世界の果ての階段を

kijima13

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1.プロローグ

少年

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朝の光はまだ弱く、廊下の石は夜の冷えを残していた。
 靴底を通して、ひんやりとした感触が伝わってくる。
 遠くで、何かが焼ける匂いがした。
 焦げた匂いではない。油と草と、乾いた木の混じった匂いだ。
 セドは足を止め、見上げた。
 街の中央付近にある、大きな筒状の建造物。
 赤と白と青の層を重ねたそれの、てっぺんから、もくもくと白い煙が伸びている。
 煙は風に流されるでもなく、ゆっくりと、天に向かって積み重なるように立ちのぼっていた。
 その背後を、鳥の群れが横切った。
 数は多い。
 形も色もばらばらだが、まとまりだけは異様に揃っている。
 鳥は鳴いていなかった。
 羽音だけが、遠くで擦れ合うように響き、
 やがてそれも聞こえなくなる。
 気づけば、人の数が増えていた。
 軍服姿の者たちが、一定の間隔で道を行き交っている。
 足並みは揃っていないが、進む速度は不思議と同じだ。
 街は相変わらず、生活感がない。
 店も、呼び声も、洗濯物もない。
 それでも、人だけは確実に増えていた。
 セドは、少し歩いてみることにした。
 街を歩くのは、ここに連れてこられた日以来だった。
 あの日は、状況を把握することで精一杯で、
 風景を眺める余裕などなかった。
 碁盤の目状の道は、どこを切り取っても同じように見える。
 円柱の建物が、無秩序な色で立ち並び、
 高さも間隔も、意味を持っているようには思えない。
 なのに、迷う気はしなかった。
 理由は分からない。
 ただ、今は“ここにいていい”ような気がした。
 教会――時務教会の敷地に戻ると、
 回廊の角で、見覚えのある小さな背中が見えた。
 イオルだった。
 桶と雑巾が足元に置かれている。
 だが、掃除は進んでいない。
 イオルは立ち尽くしたまま、
 床と、壁と、自分の手を、順番に見ていた。
 指先が、何度も擦り合わされる。
 無意識の癖のようで、止めようとしても止まらない。
 セドは、しばらく声をかけなかった。
 朝の静けさの中で、
 少年の小さな動きだけが、妙に目についたからだ。
 やがて、静かに言う。
「イオル」
 少年は、びくりと肩を揺らした。
 一拍遅れて、顔を上げる。
「……あ、セドさん」
 声は明るく作られていたが、
 視線が定まらない。
 床を見る。
 壁を見る。
 そして、セドの胸元あたりで、目を逸らす。
「どうした」
 短い問いだった。
「いえ、別に」
 答えは早すぎた。
 イオルは雑巾を掴み、床に屈もうとする。
 だが、拭こうとしたのは、すでに濡れている石の上だった。
 セドは何も言わず、その様子を見ていた。
 数秒後、
 イオルは小さく息を吐いた。
「……失くしました」
 囁くような声だった。
「何を」
 問い返すと、イオルは一度、唇を噛んだ。
「鍵です」
 その言葉だけが、回廊に落ちた。
 石の床に、音もなく沈む。
 イオルは顔を上げなかった。
 ただ、指を強く握りしめている。
 この建物で、
 鍵を失くすということが、
 どういう意味を持つのか。
 セドは、まだ全部を知らない。
 それでも、
 これは“放っておける話ではない”とだけは、
 はっきり分かった。

「……鍵を、最後に見たのは」
 イオルはそう言い直した。
「使った、というより……
 持っているのを確認した、最後です」
 セドは黙って頷く。
 鍵は使う場所が決まっている。
 そこではない場所で失くしたのなら、
 それは“用途”の問題ではない。
「どこだ」
「階段の、近くです」
 声は低く、短かった。
 言った瞬間、イオルは唇を噛む。
 自分で口にしたことを、後悔している顔だった。
 セドは、その表情を見て察した。
 行くなと言われている場所。
 理由は知らない。
 だが、避けるべきだという空気だけがある。
「なら」
 セドは、ほんの少し考えた。
「私が行こう」
 即断ではなかったが、迷いもなかった。
「だ、だめです」
 イオルの声が、思わず大きくなる。
「そこは……」
「私は、ただの異邦人だ」
 セドは静かに言った。
「ここでの生活もないし、
 何かあっても、状況はあまり変わらない」
 言葉は淡々としている。
 だが、突き放す響きではなかった。
「君が行くより、私の方がいい」
 イオルは、すぐに返事ができなかった。
 それは同意でも否定でもなく、
 どう反応していいか分からない沈黙だった。
 朝の光は、まだ弱い。
 回廊の奥は、相変わらず静まり返っている。
 セドは、階段のある方角を見据え、
 そのまま歩き出した。

