朝顔連歌 春糸

月岡 朝海

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 その晩は妙に寝付けず、大引けの拍子木が鳴って半時もした頃、手水へ立とうと朋輩と共に眠る五布布団から静かに抜け出した。眠れないのは、明日が女郎としての一本立ちである突出しの日だからであると、己れでも分かっていた。つまりそれは吉原に売られて来てからこっち、ずっと過ごしていた吉乃井の部屋で迎える最後の晩だ。

初浪はつなみ
 屏風の向こうから、よしのから変わった振新名を呼ぶ姉女郎の声が聞こえた。よしのと違いこの名に馴染むことはなかったが、思えばこの名で呼ばれるのも今日が最後なのだ。明日からは春糸という源氏名になる。しかし挨拶は夜見世前に済ませた筈なのに何事だろう、最後に何か粗相をやらかしたのかと内心不安になりつつも、三つ布団の脇に立てられた屏風の前へ向かう。緋縮緬の寝間着姿の吉乃井は静かな貌で屏風の陰から出て来ると、コウ、と隣の座敷へと誘った。
 座敷は灯りを消されても尚、煙草と酒の匂いが漂っている。けれど人けが無い為か静謐の中にあり、何だか歪に思えた。櫺子の間から差し込む庭の月の光は、吉乃井の顔を薄らと照らす。
「姉さ、どうしんした」
「お前は、ほんに……」
 吉乃井はそう言いながら手を伸ばし、此方の頬を撫で始めた。なんだか初めて逢った日が思い出され、主人の愛撫を受ける猫の様に眸を閉じる。
 次の刹那、ふと唇に肌のような温もりを覚えた。思わず瞼を開けると、吉乃井は重ねた唇をゆっくりと離しながら、その口許に薄らと笑みを浮かべていた。紅く艶やかな唇に、月の光が射していた。
 全身の肌が熱を帯びるのを感じながら、これこそがまことの水揚げだ、と思ったのだった。



 仲之町の茶屋に吊るされた玉菊灯籠も、そろそろ片付ける文月の晦日が迫りつつある。そんなある昼見世前、花をお取替えしますと言って障子を開けたのは、また花売りの清次だった。
「あの種、蒔いて下すったんですね」
 出窓で立派に花を付ける鉢を見ながら、清次は顔を綻ばせた。
「あい、綺麗に咲きいした、おかたじけよ」
 出入りの花売りに手管の笑みを返すと、清次は神妙な顔付きをして座敷から春糸が座る屏風の前まで歩み寄った。
 どうしんしたと言おうとした刹那、清次は口に吸い付いて来た。丁度廊下側の障子は閉めており、屏風の影になって誰からも押し倒された姿が見えない。こんなときはどういう貌をすればいいのか知らない。春糸が戸惑っている内、向こうは着物を左右に剥いで乳に吸い付き、慌てて裾を割ってまらを捻じ込んで来た。見上げるとその顔は泣きそうに歪んでいたので、思わずはだけた胸に抱きしめた。
 早々に果てた後、下帯を直した清次はもう萎み始めた朝顔に目を遣りながら春糸、と名を呼んだので、表着を羽織り直した春糸が顔を上げると、向こうは徐に紺青色の朝顔の蕾を引き千切った。
「こうすっと綺麗な色水さ」
 清次は横に置いてある水の入った茶碗にその切り口を付け、得意げに眉を上げる。禿の頃からよくやっていた遊びを教えられた春糸は、青く染まった色水の中の千切れた朝顔を呆然と見詰める。あい、と絞り出した声は、己れでも驚くほど気の抜けたものだった。

 その後の昼見世ではどうしても吉乃井の顔が見たいと思ったが、居続けの客がいて張見世には来なかった。部屋の中には何時もと変わらずゆるりとしたものが漂っているが、春糸は己れだけがその中から切り取られたかのような心持ちになっていた。
「どうしんした、春糸さん。貝合わせでもしんすかえ」
 近くにいたときわ野が、穏やかに話し掛ける。このひとの気性が、今はとても身に沁みる。あい、と言って、二人で内側に金箔を貼った公家の男女が描かれた貝殻を並べていく。
 その時不意に、入口の見張りである妓夫がときわ野さん、と呼んだ。見ると茶屋を通さない直きづけの客が来たようだった。直きづけの割にはにやつく素見くずれでも、粋がる半可通でもなく、物憂げな目をした顎の細い男だった。
しんさま……」
 客人の顔を見たときわ野は、嬉しさと安堵の混じった貌で、口元を綻ばせた。どうやら馴染みであるらしい。そしてそれを見た春糸は、ぴんと来てしまった。この御仁が、以前言っていた「色ではないが気になる客」なのではないか。ときわ野は話をしていた時と似たような目をして、客人を見詰めている。でもそれは、女郎の許に色が来た時のものと違いが無かった。
 色々言っていたが、結局惚気を当てられただけだったのか。清い身で色だとは、なんとまぁ涙が出るほど粋な話だ。春糸は心底馬鹿馬鹿しく、また冥い気持ちに陥った。



