世界の果ての階段を

kijima13

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1.プロローグ

儀式

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メシア・エヴァは、しばらく主人公を見つめていた。
 感情を測る視線ではない。道具の状態を確かめるような、冷たい静けさだった。
 やがて、彼女はおもむろに口を開いた。
「――お前は、“何もわからない”と答えるそうだな」
 問いかけというより、確認だった。
 主人公が言葉を探す前に、彼女は続ける。
「記憶がないのか」
 声は硬質で、澱みがない。
「かつて、お前のような人間がいた」
 その言葉に、テーブルの周囲の空気がわずかに張り詰めた。だが誰も口を挟まない。
「もし、お前がその人物と同じ“ところ”から来たのなら――」
 メシア・エヴァは一拍置いた。
「それが良いことか、悪いことか。現状では、判別がつかない」
 彼女は視線を落とし、テーブルの上に手を伸ばした。
 灰色の石が、音もなく置かれる。
 それは四面体だった。
 掌に収まるほどの大きさで、角は滑らかに削られている。人工物でありながら、どこか自然石のような重みがあった。
 四つの面には、それぞれ印が刻まれている。
 黒い亀。
 青い龍。
 黄色い虎。
 赤い鳥。
 主人公は、無意識に先ほど見た四人の額を思い出した。
「――今から、これを振る」
 メシア・エヴァは淡々と言った。
 占いの宣告でも、遊戯の開始でもない。
 結果が“出る”ことを前提とした口調だった。
 四面体の石は、彼女の指先の間で、静かに回転していた。
メシア・エヴァの指が開いた。
 四面体の石は、ほとんど音を立てずに宙へ放り出された。
 落下――そのはずだった。
 だが、石は落ちない。
 正確には、落ちているのに、進んでいない。
 主人公はそれを「見た」というより、「理解してしまった」。
 石の回転が、途中で引き延ばされる。
 一面が正面を向き、そこから次の面へ移るまでの間が、不自然に長い。瞬き一つ分のはずの時間が、呼吸一つ分、いや、それ以上に伸びている。
 音が、遠ざかった。
 この部屋にいたはずの気配――兵士の革靴が床を踏む重さ、衣擦れ、誰かの呼吸――それらが一様に薄くなり、綿を通したように歪む。
 主人公は、自分の心臓の音だけを、やけにはっきりと聞いていた。
 遅い。
 鼓動が、異様に遅い。
 次の瞬間、彼は気づく。
 自分だけが動いている。
 いや、動けてしまう。
 視線を動かすと、メシア・エヴァの手は半ば空中で止まり、痩せた男の笑いかけた口元も、歪んだ形のまま固定されている。
 左右の四人も同じだった。
 虎の印の男の瞳は見開かれたまま、鳥の印の女の胸も上下していない。
 世界が、凍結している。
 冬のせいだ、と主人公はなぜか思った。
 少年が言っていた。
 寒ければ寒いほど、時間は伸びる。
 だがこれは、伸びるというより――裂けている。
 石だけが、わずかに、わずかに回り続けていた。
 灰色の面に刻まれた印が、順番に視界をよぎる。
 亀。
 龍。
 虎。
 鳥。
 そのどれでもない瞬間。
 刻まれていないはずの“隙間”が、一瞬だけ主人公の目に映った。
 何も描かれていない、ただの石肌。
 その瞬間、胸の奥が、微かに痛んだ。
 ――知っている。
 理由はわからない。
 だが、その「何もない面」を、彼は確かに知っていた。
 次の瞬間。
 音が、戻る。
 重力が、戻る。
 石はテーブルに当たり、乾いた音を立てて跳ねた。
 時間は、何事もなかったかのように流れ始める。
 だが主人公だけが理解していた。
 今の一瞬で、この場の前提が、静かに壊れたことを。石は二度、小さく跳ねてから静止した。
 上を向いた面に刻まれていたのは――黄色い虎。
 一拍の沈黙。
 次の瞬間、反対側の席から椅子が軋む音がした。
「ははっ」
 虎の印の男が、声を上げて笑った。
 獣を思わせる大きな目が、愉快そうに細められる。
「やっとか。正直、退屈してたんだ」
 彼は主人公に視線を投げる。
「ちょうどいい。身体も鈍ってたところだしな」
 そう言って、立ち上がろうとした。
 椅子の脚が床から離れかけた、その瞬間。
「――急くな」
 低い声が、空気を切った。
 主人公の右側、黒い服の男――亀の印の男だった。
 声量は大きくない。だが、否応なく耳に届く。
「座れ。まだ、主の話は終わっていない」
 虎の男の動きが止まる。
 一瞬だけ、二人の視線が交錯した。
 重いものと、鋭いものがぶつかるような沈黙。
 虎の男は、肩をすくめた。
「……ちっ」
 短く舌打ちすると、再び椅子に身を沈める。
 だが、その表情から興味は消えていなかった。
 むしろ――獲物を前にした獣のそれに、近づいていた。
 メシア・エヴァは、まだ何も言わない。
 ただ、石と主人公を、同時に見つめていた。
 まるで、結果そのものではなく、
 それによって生じた“歪み”を計っているかのように。「さて」
 メシア・エヴァは、静かにそう言った。
 その一言で、場の空気が整え直される。
 彼女は主人公を見る。
「――虚ろの男」
 それは名ではなかった。
 ここにいる誰も、彼の名前を知らない。ただ、そう呼ぶしかないというだけの呼称だった。
「お前が本当に記憶を失っているのか」
 一拍。
「あるいは、偽りを述べているのか」
 さらに一拍。
「これから判断する」
 主人公は、小さく頷いた。
 呼ばれた言葉に、胸は何も応えなかった。
 そして、初めて言葉らしい言葉を発する。
「……どうすれば」
 メシア・エヴァは、灰色の石から視線を上げる。
「簡単だ」
 淡々とした声だった。
「お前は――その男と向き合え」
 彼女の視線が、テーブルの向こう側にいる、額に虎の印を持つ男を示す。
 虎の男は、にやりと笑った。
 今度こそ、立ち上がる準備をするように、肩を鳴らした。ビャクは腰に手をやり、ナイフを抜いた。
 刃渡りは、成人の掌より少し長いほど。
 短剣というより、処置用の刃物に近い。
 柄は黒く、磨かれた石のような鈍い光沢を帯びている。
 握りの根元には、指を守るための輪が付いていた。殴打にも使える造りだ。
 刃は異様なほど研ぎ澄まされていた。
 ビャクが軽く振る。
 ひゅ、と――空気が裂けたような音がした。
 それを二度、三度。
 刃の重さと切れ味を確かめるように振ったあと、主人公に向き直る。
「動くなよ」
 静かな声だった。
「動くと、ろくなことにならない」
 主人公はうなずき、遅れて気づいて慌てて言葉を足す。
「……はい」
 ビャクは口の端を上げた。
「いい子だ」
 それから、眠っていた赤い鳥の印の女に声をかける。
「火を貸してくれ、シュ」
 シュと呼ばれた女は、ゆっくりと瞼を上げた。
 眠たげに目をこすり、左手を少しだけ持ち上げる。
 手首を、軽く弾くような仕草。
 次の瞬間。
 ビャクのナイフの刃が、赤い炎に包まれた。
 燃え上がることはない。
 一瞬、舐めるように走り、すぐに消える。
 だが刃は、わずかに赤みを帯びていた。
 ビャクは右手で主人公の顎を掴む。
 力は強いが、乱暴ではない。
「舌を出せ」
「……はい」
 主人公は素直に舌を出した。
 ビャクは至近距離でその様子を確かめ、低く言う。
「痛いのは一瞬だ」
 囁くような声。
「痛みは、すぐ過ぎ去る。恐れるな」
 刃が、ゆっくりと近づく。
「恐れると、痛みはそこに居座る」
 黄色い瞳が、主人公を射抜く。
「火鼠みたいにな。だらだら、だらだらと」
 刃先が、舌の上に触れた。
「いいな。――動くんじゃないぞ」
 主人公は、不思議と恐れを感じていなかった。
 理由はわからない。
 それどころか、ビャクの獣のような薄黄色の瞳孔を見ていると、胸の奥が静まっていくのを感じた。
 安心、と呼ぶにはおかしい。
 だが、確かにそこには落ち着きがあった。
 ビャクは、ゆっくりとナイフの先端を舌の中央に刺す。
 浅く。
 それから、人差し指の第一関節ほどの長さで、横に引いた。
 一瞬、鋭い痛みが走る。
 だが――
 本当に、一瞬だった。
 ビャクの言った通り、痛みはすぐに過ぎ去った。
 舌に残ったのは、熱と、鉄の味だけだった。

