朝顔連歌 ときわ野

月岡 朝海

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 あさがおの その日のあかね 今日までに
 我は忘れず 間なくし思へば
 


 瞼を開けると、櫺子の幅で切り揃えられた仄明るさが眸に入った。その窓辺には、青々とした葉と蔓を茂らせる鉢植えがある。寅時の微かな光へと向かって、朝顔の蕾は今まさに、真っ白な花を開こうとしていた。
 それから間を置かず、廊下を渡る足音が妓楼の二階に響き始める。例に漏れずこの部屋の障子の前にもそれは届き、屏風の前で音を止める。そして提灯の灯と共に顔を出すと、隣で寝ている敵娼にぶんさま、と呼び掛けた。約束の時刻に迎えに来た、茶屋の若い者である。馴染み客は、ああモウそんな時刻かい、と渋々起き上がる。寝ていても直ぐに起こす様から、茶屋の若い者は「消炭」と呼ばれ嫖客から煙たがられている。けれど今日の敵娼は聞き分けの良い方だったので、消炭の言葉に駄々を捏ねることもなく、帰りの身支度を始めた。
 座敷持の女郎衆の雑用をしている芥子禿が、水の張ったうがい茶碗を持って来た。顔を洗い口を濯いだ敵娼に、歯磨きの為の長い房楊枝を手渡す。使い終えたそれを二つに折りうがい茶碗の盆の上へ置いたのを見て、屏風の上に掛けてある、裏地に龍の画が施された羽織を取って渡す。向こうが帯を締める間に燻らせた煙管を、マァお上がりなんし、と差し出した。浅草寺の明け六つの鐘が静かな部屋の中に響く中、ひとつ溜め息を吐いて、物憂げさを眸に乗せる。
「そねえな顔をすんな、ときわ。また近間に来るサ」
 敵娼から引き出したかったその言葉を聞いても尚、表着の袂で顔を覆って見せる。約束が欲しいからではなく、真実に別れが悲しいのだと、思って貰う為に。

 身支度を終えた客たちが、大階段を下って見世の出入り口へ向かう。まだ戸は開いておらず狭い潜り戸から出て行くので、階段下は混雑している。その中でも客の着物の袂に縋りつくもの、酒宴の付き合いで来た客に「次は一人で来なんし」と囁くもの、様々な遊女の手練手管が繰り広げられている。皆此処が稼ぎ時だ。暮れの工面の為に、次の細見で位を上げる為に。
 ときわ野も馴染みを潜り戸まで見送り、二階の自分の部屋へと戻る。他の手管を台無しにしないよう、馴染みが帰っても寂しげな貌は崩さない。一息吐けるのは、自室の障子を閉めた後だ。文月の日差しは既に眩しくなり始めていて、ときわ野は目を細めた。窓辺の白い絹のように艶やかな朝顔は、その陽を全身に浴びながら、目一杯花弁を広げていた。
 この朝顔の種をくれたのは、隣室の突出ししたばかりの若い座敷持、春糸はるいとである。二人で白湯を呑みながら、世間話をああだこうだと喋ることも少なくない。煮豆のお裾分けのお礼にと何粒か手渡された種は、出入りの花屋から貰ったのだという。季節柄新しい花が欲しいと思っていたところだったので、おかたじけよ、と有難く受け取った。

 その昼見世で登楼した客の顔を見て、ときわ野は心底驚いた。何故なら、つい先刻隣室の春糸との客入りの話で、「気に掛かる客」として挙げた客人だったからだ。
 新次郎しんじろうと名乗るその客は、金払いが悪い訳でも酒癖が悪い訳でもない、きちんと三回登楼して馴染みとなった、寡黙な顎の細い男である。ただひとつ他の客と違うのは、初めて登楼した半年前から今まで、一度も床入りが無いということだ。
 吝嗇な店者や花街が初めてという客が、焦るばかりに上手く行かないというのは、間々あることだ。けれどこの新次郎という客は、二つ枕で布団に入っても一向に此方の躯へ触れようとしない。それどころか、口を吸うのも顔を背けてやんわりと嫌がるのだ。
 ときわ野は初め、不本意ながら付き合いか何で花街へ来る羽目になってしまった、妓嫌いの男なのかと思った。けれど連れ合いが居る様子は無く、何時も一人で茶屋へ来るらしい。夜のような酒宴が無く安上がりな昼見世ばかりに来るとはいえ、この客はこの半年間、金二分を払って文字通りただ寝に来ていることになる。
 気の持ちようで、まらが使えない塩梅なのだろうか。それとなく尋ねてみても詳しくは答えてくれず、そういった話自体を余りしたがらない。
「江戸は暑くなるのが早いな。まだ梅雨にも入らぬのに」
 けれどずっと此方が話し掛けねば黙っているかと言えばそうでもなく、他愛ない時候の話を零したりもする。ときわ野が、大門の内に居る間は故郷くにのことは忘れておくんなんし、と女郎の決まり文句を返すと、向こうは少し押し黙った後ああ、と頷いた。そんな世間話には、淡々と応じるのだった。
 先日茶屋の女将に聞いたところによると、新次郎は初めて登楼する際、自らときわ野を所望したのだという。引付座敷で夫婦固めの盃を交わした時、眉根に皺を寄せ、戻す前の高野豆腐のように固まっていたというのに。この客人は、わっちとの逢瀬に何を望んでいるのでありんしょうか。ときわ野の悩みは、深くなるばかりだった。
「新さま、朋輩から朝顔の種を貰いんしたよ。鉢に植えんしょう」
 そんな思いは露とも出さず、ときわ野は黒い礫を見せながら微笑んでみせた。この腹の中の見えぬ客人の心に、どんな些細なことでも構わないから引っ掛かって欲しい。新次郎が静かに頷いたので、二人で一階に下りて物置から適当な鉢を出し、裏庭へ出て樹の根元の土を掬い上げる。そして部屋へ戻り、鉢の中に二粒ずつ種を蒔いた。鉄瓶で水を回し掛ける新次郎の横顔は、何時もより少し嬉しげに微笑んでいるように見えた。
「お前も毎夜の勤めだ。今ぐらい眠るといい」
 その日も新次郎はそう言って背を向け、布団を被った。そして茜差す七つ時、何時ものように清い身の儘見世を後にしたのだった。
 その種は今や青々と葉や蔓を茂らせ、幾つもの花を咲かせた。春糸の部屋の花は鮮やかな紺青色だったのだが、何故この種は真っ白な花になったのだろう。清い新次郎の手で蒔いたからだろうか、と考えて、ときわ野は一人で小さく笑った。



