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真っ白な空間。壁側にはPCが並び、中央に実験器具がまばらに散らばっている。バース遺伝子の研究を行う機関、通称ブラック研究所。その一室に二人の男がいた。
「は」
目に隈のある茶色いぼさぼさ頭の男がPCを前に、驚いたように発した声。それに気づいたもう片方の黒髪の男は、カップラーメン片手にメガネを曇らせ、PCの傍に歩み寄った。
「どうした、佐藤」
「いや、αをΩにする方法が見つかったって」
「は!? どこの論文だッ」
邪魔だと言わんばかりに佐藤を押しのけたもう片方の男、加藤。
驚くのも無理はない。世は少子高齢化時代。αとΩ結婚して生まれるのはほとんどがα。そしてβ同士が結婚しようとαの出生率が増えるという謎の現象に直面していた。αの全体数が増えるほど、生殖活動ができる相手も必然的に減る。そのため現在、生まれてくるΩは希少な存在として保護された。
もしαがΩへと変化する方法があるなら、この問題を解決できるかもしれない。強い期待を抱いて読んだその論文は、アメリカのフィティシャ大学のもの。大国特有の莫大な資金を投資され、革新的な成果を発表することで有名な大学だった……が、その内容に思わず加藤はメガネを取った。幻覚に違いない。そう確信して目を擦った。そしてもう一度画面を確認するが、その中身は全く変化していない。
「……Ωとなるαが相手に屈服する?」
「ね」
「???」
「意味わからないよね」
遺伝子の構造も何もない。ただαの精液をΩに注ぎ、強いαフェロモンを与え、屈服させることでΩ化する。どこぞのエロ同人誌のような内容が、あの有名なフィティ大で公表されたことに加藤は驚きを隠せず呆然とした。ちなみに佐藤は加藤に押しのけられた拍子に椅子から転げ落ちた。起き上がるのがメンドクサイので、床に寝転び肘をつき、相槌を打つ。そのまま佐藤は会話を続けた。
「そもそもバース性の染色体構造があるのか、単なる性ホルモンの変化なのか。それも分かってないのに、後天的に妊娠可能って無理あるよね」
「……」
無言で論文を見つめ、石になった男。その様子を眺め、「加藤さんはエラーを起こしていらっしゃる」と首を振り、佐藤は立ち上がった。そして実験着を払いながら言う。
「とりあえず、試してみればいっか」
「被験体でも使うのか?」
「いや、君がΩに」
「相手は?」
「僕」
「いやだが」
当然の如く加藤は無表情で即答した。もう何徹してるか分からない朦朧としたその頭が、はっきりと意思を示していた。Noである。そんな加藤を宥めるように肩を叩き、佐藤は言葉を続けた。
「でもさ、僕も君もαじゃん? そしてこの論文を解明するためにも、研究所の犠牲は止むを得ないじゃん」
じゃんじゃんじゃんじゃん五月蠅い男である。だが一理ある。ある程度の犠牲は止むを得ない。資金も少ない中で被験者を手に入れることは難しい。それを理解しつつ、加藤は言葉を返した。
「お前がΩになればいいのでは」
「やだけど」
佐藤も淡々と、ぼさぼさ頭を横に振った。何日も家に帰れていない。簡易シャワーじゃなくって、あったかいお風呂に入りたい。けれど、帰宅するには結果を出さないといけない。部屋の白さとは真逆の、驚きの黒さを誇るブラック研究所。それを理解しながら、拒否した。αはみなプライドが高いのである。両者譲らない。それを互いが十分に分かっている。視線がかち合い、拳を勢いよく振りかぶった。
「「最初はグー、じゃんけんッ——」」
「ぽん!」の言葉と同時に、加藤はグーを出した。正直負けたらこのまま殴ろうと思った。対して佐藤はチョキを出した。勝利にはVictoryのVが相応しいと思った。戦略を巡らし出した、互いの手。結果は見ての通りだが、取り合えず佐藤は殴られずに済んだ。
「では、そういうことだな」
そのまま加藤は佐藤を地面に押し倒し、実験着に手をかけた。白衣とは異なる工場着のそれは固く閉じられ、脱がしにくい。めんどくさいな、もういいか。回らない頭で力任せに破ろうとした。
「まった!!」
「なんだ、往生際が悪いぞ」