ビャクは主人公から手を放した。
 満足そうだった。
 血の処理も確認もせず、ただ結果だけを受け取った顔だ。
「――これでいい」
 ナイフを軽く振り、刃についた赤を空気に払う。
「お前に印をつけた。これでお前は、もう俺の所有物だ」
 言い切りだった。
「誰かに何者かと問われたら、舌を見せろ。それで話は終わりだ」
 説明というより、運用方法の提示だった。
 ビャクは続ける。
「お前は、この後、何かを失う」
 淡々と。
「それが印の代償だ」
 主人公の顔色を確かめるように、一瞬だけ目を細める。
「声かもしれねえ。味かもしれない。痛みかもしれねえし、視界かもしれねえ」
 どれも同列に扱われている。
「すぐには発現しねえ。ある日、突然だ」
 間。
「だが慌てるな」
 諭すようでいて、慰めではない。
「何かを得るなら、何かを失う。理ってのは、だいたいそうできてる」
 肩をすくめる。
「何を失ったとしても、じきに慣れる。人間ってのはな、だいたい何にでも慣れる」
 そして、少しだけ意地の悪い笑みを浮かべた。
「もっとも――お前さんは、そもそも何も持ってないかもしれんがな」
 主人公は、どう反応していいかわからなかった。
 痛みはもうない。
 舌はまだそこにあり、声も出る。
 だが「失う」と言われた何かが、すでに自分の中から切り取られたような感覚だけが残っていた。
 ビャクは構わず続ける。
「これから、お前は西の街に行く」
 指で自分の胸を叩く。
「俺と一緒にな」
「俺の仕事をしてもらう」
 命令ではない。決定事項だ。
「お前が一体誰なのか」
 一拍。
「本当に記憶がないのか、あるのか」
 黄色い瞳が、まっすぐ主人公を捉える。
「それは俺が審査する」
 その言葉で、この儀式が終わりではないことが、はっきりした。
 これは始まりだった。
 所有された者としての、始まりだった。
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