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夜会会場から馬車に揺られること三十分。ササール侯爵家の屋敷に到着した私は、欠伸を一つ噛み殺しました。
「ふぁ……。やはり夜更かしは美容に良くありませんわね。明日の朝食に備えて、早く休まなくては」
馬車の扉が開くと同時に、私は軽やかな足取りで屋敷の中へと入りました。
しかし、エントランスでは待ち構えていたかのように、父であるササール侯爵が仁王立ちしていました。
その顔は、まるで熟れすぎたトマトのように真っ赤に上気しています。
「ニュール! 貴様、自分が何をしたか分かっているのか!」
「おかえりなさいませ、お父様。ずいぶんと威勢のいいお出迎えですね。近所迷惑になってしまいますよ?」
「黙れ! 先ほどアインス王子から早馬が届いたわ! 夜会の場で婚約破棄を受け入れたばかりか、あろうことかその場でモンブランを貪っていたそうではないか!」
「貪るだなんて人聞きの悪い。最後の一つを、淑女として優雅にいただいたまでですわ。とても美味しかったです」
「この恥晒しがッ! ササール家の名誉は、貴様のその食意地のせいで地に落ちたのだぞ!」
お父様の怒号が屋敷の天井を震わせます。
使用人たちが影で震えていますが、私は首を傾げるばかりです。
「名誉、ですか。名誉でパンは買えませんし、お腹も膨れませんわ。それよりも、お父様。そんなに怒ると血圧が上がってしまいます。ハーブティーでもいかがですか?」
「誰がそんなものを飲むか! いいか、ニュール。アインス王子は激怒しておられる。貴様のような不届き者を娘にしておくわけにはいかん!」
お父様は震える手で、書斎から持ってきたと思われる一枚の紙を突きつけました。
「これは廃嫡、および平民への降格手続きの書類だ! これにサインして、今すぐこの屋敷から出て行け!」
本来なら、ここで令嬢は泣き崩れ、「お許しください!」と足元に縋り付く場面なのでしょう。
しかし、私の頭に浮かんだのは別のことでした。
「平民……。ということは、明日の朝からドレスを着なくていいのですね? あの苦しいコルセットともおさらばできるということでしょうか」
「……何?」
「あと、朝の長いお祈りや、退屈なマナーの講習も、もう受けなくていいのですね?」
お父様は口をパクパクさせて、呆然と私を見ています。
「何を……何を言っているんだ。貴様、家を追い出されるという意味を分かっているのか! 明日から寝る場所も、食べるものもなくなるのだぞ!」
「大丈夫です。あそこのモンブランの味を思い出せば、三日は生き延びられますわ」
私はそう言うと、お父様の手からひょいと書類を奪い取りました。
「ペンは……ああ、そこにありますね。お借りします」
エントランスの飾り棚に置いてあった記帳用のペンを手に取ります。
そして、迷うことなくサラサラと、美しい筆致で自分の名前を書き込みました。
「はい、サインならここに書きますね。これで私はササール家の人間ではなくなりました。はい、お返しします」
「……あ、ああ……」
お父様は、自分が渡したはずの書類を呆然と受け取り、固まっています。
あまりにもあっさりとサインした娘の行動が、理解の範疇を超えているのでしょう。
「さて、そうと決まれば準備をしなくては。お父様、一つお願いがあるのですが」
「な、なんだ。今さら許してくれとでも言うつもりか?」
お父様が少しだけ期待したような目を向けました。
私は満面の笑みで答えました。
「台所にある、あの『特製イチゴジャム』。あれを三瓶ほど、手切金代わりに持っていってもよろしいでしょうか?」
「……ジャム?」
「ええ、あれがないと私の朝が始まりませんので」
「勝手にしろ! ジャムでも石ころでも、好きなだけ持ってさっさと失せろ!」
お父様はついに理性を失ったのか、書類を握りしめたまま自分の部屋へと駆け込んでいきました。
追い出されたというのに、不思議と心は軽やかです。
「さあ、そうと決まれば忙しくなりますわ。まずは、お気に入りのティーカップを割れないように包まなくては」
私は鼻歌を歌いながら、自分の部屋へと戻りました。
後ろで執事が「お嬢様、本当によろしいのですか……」と涙を拭っていましたが、私は笑顔で答えました。
「ええ、とっても。だって、これからは自分の好きな時に、好きなだけおやつが食べられるんですもの。これ以上の幸せがあるかしら?」
部屋に戻った私は、クローゼットの奥から頑丈な革の鞄を取り出しました。
ドレスは重いので数枚だけ。代わりに、お菓子作りの道具や乾燥させたハーブを詰め込みます。
「明日は、角のパン屋さんのクロワッサンを買ってから、新しい家を探しに行きましょう。楽しみですわ」
私はふかふかのベッドに潜り込みました。
明日からはもう、このベッドで寝ることもありません。
けれど、不安など微塵も感じませんでした。
なぜなら、私は私。
場所が変わろうと、名前が変わろうと、美味しいものを美味しくいただく私の本質は変わらないのですから。
「おやすみなさい。……あ、明日はジャムを忘れないようにしなくては」
独り言を呟きながら、私は深い眠りに落ちていきました。
翌朝、ササール侯爵邸から、小袋一つを抱えてスキップで出て行く元令嬢の姿が目撃されることになりますが……。