自身の実験着をひしと掴み、佐藤は待ったをかけた。必死だった。譲れなかった。というか、単純にいやだった。自分を剥こうとしている人間を佐藤は焦った表情で見上げた。対する加藤は余裕の表情だった。なぜならじゃんけんで勝ったので。
「経口摂取でもいいんじゃないかな!」
「……」
「精液は単なるきっかけでしょ。なら、君がつっよーいフェロモンを僕に浴びせ続ければ、なんか変化があるんじゃない?」
むっすりとしながらも納得したのか加藤は頷き、そのままトイレへ向かった。残ったのは真っ白な部屋と痛いほどの沈黙。同僚が精液を出すのを待つ時間ってこんなに気まずいのだな。やれやれと佐藤は椅子に腰かけ、机に置かれていたカップ麺の残りをすすった。味の濃いものを食べれば、これからの作業が楽になると思ったからである。しばらくすると扉を開けて加藤は帰ってきた。そして、ぺいっと無造作にシャーレを突き出した。白いゼリーがぽつりと乗っている。あまりの生々しさに、佐藤は顔を引き攣らせた。
「なんか、こう、食べ物に混ぜるとかないの?」
「牛乳とヨーグルトなら冷蔵庫にあるぞ」
「アレ、賞味期限切れてるよね。というか、いい加減に乳製品を研究室に持ち込むのやめなよ。期限短いんだから」
「四の五の言わずに食え。精子の運動性が低下して実験に影響が出る」
精液検査にとって時間は有限。そんなこと分かってる。「でもなぁ……」と目の前のシャーレを見つめ、唾を飲み込んだ。そしてデスクからプラスチックのスプーンを取り出した。後でおやつに食べようと思っていたプリン用である。ええいままよと、白の物体を掬い、口に含んだ。舌に広がるその感覚。いやすぎる。ヤバい。キショイ。ムリ。只でさえない佐藤の語彙力が低下した。吐き出したい気持ちでいっぱいのところを、さらにαのフェロモンが覆った。体全部が包み込まれるようなそれに、目の前がちかちかと赤くなり、手が震える。腹の奥底から湧き出るこの感情を、佐藤は知っていた。
「よし、体温も上昇しているし、心拍数も上がっているな」
「加藤、怒りって知ってる?」
検証に必要なこと。理解していても、このストレス下で同種のフェロモンを与えられれば苛立つ。心拍数が150に上昇するのも当然だ。「自分はラット、かわいい検査ネズミちゃん」と言い聞かせながら、机の上で両手を握り締めた。倫理委員会に通報したら絶対勝てると思う。言い出しっぺの自分を棚に上げて思った。そうでもしないと加藤のメガネをかち割りそうだった。
「どうだ、変わったか。染色体を吐き出す気持ちになったか」
「そんな朝に食べたウインナーを吐くみたいに、染色体は出てこないんだよ」
胃液なら出てきそうだけど。佐藤は昨夜から何も食べていなかった。すきっ腹にカップ麺と精子は、相性が悪いもクソもない。うぇっとえずきながら、相手へ視線を向ける。なんだつまらんと言わんばかりに加藤は腕を組んでいた。偉そうである。やっぱり殴ろうと佐藤は心に決めた。
ちなみに加藤はα→Ω化計画における、AB染色体論者である。α / β / Ωの染色体はAAB / ABB / BBB と大別されると思っているし、ウイルスを含む薬剤投与で染色体Aを崩壊させ、AAB→BとしてΩ化させるのが実現可能性が高いとも思っている。政府命令でブラック研究所から出られなくなったら、ウイルスを開発してまき散らし、全人類をΩにしてやろうとさえ思っていた。ブラックな環境は犯罪者を生み出すのである。
ふと、何かに気付いたようにフェロモンを弱め、加藤は言った。
「考えたんだが、経口摂取したら消化液で分解吸収されるから意味がないんじゃないか」
「直接、直腸にぶち込む必要があるってこと?」
「あぁ。もしかしたらαにも子宮のような生殖器官があるのかもしれないな」
ようするにαにはΩと同じ生殖機能をもつ器官があるが、発現していない。その器官を後天的に機能させるため、他のαの遺伝子とそのフェロモンをその器官に取り込むことが条件になっていると。精液は座薬みたいなものだな。加藤の説明に、なるほどと佐藤は頷いた。論文の「屈服」というのは強力なαフェロモンに晒され続けた性ホルモンの変化を示しているのかもしれない。