 それからはもう朝顔を見るのもいたたまれず、初めて水をやるのを怠ってしまった。それでも気は晴れず、昼見世前にとうとう吉乃井の部屋へと向かった。この春まで春糸も寝起きしていた、三間続きの裏座敷だ。
「モシ、姉さ」
 春糸の顰めた声の呼び掛けに応えて、吉乃井は障子を開けてくれた。部屋の内は吉乃井の好きな香の匂いが漂っていて、懐かしく落ち着く反面、目頭が少し痛くなる。中途半端な刻の来訪者を禿らは不思議そうに見詰めるが、それを気にすることもなく、吉乃井は驚きを浮かべる眸でどうしんしたと問い掛ける。ちょいと姉さの顔が見とうおざんして、と返すと、向こうは優しく笑った。
「良かった、これを渡そうと思っていんしたよ」
 そう言いながら吉乃井は、定紋蒔絵の重ね箪笥から帖紙の包みを取り出して、妹女郎へ手渡した。開けてみるとそれは昔よく花魁が着ていた、あの紺青色の浴衣だった。春糸は心底驚いたが、先達ての朝顔の種のお礼とのことで、中には手紙も入っていた。

 花の色は 散りにし枝に とまらねど 移らむ衣に 浅く染しまめや

 それは、源氏物語の朝顔の君になぞらえた和歌であった。花の色は、この衣に――。春糸は堪らず、吉乃井の胸に飛び込んで嗚咽を漏らした。どうしんした立派な座敷持がと言いつつ、吉乃井は震える妹女郎の背を撫でる。ちゃんと言葉にして伝えたいと思うのだが、頭の中でそれを紡ぐよりも早く、涙が溢れ出てしまう。
「――年季が明けんけど、禿に戻るかえ」
 吉乃井は、耳元で小さく囁いた。



 八月の朔日は八朔といい、吉原の大紋日のひとつである。家康公の江戸入りに由来し高橋という太夫が白無垢を着たことに倣い、この日はどの見世でも皆、小袖も仕掛けも白無垢とする。新造や禿まで白無垢で揃えた道中は、何時もの紋日とも違う神々しさを纏っていると、客人や素見らだけでなく妓楼のものまでも感じている。
 鏡には、白無垢を着た島田の己れの姿が映る。数少ない馴染みとなってくれた、水揚げの敵娼でもある薬種問屋の隠居が、仕立ててくれたものだ。襟元から覗く赤い襦袢が、女郎となったことを噛み締めさせる。今日は隠居も登楼する予定なので、この姿をしっかりと見せて丁重に礼を言わねばならない。
 けれど春糸の頭の中には、吉乃井の禿に戻るかえ、という言葉が、何度も木霊して離れないのだった。姉さ、姉さ――。朝顔の紺青色や艶やかな唇の赤が目の中で揺らめき、春糸の蟀谷は熱くなる。そして道中が出て張見世が始まるまでの僅かな時間、春糸は白無垢を纏った儘、とうとう吉乃井の座敷へと向かった。

「春糸さん、どうしんした」
 其処には横兵庫に白無垢で縹色の帯を締めた、去年までと変わらぬ美しい姿の吉乃井が居た。姉女郎は訪ねて来た妹女郎を、人払いした座敷へと通した。此処は姉さが口付けてくれた場所だ。そこで禿に戻りたいと告げるとは、何たる偶然なのだろう。春糸は宿縁を感じずにはいられなかった。
「――姉さ、あっちは姉さの禿に戻りたいでありんす」
 思いの丈を、震える声で口にする。目に涙が溜まっているのが、己れでも分かる。
 けれど、その言葉を聞いた吉乃井の眸からはだんだんと熱が消えて行き、気付けば底冷えのするようなものへと変わっていた。
「そうしんすか」
 小さく呟いた後、吉乃井は春糸の方へと手を伸ばした。あの月夜を思い出しながら春糸が眸を閉じようとすると、その細く白い手は頬ではなく首へと絡み付いた。ぐっと力を込められ、声も出せぬ驚きと苦しみの中で春糸の目の前から色が消えて行く。総ての景色が、黒く滲み始める。姉さ、何を、と叫びたい声も、白い指の力に潰されて行く。
 嗤うように端が歪む玉虫色の唇だけが、その中に浮かんでいた。



 その儘気を失った春糸を部屋まで運んでくれたのは菅原らしいのだが、どうもその辺りの覚えがない。気付いたのは翌朝の卯の刻で、八朔という大紋日に見世に出れず折角登楼した薬種問屋の隠居らの相手をすることが出来なかった為、内証は激怒した。
 春糸は若い衆に引き摺られ、一階奥の行燈部屋へと押し込まれた。此処は行燈等を仕舞っておく窓の無い暗い部屋だが、揚げ代を払えなかった客が閉じ込められたり、粗相をした禿や女郎が罰として折檻を受ける場所でもある。禿の時分は些細な失敗で入れられたこともあるが、女郎となってからは初めてだ。怯える春糸の耳に、襖を乱暴に開ける音が刺さる。見ると、鬼のような形相をした遣手が立っていた。そしてどんな言葉も一切聞き入れられずに散々打ち叩かれ、最後は縄で縛って放置された。
 翌日の明け方、漸く赦され傷だらけの体で部屋へと戻った。半分萎れた窓辺の朝顔が、白々と明け始めた中で美しく映えていた。
それを見た春糸の目からは、一筋の涙が零れたのだった。
 


 春糸、と馴れ馴れしい声で呼んで、性懲りも無く清次の手は肩に触れようと伸びる。その手を躱してにっこりと微笑みながら、春糸は窓辺の朝顔の鉢に鉄瓶で水をやる。今年の種も鮮やかな紺青色になったのだが、不思議である反面、当然という気もしていた。何故なら、「わっちの姉さの化身」なのだから。
 鉢の中には虫に食われたのか、咲いた儘首の様にぽとりと落ちている花があった。それを指先で、愛おしく撫で摘み上げる。
「花の色は……」
 紺青色の朝顔を唇に当てながら、春糸は小さく呟いた。


(終)


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