それはまた、別のお話です。
「ふぁ……。やはり夜更かしは美容に良くありませんわね。明日の朝食に備えて、早く休まなくては」
馬車の扉が開くと同時に、私は軽やかな足取りで屋敷の中へと入りました。
しかし、エントランスでは待ち構えていたかのように、父であるササール侯爵が仁王立ちしていました。
その顔は、まるで熟れすぎたトマトのように真っ赤に上気しています。
「ニュール! 貴様、自分が何をしたか分かっているのか!」
「おかえりなさいませ、お父様。ずいぶんと威勢のいいお出迎えですね。近所迷惑になってしまいますよ?」
「黙れ! 先ほどアインス王子から早馬が届いたわ! 夜会の場で婚約破棄を受け入れたばかりか、あろうことかその場でモンブランを貪っていたそうではないか!」
「貪るだなんて人聞きの悪い。最後の一つを、淑女として優雅にいただいたまでですわ。とても美味しかったです」
「この恥晒しがッ! ササール家の名誉は、貴様のその食意地のせいで地に落ちたのだぞ!」
お父様の怒号が屋敷の天井を震わせます。
使用人たちが影で震えていますが、私は首を傾げるばかりです。
「名誉、ですか。名誉でパンは買えませんし、お腹も膨れませんわ。それよりも、お父様。そんなに怒ると血圧が上がってしまいます。ハーブティーでもいかがですか?」
「誰がそんなものを飲むか! いいか、ニュール。アインス王子は激怒しておられる。貴様のような不届き者を娘にしておくわけにはいかん!」
お父様は震える手で、書斎から持ってきたと思われる一枚の紙を突きつけました。
「これは廃嫡、および平民への降格手続きの書類だ! これにサインして、今すぐこの屋敷から出て行け!」
本来なら、ここで令嬢は泣き崩れ、「お許しください!」と足元に縋り付く場面なのでしょう。
しかし、私の頭に浮かんだのは別のことでした。
「平民……。ということは、明日の朝からドレスを着なくていいのですね? あの苦しいコルセットともおさらばできるということでしょうか」
「……何?」
「あと、朝の長いお祈りや、退屈なマナーの講習も、もう受けなくていいのですね?」
お父様は口をパクパクさせて、呆然と私を見ています。
「何を……何を言っているんだ。貴様、家を追い出されるという意味を分かっているのか! 明日から寝る場所も、食べるものもなくなるのだぞ!」
「大丈夫です。あそこのモンブランの味を思い出せば、三日は生き延びられますわ」
私はそう言うと、お父様の手からひょいと書類を奪い取りました。
「ペンは……ああ、そこにありますね。お借りします」
エントランスの飾り棚に置いてあった記帳用のペンを手に取ります。
そして、迷うことなくサラサラと、美しい筆致で自分の名前を書き込みました。
「はい、サインならここに書きますね。これで私はササール家の人間ではなくなりました。はい、お返しします」
「……あ、ああ……」
お父様は、自分が渡したはずの書類を呆然と受け取り、固まっています。
あまりにもあっさりとサインした娘の行動が、理解の範疇を超えているのでしょう。
「さて、そうと決まれば準備をしなくては。お父様、一つお願いがあるのですが」
「な、なんだ。今さら許してくれとでも言うつもりか?」
お父様が少しだけ期待したような目を向けました。
私は満面の笑みで答えました。
「台所にある、あの『特製イチゴジャム』。あれを三瓶ほど、手切金代わりに持っていってもよろしいでしょうか?」
「……ジャム?」
「ええ、あれがないと私の朝が始まりませんので」
「勝手にしろ! ジャムでも石ころでも、好きなだけ持ってさっさと失せろ!」
お父様はついに理性を失ったのか、書類を握りしめたまま自分の部屋へと駆け込んでいきました。
追い出されたというのに、不思議と心は軽やかです。
「さあ、そうと決まれば忙しくなりますわ。まずは、お気に入りのティーカップを割れないように包まなくては」
私は鼻歌を歌いながら、自分の部屋へと戻りました。
後ろで執事が「お嬢様、本当によろしいのですか……」と涙を拭っていましたが、私は笑顔で答えました。
「ええ、とっても。だって、これからは自分の好きな時に、好きなだけおやつが食べられるんですもの。これ以上の幸せがあるかしら?」
部屋に戻った私は、クローゼットの奥から頑丈な革の鞄を取り出しました。
ドレスは重いので数枚だけ。代わりに、お菓子作りの道具や乾燥させたハーブを詰め込みます。
「明日は、角のパン屋さんのクロワッサンを買ってから、新しい家を探しに行きましょう。楽しみですわ」
私はふかふかのベッドに潜り込みました。
明日からはもう、このベッドで寝ることもありません。
けれど、不安など微塵も感じませんでした。
なぜなら、私は私。
場所が変わろうと、名前が変わろうと、美味しいものを美味しくいただく私の本質は変わらないのですから。
「おやすみなさい。……あ、明日はジャムを忘れないようにしなくては」
独り言を呟きながら、私は深い眠りに落ちていきました。
翌朝、ササール侯爵邸から、小袋一つを抱えてスキップで出て行く元令嬢の姿が目撃されることになりますが……。
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