ちなみに佐藤はホルモン論者である。人間は群れの中で威嚇し、服従するを日常的に繰り返すものと思っているし、社会構造を限りなく絞りこめば、αしかいない集団で一部の人間がΩになるのは、繁殖を行う生物として必然だとも思っている。自分が単純な生殖能力を持つクマノミだと信じて疑わない。我々人類はみなお魚さんなのだ。
「だから——」
「ならカプセルにして、尻に突っ込んでみるね。ねぇ、もう一回精液出してきてよ」
だからと言って、自分が受け身になるのは話が別である。取り込む必要があるなら形状を変えればいいだけなのだ。シャーレを突き出し、そのまま机を叩いた。
「……」
言葉を止められたのがいやだったのか、態度が気に食わないのか、口をへの字にしているが文句は言わせない。なぜなら精液を飲み込んだのは僕だし、これから尻にカプセルを突っ込むのも僕なのだ。どう考えても負担がデカすぎる。目で訴えた。はぁと大きくため息をついて、シャーレ片手に加藤は部屋を出た。「二回目か。一体何をオカズにしてるんだろう……」と、その後姿を佐藤はそのまま見送った。
しばらくして部屋に戻り、ことりと置かれたカプセル。どうやらさくっと準備は完了したらしい。これなら簡単そうと呟き、交代で佐藤は部屋を出た。「不憫な奴だ。じゃんけんで勝ってよかった」と、トイレへ向かう佐藤の背中を見送りながら、しみじみと思った。これは必要な犠牲なのである。
そうして実験を再開したあとのこと。
「なんか、この苛立ちに慣れた」
「慣れた?」
「長いこと同じ空間にいるし、君のフェロモンにも多分耐性がついてる」
部屋に充満するほどのフェロモンを当てられながら、けろりと佐藤は言った。それも当然だった。この二人、結構気性が激しい。終わりの見えない研究に発狂し、錯乱状態で威嚇フェロモンを撒き散らすのは当たり前。ぶつけ合い殴り合うのも一度や二度ではない。殺し合い一歩手前も日常茶飯事。だが、今もこうしてピンピンしているのは単純にαの回復力ゆえ。改めて自分たちの頑丈さに感謝し、ついでに片付けのおばちゃんにも感謝した。
「新しい被検体でもいないと、難しそうだね」
「……そうなるか」
しかし手近に使えそうなものなどない。検証も頓挫かと加藤は落ち込み、一方で佐藤は胸を撫でおろした。勘弁してほしい。たかだかじゃんけんで負けた程度で、受け身になるなど冗談ではない。もう余計なこと言わないでおこう。佐藤はお口にチャックした。そうして二人の間に沈黙が落ちた。
ビ-という電子音が、さくっとそれを引き裂いた。
『あー研究所の諸君、ご機嫌よう。とても残念なお知らせだ。政府からの予算が少なくてね、君らの賃金にも手を付けなくてはならない。という訳で来年のボーナスなしだ。ま、君たちは研究出来たら満足だからいいよね。じゃ、頑張って成果上げてくれ!』
放送はそのままぷつりと切れ、同時に二人の耳も、体のどこかでぷつりと鳴る音を拾った。強いαのフェロモンが威嚇するように、ぐわりと湧き出る。それは自分のものであり、そして相手のものであった。顔を見合わせる。二人の意見は一致していた。共通する都合のいい実験体が、確かに存在したと。手始めに研究所の下部組織の人間に声をかけ、仲間を集い、そして先の論文の検証を行う。所長に不満を抱く人間は、自分たちを含め、非常に多い。さぞ楽しい検証になることだろう。二人は揃って口を歪め、高揚する気持ちのまま、研究室の扉を抜けた。そのまま白い廊下を、風を切って進む。
加藤は隣を歩くぼさぼさ頭をちらりと見て、目を細めた。冗談の多い男だが、頭の回転が速い。どんな考えにも、自身の意見を述べる。自分について来れる数少ないα。それを大層気に入っていた。この頭脳をΩにするには勿体ないと。確かにそう思った。
佐藤は隣を見ることなく、口角を上げた。隣のメガネは頭でっかちだが、ノリはいい。どんな無茶ぶりにも、付き合ってくれる。自分と遊んでくれる数少ないα。この楽しみをΩにするのは勿体ないと。同じようにそう思ったのだ。
似た者同士の二人が共に過ごすに、ビッチングなど必要ない。どうせ毎日研究室に閉じ込められ、顔を突き合わせ、殴り合っている。互いにαの回復力がなくては研究に支障が出る。だが、それはそれ。仮説の検証はしたい。その一心で二人の研究者は歩を進めた。
