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弐
弐
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八ツの昼見世は人通りもまばらで、たまに素見や浅葱裏の武左が通り掛かるだけだ。張見世に出ている女郎らは新造と百人一首をしたり、通り掛かった易者に占ってもらったり、柱に凭れて馴染みの客に文を書いたり等して時を過ごす。今日も日差しが眩しいので、皆余計にだらりとした様子になっている。
春糸は、手許に置いた源氏物語を繰り始めた。振新になる頃、読んでおいて損はないと姉女郎の吉乃井から貰ったものだ。何となく目に留まるのは、何時も六条御息所が葵上の許に生霊となって現れるところだった。呪い殺したいほど憎い相手がいる訳ではないが、きっと魂だけでも自由になれるのが羨ましいのだろう。
歌麿の画に、大名の女中が駕籠で迎えに来るところを夢想する、扇屋の花扇が描かれているが、わっちならどうかと考えてみる。自由になったら何処へ飛んで行きたいか。多分、御殿女中の駕籠が向かう先ではない。
千鳥が飛び立つ格子越しの空を、春糸は細めた目で見上げた。
今宵は谷川花魁の馴染みの大尽が惣仕舞を付け、吉葉屋を丸々一軒買い切ることとなった。二ヶ月ほど前放蕩者と噂の幕臣の義兄に連れられて来た、某藩の藩主だという。けれど此方は義兄と違うのかはたまた谷川の手練手管の加減故か、今回が初めての惣仕舞である。
二階の座敷を隔てる襖や障子を全て開け放ち、ひとつの大広間となった座敷の中に吉葉屋の総ての遊女、新造、禿、抱えの芸者や太鼓持ちも揃い、大酒宴が繰り広げられている。禿の時分から何度か見た光景だが、総ての花魁や女郎らが一堂に会すこの様は、何時も壮観である。中心に座すのは勿論惣仕舞を付けた藩主と、お職の谷川花魁。後ろには返礼として、立派な枝振りの松の台の物が置かれている。藩主は上機嫌で、芸者の三味に合わせて滑稽に踊る太鼓持ちに、手拍子を打っている。その傍らでは、谷川付きの振新や禿らが水引を掛けて沢山の祝儀を作っている。
亡八や内儀に促され、藩主はゆっくりと立ち上がる。そして渡された沢山の小菊紙を、扇子の風に乗せてぱあっと座敷の中にばら撒き始めた。その途端、新造も若い衆も料理人も芸者も太鼓持ちも、我先にとその紙に群がり始めた。この紙花は、後で祝儀の一分金と替える為のものなのだ。花魁衆は足許に飛んで来たのを拾うくらいだが、座敷持の春糸は有り難くその群れに加わった。花魁以下の身分でぼうっとしているのも失礼になる。
何枚か懐に入れたところで少し逆上せた気がしたので、風に当たろうとそっと中庭側の廊下へ回る。すると石灯籠や木を配した中庭に面する太鼓橋の上に、姉女郎である吉乃井の姿が見えた。そして一人ではなく、その隣には朋輩の菅原も立っていた。二人で何か和やかに話している様子だ。
春糸は居ても立っても居られなくなり、手水の振りをして二階から抜け出した。表の大階段ではなく厠へ向かう裏手の階段から回って、一階へと下りる。見世の女郎や客人、茶屋や出入りの者等で何時も人の往来の多いロの字型の廊下は今日は静かで、人影が二つだけ見えている。
「オヤ、姉さに菅原さん」
太鼓橋に出た春糸は、偶然のような貌で驚いてみせた。二人も疑わず、オヤ春糸さん、と返す。さわさわとする胸を鎮めつつ、昼三が惣仕舞の途中にいいんですか、と尋ねてみるが、吉乃井は今宵の主役は谷川さんさ、と静かな貌で言って、二階の座敷をちらりと見上げるだけだった。見世や周りは吉乃井を次の筆頭候補として、言外に谷川と競わせたがるが、本人は昔から気にしていない様子だった。
「こうも月が綺麗なんだ、ちっとばかしね」
