るというより、獲物の動きを確かめる獣のそれに近かった。
 額には、黄色い虎の印がある。
 はっきりとした線で描かれており、黒の亀や青い龍と同じ位置に刻まれていた。
 その隣の女は、目を閉じていた。
 眠っているのか、それとも起きているのかは分からない。呼吸は浅く、表情は動かない。
 髪は、かなり短く刈り込まれている。頭のてっぺんだけが長く残され、そこが朱色に染められていた。その色は、血のようでもあり、火のようでもあった。
 顔には、大きな傷が走っている。治りきっていない古傷ではなく、繰り返し刻まれてきた痕跡のように見えた。
 袖のない上着は赤く、わずかに光沢がある。露出した二本の腕は、鍛え上げられており、やはり傷だらけだった。皮膚は厚く、打たれ、裂かれ、塞がってきた歴史をそのまま残している。
 そして、彼女の額にも印があった。
 赤い鳥。
 翼を広げた形で、他の印よりもやや大きく見える。
 主人公は、無意識に理解した。
 四人の男女は、ただ座っているのではない。配置されているのだ。長いテーブルの四辺を埋めるように、色と獣の名を与えられて。
 亀、龍、虎、鳥。
 その中心に、今、自分がいる。
 そして、その向こうに、メシア・エヴァがいる。
 この場は、会合ではない。
 儀式に近い。
 主人公は、ようやく呼ばれた理由が、分かり始めていた。
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