 暮六つになった吉葉よしば屋の一階に、縁起棚の鈴がジャラジャラと鳴る音が響く。それを合図に、新造は三味線で清掻きを始める。二枚櫛を挿し仕掛けを羽織り、身支度を整えた女郎衆は、大階段を下り一階の張見世部屋へと向かう。鳳凰の画が壁に描かれたその部屋で、皆決まった場所に腰を下ろしていく。毛氈の真ん中に座るのは、金一両の昼三で、見世伝統の名を持つ吉乃井よしのい花魁。それ以外も中心に座すのは、皆昼三と呼ばれる花魁衆。金二分の座敷持であるときわ野は、籬を背にした奥の角の席と決まっている。目の前に居るのは花魁衆だが、此方の鼻先で見えない明らかな線が引かれているのは、肌でよく分かっている。
 張見世をしていると不案内な素見らに「お職はどれだ」と訊かれるが、この張見世部屋にお職である筆頭花魁・谷川たにがわは居ない。張見世が始まる前、横兵庫に三枚重ねの孔雀の仕掛けを羽織った谷川花魁は、余人を寄せ付けぬ空気の中眉ひとつ動かさず道中をして、仲之町へと向かった。今は茶屋の揚縁で煙管を燻らすか、馴染みの相手と軽い酒宴をしているだろう。
 ときわ野と谷川は、同い年の同輩だ。この吉葉屋へ売られて来たのはときわ野の方が半年程早いが、谷川を一目見た刹那から、嗚呼これは何れ花魁になる子だ、と直感した。その切れ長のみどりの眸は、当時から気圧される程の力強さを持っていた。
 そして直感を裏打ちするかのように、谷川――当時の禿名わかねは、同輩の出世頭となった。筆頭花魁付きの双禿から内証で諸芸を教え込まれる引込禿、客を取らない振袖新造を経て、初めから昼三として細見に名を連ねる者だけに許される、道中の突出しを行った。見世と茶屋の前に堆く積まれた蒸籠、客からの総花、仕着せの着物で手打ちする芸者衆、七日間に亘る昼間の華やかな道中。それは見世を挙げての慶事だった。
 けれど同輩の中には、それを見世の贔屓だと感じて快く思わない者も居た。谷川の悪口や嘘か真か分からぬ噂話は、よく回って来た。外から見れば卑しいと捉えられるかも知れないが、ときわ野はそう思っていなかった。この吉原という世界で生きるなら、出世を望む方が道理だからだ。そして上手く行かない鬱積が、同じ年月を同じ見世で過ごした出世頭へ向くのもまた、道理なのではないか。首を挿げ替えた自分の姿が、ありありと思い浮かぶのだろう。
 けれどときわ野は、成る人が成るべくして成ったとしか思っておらず、そんな風に悔しさも嫉妬も覚えない方が、女郎として出来損ないなのではないかと感じていた。

 例えば皆身請けされたい、外に出たいとお題目のように口にするが、大門の外は決して極楽ではない。その外の世界で行き詰ったから、此処へ売られて来たのではないか。結局借金相手が見世から身請けしてくれた旦那に替わるだけだ。添い遂げたい色や待っている家族が居るなら別かも知れないが、自分にとっては何処に居ようと同じことだ。
 出世争いも色が云々だとかも、総て別の世界の話のような気がしている。よく、吉原は苦海だと言われるが、自分はその海の音も光も届かぬ底の泥の中に、独りで棲んでいるかのようだ。
 余り心が動かないものだから、悔しくもなければ、誰にでも同じように微笑むことも出来る。それは傍から見ると「穏やか」だと捉えられるらしい。この気性が役に立つのなら、それはそれでいいのかも知れない。
 今宵も江戸町一丁目の通りが沢山の客で賑わっているのが、紅殻格子越しに見える。まさに不夜城と冠するに相応しい。ときわ野は大行燈の明かりをぼんやりと見上げながら、煙管の煙を吐いた。
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