そして言葉を継ぎ足す。見上げると中庭の四角い空に、ぽっかりと白く輝く月が浮かんでいる。お二人は何の話かえ、とも訊いてみたが、吉乃井はただの酔い覚ましだと言って夜風に目を瞑り、菅原はあっちも手水帰りさ、と答えるだけだった。
吉乃井は不意に目を開けると、春糸と菅原を静かに見つめた。
「ほんに二人とも、立派になりんしたな」
島田や貝髷に結い、竹や扇子を散らした夏衣装に前帯を垂らした春糸と菅原を見て、感慨深げに吉乃井は目を細める。翻ってみると、双禿だった二人が一本立ちして吉乃井の部屋を出て以来、三人が集うのは初めてのことだった。
けれど春糸の内心は複雑だった。頭の中には昔の思い出が過る。
「よしのどんは何時も姉さを観音様かのように見上げておりんすが、そないに姉さ一筋でこの先どうしんすか」
とある朝、廊下の拭き掃除をしているとき、唐突に菅原――当時の禿名、はぎのから尋ねられた。苛立ちながら何とえ、と訊き返す。
「姉さも女郎さ」
向こうは絞る雑巾に目を落とした儘、悪びれもせずそう言葉を継ぎ足した。言われた方はむっとして、それから暫く口を利かなかった。
朋輩はその頃からそうやって情の薄い性質で、遣手や番新に叱られなければ掃除も使いも手を抜くし、泣いたところも見たことがなかった。そんな塩梅だから双禿上がりなのに部屋持になったのではないかと、意地悪く思ってしまう時もある。
そんなことを言っていた癖に、菅原は今も姉女郎の隣で笑みを浮かべている。春糸は朋輩の気が知れなかった。けれど少し嬉しげな吉乃井にそんなことを告げられる筈もないので、春糸も調子を合わせて微笑む。相変わらず横兵庫の似合う吉乃井の美しい横顔を間近で見るのは久し振りなので、それだけでもいい。
また紙花が撒かれ始めたのか、二階は俄かに騒がしくなる。その喧騒を背に、三人は暫し四角い空を見上げた。
前の晩客が付かなかった春糸は、妓楼の表戸が締まる引け四つ過ぎには独り寝をした。けれど周りの部屋の後朝の手管で明け六つに目が覚めてしまったので、もそりと床から起き出した。ふと窓辺の鉢に目を向けると、紺青色の朝顔の蕾が櫺子越しの仄かな朝日に向かってまさに花を開こうとしているときであった。春糸は愛おしむような心持ちで、湯呑に汲んだ水をさっと土に回し掛けた。
その時、不意にばたんと乱暴に座敷続きの襖が開き、何だこの部屋は辛気臭えと悪態を吐く濁声が耳を劈いた。振り返ると、足元の覚束ない酒臭い息の酔客が次の間の入口に立っていて、お前もあぶれもんならこっちへ来ねえか、と腕を掴まれた。何処かの花魁に振られた店者辺りだろうと察しはついたのだが、本来こういった客人を宥める役である筈の二階廻しが何かしらで捕まっているのか、一向に姿を見せない。春糸は内心焦りながら、お客人、後生さ、と繰り返すしかなかった。
「あっちの妹が、何かしいしたか?」
すると刹那にすらりと障子が開き、胴抜きに表着を羽織った姿の吉乃井が静かに微笑んでいるのが見えた。ただその口許とは裏腹に、眸の中は全く笑っていない。花魁に気圧された酔客は、イヤ、マァ等と零しながら、あっという間に尻尾を巻いて部屋から立ち去った。姉女郎の、余人を寄せ付けぬ気高さ。春糸は久々に近くで見るその姿に、目頭が熱くなるのを感じていた。
明け六つの後朝のせわしさから切り離されたような部屋の中で、姉妹は静かに視線を交わしていた。けれどふと、吉乃井の目が出窓の方へと逸れた。
「良い色の朝顔でおすな」
そう言いながら、吉乃井は朝日に向かい咲き始めた紺青色の朝顔の花弁を、指先でそっと撫でる。何処か遠くを見ている様なその貌は、翻ると禿の頃掛け軸の瀧の色を見ていたときと同じであると気付いたのだった。そしてそれはまた、姉女郎が昔よく着ていた浴衣の紺青色ともよく似ていた。ああだからあの出店で目に留まったのかと、春糸は今更ながらに得心したのだった。
ふと思い至った春糸は、徐に箪笥の抽斗を開けた。
「姉さ、コレを」