階段へ向かう途中、回廊の曲がり角で人影とすれ違った。
 小柄な女だった。青い衣は体に沿って落ち、動きに無駄がない。
 だが、その額にあるものだけが、場違いに強く主張していた。
 青い龍の印。
 セドは一歩で思い出す。
 ――会合の場にいた女だ。
 視線が合う。
 女の目は小さい。
 だが、刃物のように澄んでいる。
 セドは軽く会釈をした。
「どこへ行く」
 声は低く、冷たい。
 体格に似合わず、よく通る声だった。
「部屋に戻るところです」
 即答だった。
 嘘ではあるが、方向は合っている。
 それで足りるかどうか――短い沈黙が落ちる。
 女の視線が、セドの顔から喉、肩、足先へと滑る。
 一瞬だけ、目が鋭くなる。
 だが、すぐに興味を失ったように顔を背けた。
「……そう」
 それだけ言って、歩き出す。
 すれ違いざま、背中越しに一言。
「渦巻鼠がくるよ」
 意味は分からない。
 説明もない。
 女は去っていった。
 歩みはゆっくりに見える。
 だが、気づけばもう遠い。
 数度、瞬きをする間に、
 回廊の奥へと吸い込まれるように消えていた。
 静寂が戻る。
 セドは一度だけ立ち止まり、
 青い龍の印の輪郭を思い浮かべる。
 あの時一言も発しなかった。
 何を考えているのだろう。
 そう考えただけで、思考を切り上げた。
階段の方へ、歩き出す。
階段の前で、セドは違和感に気づいた。
 ――狭い。
 以前は、少なくとも四人は並んで登れそうだったはずだ。
 今は、人が一人通れるのがやっとの幅しかない。
 肩をすぼめなければ、壁に触れてしまいそうだった。
 それだけではない。
 登りだった階段が、下りに変わっている。
 壁だけが、いつものままだった。
 簡素で、装飾がなく、無味無臭。
 まるで「変わっていない」と言い張るために、そこにあるかのように。
 セドは一瞬、引き返そうとした。
 だが、足はすでに動いていた。
 恐る恐る、一歩踏み出す。
 ――ちちち。
 鼠の声のようなものが、どこかで鳴いた。
 セドは立ち止まり、素早く、しかし丁寧に周囲を見回す。
 床、壁、段差の影。
 鍵はない。
 左足を、階段に乗せる。
 ――ちち、ちち。
 今度は、少し遠い。
 右足を続けた。
 その瞬間、音が消えた。
 鼠の声も、外の街の気配も、
 遠くでかすかに感じていた喧騒すら、すべて。
 完全な沈黙。
 あまりにも静かで、
 もし今、咳でもすれば――
 その音が世界の端から端まで響き渡るのではないかと、本気で思えるほどだった。
 一度、戻ろうとした。
 だが、振り返れない。
 理由は分からない。
 体が言うことをきかないわけでもない。
 ただ、「振り返ってはいけない」と、どこかで理解してしまっていた。
 音はない。
 それなのに。
 背後に、
 とてつもなく悪意を持った“何か”がいる。
 確信に近い感覚が、背骨をなぞる。
 冷たい汗が、ゆっくりと首筋を伝った。
 セドは唾を飲み込み、
 意を決して、階段を下り始めた。
 段差は均一だ。
 足取りは安定している。
 それでも、
 一段下るごとに、世界がわずかずつ遠ざかっていく気がした。
セドは、ただ下っていった。
 段を踏み外さないように意識するほど、
 周囲の感覚が研ぎ澄まされていく。
 最初に薄れていったのは、音だった。
 次に、視界――
 すなわち、光。
 暗い。
 さらに暗い。
 どこまでが影で、どこからが闇なのか、区別がつかなくなる。
 それでも階段は続いている。
 不安は強まる。
 胸の奥が、じわじわと締めつけられる。
 だが、後戻りはできない。
 理由は分からないが、確信だけがあった。
 背中に、何かがぴったりと貼りついている。
 触れられてはいない。
 重さもない。
 それでも、離れない。
 ――いる。
 そうとしか言いようがなかった。
 どれほど下ったのか、見当もつかない。
 時間の感覚も、距離の感覚も、とうに失われている。
 不意に、階段が終わった。
 足が、平らな床を踏む。
 仄暗さは変わらないまま、
 セドは狭い廊下に出ていた。
 息を吸った瞬間、異臭が鼻を突く。
 黴の匂い。
 湿った石と、長く閉ざされた空間の匂い。
 風が吹いている。
 どこからか、確かに流れてくる。
 だが――
 音がしない。
 風があるのに、音がない。
 廊下を抜けた瞬間、臭いが消えた。
 黴も、湿り気も、風の気配もない。
 鼻に残っていたはずの異臭が、きれいに断ち切られる。
 ――何も、感じない。
 セドは足を止めた。
 薄暗い。
 だが、闇ではない。
 明るさが、常に揺れている。
 強くなったかと思えば、次の瞬間には弱まる。
 光源が点滅しているのか、
 それとも、こちらの感覚そのものが揺らいでいるのか。
 いずれにせよ、何かを探すには暗すぎた。
 ここが部屋なのかどうかも、はっきりしない。
 ただ、広い。
 足音が吸い込まれる。
 壁の位置も、天井の高さも、測れない。
 仄かに、影が見えた。
 近づくにつれて、輪郭がはっきりする。
 ――棺桶だ。
 一つではない。
 無数に並んでいる。
 どれも、ぴたりと蓋が閉じられている。
 隙間はない。
 蓋の表面に、何かが書かれていた。
 文字だ。
 セドは、それを文字だと理解する。
 だが、読めない。
 話すことはできる。
 他者とのやり取りの中で、少しずつ身につけた。
 言葉も、意味も分かる。
 それでも、文字は分からない。
 誰かに教わった覚えがない。
 学んだこともない。
 ただそれだけのことだった。
 ここに来てから、セドが得たのは会話のための言葉だけだ。
 書かれたものを読む力は、まだ彼の中にない。