「は」
目に隈のある茶色いぼさぼさ頭の男がPCを前に、驚いたように発した声。それに気づいたもう片方の黒髪の男は、カップラーメン片手にメガネを曇らせ、PCの傍に歩み寄った。
「どうした、佐藤」
「いや、αをΩにする方法が見つかったって」
「は!? どこの論文だッ」
邪魔だと言わんばかりに佐藤を押しのけたもう片方の男、加藤。
驚くのも無理はない。世は少子高齢化時代。αとΩ結婚して生まれるのはほとんどがα。そしてβ同士が結婚しようとαの出生率が増えるという謎の現象に直面していた。αの全体数が増えるほど、生殖活動ができる相手も必然的に減る。そのため現在、生まれてくるΩは希少な存在として保護された。
もしαがΩへと変化する方法があるなら、この問題を解決できるかもしれない。強い期待を抱いて読んだその論文は、アメリカのフィティシャ大学のもの。大国特有の莫大な資金を投資され、革新的な成果を発表することで有名な大学だった……が、その内容に思わず加藤はメガネを取った。幻覚に違いない。そう確信して目を擦った。そしてもう一度画面を確認するが、その中身は全く変化していない。
「……Ωとなるαが相手に屈服する?」
「ね」
「???」
「意味わからないよね」
遺伝子の構造も何もない。ただαの精液をΩに注ぎ、強いαフェロモンを与え、屈服させることでΩ化する。どこぞのエロ同人誌のような内容が、あの有名なフィティ大で公表されたことに加藤は驚きを隠せず呆然とした。ちなみに佐藤は加藤に押しのけられた拍子に椅子から転げ落ちた。起き上がるのがメンドクサイので、床に寝転び肘をつき、相槌を打つ。そのまま佐藤は会話を続けた。
「そもそもバース性の染色体構造があるのか、単なる性ホルモンの変化なのか。それも分かってないのに、後天的に妊娠可能って無理あるよね」
「……」
無言で論文を見つめ、石になった男。その様子を眺め、「加藤さんはエラーを起こしていらっしゃる」と首を振り、佐藤は立ち上がった。そして実験着を払いながら言う。
「とりあえず、試してみればいっか」
「被験体でも使うのか?」
「いや、君がΩに」
「相手は?」
「僕」
「いやだが」
当然の如く加藤は無表情で即答した。もう何徹してるか分からない朦朧としたその頭が、はっきりと意思を示していた。Noである。そんな加藤を宥めるように肩を叩き、佐藤は言葉を続けた。
「でもさ、僕も君もαじゃん? そしてこの論文を解明するためにも、研究所の犠牲は止むを得ないじゃん」
じゃんじゃんじゃんじゃん五月蠅い男である。だが一理ある。ある程度の犠牲は止むを得ない。資金も少ない中で被験者を手に入れることは難しい。それを理解しつつ、加藤は言葉を返した。
「お前がΩになればいいのでは」
「やだけど」
佐藤も淡々と、ぼさぼさ頭を横に振った。何日も家に帰れていない。簡易シャワーじゃなくって、あったかいお風呂に入りたい。けれど、帰宅するには結果を出さないといけない。部屋の白さとは真逆の、驚きの黒さを誇るブラック研究所。それを理解しながら、拒否した。αはみなプライドが高いのである。両者譲らない。それを互いが十分に分かっている。視線がかち合い、拳を勢いよく振りかぶった。
「「最初はグー、じゃんけんッ——」」
「ぽん!」の言葉と同時に、加藤はグーを出した。正直負けたらこのまま殴ろうと思った。対して佐藤はチョキを出した。勝利にはVictoryのVが相応しいと思った。戦略を巡らし出した、互いの手。結果は見ての通りだが、取り合えず佐藤は殴られずに済んだ。
「では、そういうことだな」
そのまま加藤は佐藤を地面に押し倒し、実験着に手をかけた。白衣とは異なる工場着のそれは固く閉じられ、脱がしにくい。めんどくさいな、もういいか。回らない頭で力任せに破ろうとした。
「まった!!」
「なんだ、往生際が悪いぞ」
自身の実験着をひしと掴み、佐藤は待ったをかけた。必死だった。譲れなかった。というか、単純にいやだった。自分を剥こうとしている人間を佐藤は焦った表情で見上げた。対する加藤は余裕の表情だった。なぜならじゃんけんで勝ったので。