中から取り出したものを、向こうの手に渡す。吉乃井が小さく畳まれたその包み紙を開いた中に入っていたのは、鉢に蒔き切れなかった朝顔の種だった。
「オヤ、おかたじけよ」
受け取った吉乃井はにっこりと微笑んだ。あの花売りのお節介が却って役に立って良かったと思う反面、目の前の姉さの唇が昨夜の名残で玉虫色をしていることに少し心地が悪かったのだった。
春糸は、手許に置いた源氏物語を繰り始めた。振新になる頃、読んでおいて損はないと姉女郎の吉乃井から貰ったものだ。何となく目に留まるのは、何時も六条御息所が葵上の許に生霊となって現れるところだった。呪い殺したいほど憎い相手がいる訳ではないが、きっと魂だけでも自由になれるのが羨ましいのだろう。
歌麿の画に、大名の女中が駕籠で迎えに来るところを夢想する、扇屋の花扇が描かれているが、わっちならどうかと考えてみる。自由になったら何処へ飛んで行きたいか。多分、御殿女中の駕籠が向かう先ではない。
千鳥が飛び立つ格子越しの空を、春糸は細めた目で見上げた。
今宵は谷川花魁の馴染みの大尽が惣仕舞を付け、吉葉屋を丸々一軒買い切ることとなった。二ヶ月ほど前放蕩者と噂の幕臣の義兄に連れられて来た、某藩の藩主だという。けれど此方は義兄と違うのかはたまた谷川の手練手管の加減故か、今回が初めての惣仕舞である。
二階の座敷を隔てる襖や障子を全て開け放ち、ひとつの大広間となった座敷の中に吉葉屋の総ての遊女、新造、禿、抱えの芸者や太鼓持ちも揃い、大酒宴が繰り広げられている。禿の時分から何度か見た光景だが、総ての花魁や女郎らが一堂に会すこの様は、何時も壮観である。中心に座すのは勿論惣仕舞を付けた藩主と、お職の谷川花魁。後ろには返礼として、立派な枝振りの松の台の物が置かれている。藩主は上機嫌で、芸者の三味に合わせて滑稽に踊る太鼓持ちに、手拍子を打っている。その傍らでは、谷川付きの振新や禿らが水引を掛けて沢山の祝儀を作っている。
亡八や内儀に促され、藩主はゆっくりと立ち上がる。そして渡された沢山の小菊紙を、扇子の風に乗せてぱあっと座敷の中にばら撒き始めた。その途端、新造も若い衆も料理人も芸者も太鼓持ちも、我先にとその紙に群がり始めた。この紙花は、後で祝儀の一分金と替える為のものなのだ。花魁衆は足許に飛んで来たのを拾うくらいだが、座敷持の春糸は有り難くその群れに加わった。花魁以下の身分でぼうっとしているのも失礼になる。
何枚か懐に入れたところで少し逆上せた気がしたので、風に当たろうとそっと中庭側の廊下へ回る。すると石灯籠や木を配した中庭に面する太鼓橋の上に、姉女郎である吉乃井の姿が見えた。そして一人ではなく、その隣には朋輩の菅原も立っていた。二人で何か和やかに話している様子だ。
春糸は居ても立っても居られなくなり、手水の振りをして二階から抜け出した。表の大階段ではなく厠へ向かう裏手の階段から回って、一階へと下りる。見世の女郎や客人、茶屋や出入りの者等で何時も人の往来の多いロの字型の廊下は今日は静かで、人影が二つだけ見えている。
「オヤ、姉さに菅原さん」
太鼓橋に出た春糸は、偶然のような貌で驚いてみせた。二人も疑わず、オヤ春糸さん、と返す。さわさわとする胸を鎮めつつ、昼三が惣仕舞の途中にいいんですか、と尋ねてみるが、吉乃井は今宵の主役は谷川さんさ、と静かな貌で言って、二階の座敷をちらりと見上げるだけだった。見世や周りは吉乃井を次の筆頭候補として、言外に谷川と競わせたがるが、本人は昔から気にしていない様子だった。
「こうも月が綺麗なんだ、ちっとばかしね」
そして言葉を継ぎ足す。見上げると中庭の四角い空に、ぽっかりと白く輝く月が浮かんでいる。お二人は何の話かえ、とも訊いてみたが、吉乃井はただの酔い覚ましだと言って夜風に目を瞑り、菅原はあっちも手水帰りさ、と答えるだけだった。
吉乃井は不意に目を開けると、春糸と菅原を静かに見つめた。
「ほんに二人とも、立派になりんしたな」