視界の端で、何かが動いた。
 小さな影。
 床を這うように、すばやく消える。
 ――小動物。
 鼠か。

光源の点滅が、急に強まった。
 セドは立ち止まる。
 振り返ろうとして――
 一瞬、ためらった。
 それでも、振り返る。
 遠くに、小さな光が見えた。
 一点だけ。
 浮かんでいるようにも、置かれているようにも見える。
 何かは分からない。
 セドは、ゆっくりと近づいた。
 数歩進んだところで、足の感覚に異変が生じる。
 最初は、木の板の上を歩いているような感触だった。
 硬く、冷たく、確かな抵抗。
 だが、それが徐々に薄れていく。
 歩いているのに、浮いている。
 足裏が床に触れていないような感覚。
 足の感覚が、ない。
 それでも、動かしていることは分かる。
 前に進んでいることも、確かに分かる。
 ただ――
 自分の足が、
 本当にそこに存在しているのかどうかが、分からない。
 膝から下が、世界から切り取られたようだった。
 それでも、セドは歩みを止めなかった。
 光は、わずかに強さを変えながら、
 静かに、彼を待っているように見えた。

しかし、行けども行けども辿り着かない。
 距離が縮まらない。
 歩いているはずなのに、世界のほうが後退しているようだった。
 時間が、引き延ばされている。
 一秒が、薄く伸ばされ、
 何層にも重なって、前に垂れ下がる。
 闇が、輪郭を失う。
 セド自身の輪郭も、同じように曖昧になっていく。
 自分が闇の中にいるのか、
 闇が自分の内側に入り込んだのか、分からない。
 やがて、闇そのものと一体化していく感覚に囚われた。
 内臓が、ゆっくりと溶けていく幻覚がよぎる。
 骨の内側から、形が崩れていく。
 痛みはない。
 恐怖も、どこか遠い。
 ただ、実体が失われていく。
 肉体が後ろに取り残され、
 意識だけが、前へ、前へと滑っていく。
 ――進んでいるのは、体ではない。
 そう理解した瞬間だった。
 不意に、頭の奥底で、何かが響いた。
 音ではない。
 言葉でもない。
 揺れだ。
 記憶の断片。
 自分の両手の中に、幼い少女がいる。
 小さな体。
 驚くほど軽い。
 眠っている――
 そう思おうとして、思えない。
 胸が、上下していない。
 抱き寄せる。
 腕の中の重みが、現実だと告げる。
 冷たさが、否定を許さない。
 涙が、溢れた。
 それは、声にならない悲しみだった。
 深く、深く沈み、
 底の見えない井戸のように、静かに胸を満たしていく悲しみ。
 同時に、怒りが湧き上がる。
 激しさではない。
 爆発でもない。
 岩盤の下で、何千年も圧を溜め続けた溶岩のような怒り。
 逃げ場を失い、
 それでも消えずに在り続ける、重く、暗い怒り。
 悲しみと怒りが、絡み合い、
 渦を巻いて、胸の奥で回り始める。
 ――これは、知っている感情だ。
 忘れていたのではない。
 閉じ込めていただけだ。
 セドは、その渦の中心に立っていた。
 名前も、理由も、まだ思い出せない。
 それでも――
 失ったものが、確かにあった。
急に、光源の直前に立っていることが分かった。
 移動した感覚はない。
 到達した、という理解だけが、唐突に脳へ流し込まれる。
 次の瞬間――
 失われていたすべての感覚が、同時に蘇った。
 臭い。
 鼻腔を焼くような悪臭が押し寄せる。
 腐敗と焦げ、湿った土と鉄の匂いが混ざり合い、息をするたびに喉の奥を刺激した。
 熱。
 床が、異様に熱い。
 靴越しでも分かるほどで、足裏に鋭い痛みが走る。
 針で刺されるような感覚が、じわじわと広がっていく。
 音。
 風の音が、鳴り止まない。
 一定ではない。唸り、擦れ、遠吠えのようにも聞こえる。
 空間そのものが、呼吸しているかのようだった。
 視界。
 光源の点滅が止まった。
 あたりが、明るくなる。
 ――明るい、と言っても薄暗いことに変わりはない。
 ただ、それまでの闇と比べれば、相対的に、はっきりと「見える」。
 セドは、光源を見た。
 それは――
 螺旋状だった。
 空中に浮かぶように、ねじれ、巻き上がる光の構造。
 一本の線ではない。
 いくつもの点があり、
 それらが、細い光の線で繋がれている。
 点は、完全な黒。
 光を発していない。
 むしろ、周囲の光を吸い込んでいるように見える。