「経口摂取でもいいんじゃないかな!」
「……」
「精液は単なるきっかけでしょ。なら、君がつっよーいフェロモンを僕に浴びせ続ければ、なんか変化があるんじゃない?」
むっすりとしながらも納得したのか加藤は頷き、そのままトイレへ向かった。残ったのは真っ白な部屋と痛いほどの沈黙。同僚が精液を出すのを待つ時間ってこんなに気まずいのだな。やれやれと佐藤は椅子に腰かけ、机に置かれていたカップ麺の残りをすすった。味の濃いものを食べれば、これからの作業が楽になると思ったからである。しばらくすると扉を開けて加藤は帰ってきた。そして、ぺいっと無造作にシャーレを突き出した。白いゼリーがぽつりと乗っている。あまりの生々しさに、佐藤は顔を引き攣らせた。
「なんか、こう、食べ物に混ぜるとかないの?」
「牛乳とヨーグルトなら冷蔵庫にあるぞ」
「アレ、賞味期限切れてるよね。というか、いい加減に乳製品を研究室に持ち込むのやめなよ。期限短いんだから」
「四の五の言わずに食え。精子の運動性が低下して実験に影響が出る」
精液検査にとって時間は有限。そんなこと分かってる。「でもなぁ……」と目の前のシャーレを見つめ、唾を飲み込んだ。そしてデスクからプラスチックのスプーンを取り出した。後でおやつに食べようと思っていたプリン用である。ええいままよと、白の物体を掬い、口に含んだ。舌に広がるその感覚。いやすぎる。ヤバい。キショイ。ムリ。只でさえない佐藤の語彙力が低下した。吐き出したい気持ちでいっぱいのところを、さらにαのフェロモンが覆った。体全部が包み込まれるようなそれに、目の前がちかちかと赤くなり、手が震える。腹の奥底から湧き出るこの感情を、佐藤は知っていた。
「よし、体温も上昇しているし、心拍数も上がっているな」
「加藤、怒りって知ってる?」
検証に必要なこと。理解していても、このストレス下で同種のフェロモンを与えられれば苛立つ。心拍数が150に上昇するのも当然だ。「自分はラット、かわいい検査ネズミちゃん」と言い聞かせながら、机の上で両手を握り締めた。倫理委員会に通報したら絶対勝てると思う。言い出しっぺの自分を棚に上げて思った。そうでもしないと加藤のメガネをかち割りそうだった。
「どうだ、変わったか。染色体を吐き出す気持ちになったか」
「そんな朝に食べたウインナーを吐くみたいに、染色体は出てこないんだよ」
胃液なら出てきそうだけど。佐藤は昨夜から何も食べていなかった。すきっ腹にカップ麺と精子は、相性が悪いもクソもない。うぇっとえずきながら、相手へ視線を向ける。なんだつまらんと言わんばかりに加藤は腕を組んでいた。偉そうである。やっぱり殴ろうと佐藤は心に決めた。
ちなみに加藤はα→Ω化計画における、AB染色体論者である。α / β / Ωの染色体はAAB / ABB / BBB と大別されると思っているし、ウイルスを含む薬剤投与で染色体Aを崩壊させ、AAB→BとしてΩ化させるのが実現可能性が高いとも思っている。政府命令でブラック研究所から出られなくなったら、ウイルスを開発してまき散らし、全人類をΩにしてやろうとさえ思っていた。ブラックな環境は犯罪者を生み出すのである。
ふと、何かに気付いたようにフェロモンを弱め、加藤は言った。
「考えたんだが、経口摂取したら消化液で分解吸収されるから意味がないんじゃないか」
「直接、直腸にぶち込む必要があるってこと?」
「あぁ。もしかしたらαにも子宮のような生殖器官があるのかもしれないな」
ようするにαにはΩと同じ生殖機能をもつ器官があるが、発現していない。その器官を後天的に機能させるため、他のαの遺伝子とそのフェロモンをその器官に取り込むことが条件になっていると。精液は座薬みたいなものだな。加藤の説明に、なるほどと佐藤は頷いた。論文の「屈服」というのは強力なαフェロモンに晒され続けた性ホルモンの変化を示しているのかもしれない。
ちなみに佐藤はホルモン論者である。人間は群れの中で威嚇し、服従するを日常的に繰り返すものと思っているし、社会構造を限りなく絞りこめば、αしかいない集団で一部の人間がΩになるのは、繁殖を行う生物として必然だとも思っている。自分が単純な生殖能力を持つクマノミだと信じて疑わない。我々人類はみなお魚さんなのだ。