島田や貝髷に結い、竹や扇子を散らした夏衣装に前帯を垂らした春糸と菅原を見て、感慨深げに吉乃井は目を細める。翻ってみると、双禿だった二人が一本立ちして吉乃井の部屋を出て以来、三人が集うのは初めてのことだった。
けれど春糸の内心は複雑だった。頭の中には昔の思い出が過る。
「よしのどんは何時も姉さを観音様かのように見上げておりんすが、そないに姉さ一筋でこの先どうしんすか」
とある朝、廊下の拭き掃除をしているとき、唐突に菅原――当時の禿名、はぎのから尋ねられた。苛立ちながら何とえ、と訊き返す。
「姉さも女郎さ」
向こうは絞る雑巾に目を落とした儘、悪びれもせずそう言葉を継ぎ足した。言われた方はむっとして、それから暫く口を利かなかった。
朋輩はその頃からそうやって情の薄い性質で、遣手や番新に叱られなければ掃除も使いも手を抜くし、泣いたところも見たことがなかった。そんな塩梅だから双禿上がりなのに部屋持になったのではないかと、意地悪く思ってしまう時もある。
そんなことを言っていた癖に、菅原は今も姉女郎の隣で笑みを浮かべている。春糸は朋輩の気が知れなかった。けれど少し嬉しげな吉乃井にそんなことを告げられる筈もないので、春糸も調子を合わせて微笑む。相変わらず横兵庫の似合う吉乃井の美しい横顔を間近で見るのは久し振りなので、それだけでもいい。
また紙花が撒かれ始めたのか、二階は俄かに騒がしくなる。その喧騒を背に、三人は暫し四角い空を見上げた。
前の晩客が付かなかった春糸は、妓楼の表戸が締まる引け四つ過ぎには独り寝をした。けれど周りの部屋の後朝の手管で明け六つに目が覚めてしまったので、もそりと床から起き出した。ふと窓辺の鉢に目を向けると、紺青色の朝顔の蕾が櫺子越しの仄かな朝日に向かってまさに花を開こうとしているときであった。春糸は愛おしむような心持ちで、湯呑に汲んだ水をさっと土に回し掛けた。
その時、不意にばたんと乱暴に座敷続きの襖が開き、何だこの部屋は辛気臭えと悪態を吐く濁声が耳を劈いた。振り返ると、足元の覚束ない酒臭い息の酔客が次の間の入口に立っていて、お前もあぶれもんならこっちへ来ねえか、と腕を掴まれた。何処かの花魁に振られた店者辺りだろうと察しはついたのだが、本来こういった客人を宥める役である筈の二階廻しが何かしらで捕まっているのか、一向に姿を見せない。春糸は内心焦りながら、お客人、後生さ、と繰り返すしかなかった。
「あっちの妹が、何かしいしたか?」
すると刹那にすらりと障子が開き、胴抜きに表着を羽織った姿の吉乃井が静かに微笑んでいるのが見えた。ただその口許とは裏腹に、眸の中は全く笑っていない。花魁に気圧された酔客は、イヤ、マァ等と零しながら、あっという間に尻尾を巻いて部屋から立ち去った。姉女郎の、余人を寄せ付けぬ気高さ。春糸は久々に近くで見るその姿に、目頭が熱くなるのを感じていた。
明け六つの後朝のせわしさから切り離されたような部屋の中で、姉妹は静かに視線を交わしていた。けれどふと、吉乃井の目が出窓の方へと逸れた。
「良い色の朝顔でおすな」
そう言いながら、吉乃井は朝日に向かい咲き始めた紺青色の朝顔の花弁を、指先でそっと撫でる。何処か遠くを見ている様なその貌は、翻ると禿の頃掛け軸の瀧の色を見ていたときと同じであると気付いたのだった。そしてそれはまた、姉女郎が昔よく着ていた浴衣の紺青色ともよく似ていた。ああだからあの出店で目に留まったのかと、春糸は今更ながらに得心したのだった。
ふと思い至った春糸は、徐に箪笥の抽斗を開けた。
「姉さ、コレを」
中から取り出したものを、向こうの手に渡す。吉乃井が小さく畳まれたその包み紙を開いた中に入っていたのは、鉢に蒔き切れなかった朝顔の種だった。
「オヤ、おかたじけよ」
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