 その黒い点が、規則性のある間隔で配置され、
 全体として、歪んだ螺旋を形作っていた。
 点と点を結ぶ光の線は、不安定に揺れている。
 生き物の血管のようにも、
 神経の束のようにも見えた。
 点になっている部分は、
 ただの「点」ではないと、直感が告げていた。
 穴なのか。
 核なのか。
 それとも――
 見てはいけない何かなのか。
 風が、螺旋を中心に渦を巻いている。
 床の熱も、悪臭も、すべてがそこへ引き寄せられているようだった。
 ここが、中心だ。
 セドは、そう理解した。
 理解してしまったこと自体が、
 取り返しのつかない一歩であるかのように。
鼠の声は、まだ残っていた。
 耳にではない。
 頭の奥に、残響のように。
 セドは、そちらを向いた。
 棺の並びの一角。
 他と何も変わらない。大きさも、色も、位置も。
 それなのに、そこだけが、妙に近く感じられた。
 近づくにつれ、胸の奥が重くなる。
 開けてはならない。
 だが、行かなければならない。
 理屈ではなかった。
 逃げ道のない理解だった。
 棺の前に立つ。
 蓋はぴたりと閉じられている。
 隙間も、継ぎ目も見えない。
 手を伸ばすまでに、ほんのわずか、躊躇があった。
 これは――
 誰かの眠りだ。
 あるいは、終わりだ。
 指先が、冷たい金属に触れる。
 次の瞬間。
 拍子抜けするほど、簡単に開いた。
 重さも、抵抗もない。
 まるで、最初から開かれるのを待っていたかのように。
 中を覗く。
 鼠はいない。
 骨も、布も、名残もない。
 あるのは――
 ただ一つ。
 鈍色の金属製の鍵。
 光を反射しない、くすんだ色合い。
 装飾はなく、形も古い。
 だが、異様に「正しい」存在感を放っている。
 セドは、それを見た瞬間、分かった。
 これだ。
 理由は言葉にならない。
 どこに使うのかも、何を開くのかも分からない。
 それでも、これは――
 失われていたものだ。
 セドは、鍵を拾い上げた。
 思ったよりも、重い。
 だが、その重さは不快ではない。
 むしろ、手の中に現実が戻ってくる感覚があった。
 鍵を握った瞬間、背後の気配が、わずかに薄れる。
 沈黙は、まだ完全ではないが、
 先ほどのような、世界全体を押し潰す圧はない。
 鼠の声も、もう聞こえなかった。
 セドは、棺を閉める。
 今度は、音がした。
 小さく、確かな音だった。
 彼は、鍵を離さなかった。
 ――これは、返すべきものだ。
 それとも、守るべきものか。
 まだ分からない。
 だが少なくとも、
 見なかったことには、できない。
 セドは、薄暗い空間の中で、初めて自分の意志で、進む方向を選んだ。
鍵を見る。
 あまり大きくはない。
 掌にすっぽり収まる程度だ。
 表面には彫刻があった。
 鼠だ。
 牙を剥いているのか、笑っているのか分からない表情で、尾が不自然に長い。
 裏返す。
 そこには、刻まれた印。
 大きな丸が三つ。
 その傍らに、小さな丸が一つ。
 意味は分からない。
 だが、胸の奥で、ぴたりと合う感覚があった。
 ――ここだ。
 不足していた場所。
 あって然るべきもの。
 セドは、鍵を握りしめたまま、螺旋へと近づく。
 近づくにつれ、螺旋が動き出す。
 静止していたはずの線が、めまぐるしく回転し、
 点が軋むように揺れ、配置が崩れていく。
 空間が、歪む。
 熱が生まれる。
 皮膚が焼かれるほどではないが、確実に「熱い」。
 セドは、鍵を――
 鍵がかけられているはずの、空間そのものへ差し込んだ。
 その刹那。
 全身に、激痛が走る。
 息が、できない。
 胸が締め潰され、肺が動かない。
 身体が勝手に震え始め、止まらない。
 吐く。
 胃の中のものが、喉を焼きながらこぼれ落ちる。
 膝が折れ、倒れる。
 脳が、揺れる。
 頭蓋の内側で、何かがぶつかり合っているような感覚。
 そして――
 舌。
 舌が、燃えるように痛い。
 声にならない叫びが、喉の奥で弾ける。
 舌の印が、光った。
 白でも赤でもない。
 強いて言えば、熱を帯びた影のような光。
 それに反応して、螺旋が暴れる。
 膨らみ、縮み、
 引き伸ばされ、折れ曲がり、
 形を保とうとしては失敗する。
 点が、線が、空間そのものが、
 耐えきれないというように震える。
 そして。
 強烈な発光。
 視界が、白に塗り潰された。