「だから——」
「ならカプセルにして、尻に突っ込んでみるね。ねぇ、もう一回精液出してきてよ」
だからと言って、自分が受け身になるのは話が別である。取り込む必要があるなら形状を変えればいいだけなのだ。シャーレを突き出し、そのまま机を叩いた。
「……」
言葉を止められたのがいやだったのか、態度が気に食わないのか、口をへの字にしているが文句は言わせない。なぜなら精液を飲み込んだのは僕だし、これから尻にカプセルを突っ込むのも僕なのだ。どう考えても負担がデカすぎる。目で訴えた。はぁと大きくため息をついて、シャーレ片手に加藤は部屋を出た。「二回目か。一体何をオカズにしてるんだろう……」と、その後姿を佐藤はそのまま見送った。
しばらくして部屋に戻り、ことりと置かれたカプセル。どうやらさくっと準備は完了したらしい。これなら簡単そうと呟き、交代で佐藤は部屋を出た。「不憫な奴だ。じゃんけんで勝ってよかった」と、トイレへ向かう佐藤の背中を見送りながら、しみじみと思った。これは必要な犠牲なのである。
そうして実験を再開したあとのこと。
「なんか、この苛立ちに慣れた」
「慣れた?」
「長いこと同じ空間にいるし、君のフェロモンにも多分耐性がついてる」
部屋に充満するほどのフェロモンを当てられながら、けろりと佐藤は言った。それも当然だった。この二人、結構気性が激しい。終わりの見えない研究に発狂し、錯乱状態で威嚇フェロモンを撒き散らすのは当たり前。ぶつけ合い殴り合うのも一度や二度ではない。殺し合い一歩手前も日常茶飯事。だが、今もこうしてピンピンしているのは単純にαの回復力ゆえ。改めて自分たちの頑丈さに感謝し、ついでに片付けのおばちゃんにも感謝した。
「新しい被検体でもいないと、難しそうだね」
「……そうなるか」
しかし手近に使えそうなものなどない。検証も頓挫かと加藤は落ち込み、一方で佐藤は胸を撫でおろした。勘弁してほしい。たかだかじゃんけんで負けた程度で、受け身になるなど冗談ではない。もう余計なこと言わないでおこう。佐藤はお口にチャックした。そうして二人の間に沈黙が落ちた。
ビ-という電子音が、さくっとそれを引き裂いた。
『あー研究所の諸君、ご機嫌よう。とても残念なお知らせだ。政府からの予算が少なくてね、君らの賃金にも手を付けなくてはならない。という訳で来年のボーナスなしだ。ま、君たちは研究出来たら満足だからいいよね。じゃ、頑張って成果上げてくれ!』
放送はそのままぷつりと切れ、同時に二人の耳も、体のどこかでぷつりと鳴る音を拾った。強いαのフェロモンが威嚇するように、ぐわりと湧き出る。それは自分のものであり、そして相手のものであった。顔を見合わせる。二人の意見は一致していた。共通する都合のいい実験体が、確かに存在したと。手始めに研究所の下部組織の人間に声をかけ、仲間を集い、そして先の論文の検証を行う。所長に不満を抱く人間は、自分たちを含め、非常に多い。さぞ楽しい検証になることだろう。二人は揃って口を歪め、高揚する気持ちのまま、研究室の扉を抜けた。そのまま白い廊下を、風を切って進む。
加藤は隣を歩くぼさぼさ頭をちらりと見て、目を細めた。冗談の多い男だが、頭の回転が速い。どんな考えにも、自身の意見を述べる。自分について来れる数少ないα。それを大層気に入っていた。この頭脳をΩにするには勿体ないと。確かにそう思った。
佐藤は隣を見ることなく、口角を上げた。隣のメガネは頭でっかちだが、ノリはいい。どんな無茶ぶりにも、付き合ってくれる。自分と遊んでくれる数少ないα。この楽しみをΩにするのは勿体ないと。同じようにそう思ったのだ。
似た者同士の二人が共に過ごすに、ビッチングなど必要ない。どうせ毎日研究室に閉じ込められ、顔を突き合わせ、殴り合っている。互いにαの回復力がなくては研究に支障が出る。だが、それはそれ。仮説の検証はしたい。その一心で二人の研究者は歩を進めた。
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