気がつくと、セドは階段の入り口で倒れていた。
 冷たい石の感触が、背中にある。
 天井は見慣れたものだった。装飾のない、あの廊下の延長線上の天井。
 「……セド?」
 近くで声がする。
 かすれた呼びかけ。
 何度も、同じ調子で繰り返されていた。
 「セド……」
 瞼を開く。
 視界の端が揺れて、焦点が合わない。
 しばらくして、少年の顔が見えた。
 イオルだった。
 目が合った瞬間、イオルの表情が崩れる。
 張りつめていたものが、音を立ててほどけたようだった。
 「……よかった……」
 声が震えている。
 なぜここに戻ってこられたのか。
 どうやって、この階段の前まで辿り着いたのか。
 セドには、分からなかった。
 覚えているのは、光と、痛みと、
 世界が一度、裏返ったような感覚だけだ。
 ただ――
 右手が、妙に重い。
 視線を落とす。
 鍵を、握っていた。
 鈍色の金属。
 指の形に合わせて、しっかりと食い込んでいる。
 セドは、力なく笑った。
 そのまま、鍵をイオルの方へ差し出す。
 イオルは、それを見るなり、息を詰まらせた。
 泣き出しそうで、それでも泣かない、奇妙な顔になる。
 「……ありがとう……」
 笑っているのか、泣いているのか、分からない表情だった。
 セドは、ゆっくりと身体を起こそうとして、
 その途中で力が抜けた。
 「……ひどく、疲れた」
 正直な感想だった。
 イオルは何も言わず、セドの肩に腕を回す。
 小さな身体だが、思ったよりもしっかりと支えてくれた。
 二人で、ゆっくりと歩き出す。
 階段から離れ、
 装飾のない廊下を抜けて、
 元の部屋へ。
 背後で、階段は何事もなかったかのように沈黙していた。
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