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「……はぁ。この皮の剥き具合、まさに芸術的ですわ」
雨上がりの爽やかな朝。私は庭のベンチに座り、お隣のパン屋さんから分けていただいたオレンジの皮を、丁寧に、そして無心に剥いておりました。
これを砂糖で煮詰めて乾燥させれば、最高に香ばしい「オランジェット」が完成します。
集中力が最高潮に達していたその時、またしてもあの聞き覚えのある、派手な馬車の音が静かな下町に響き渡りました。
「……またですか。あの方の馬車、もう少し消音機能をつけるべきですわね。オレンジの繊細な香りが逃げてしまいますわ」
私が溜息をつきながら最後の一片を剥き終えると、馬車から降りてきたアインス王子が、なぜか今回は「悲壮感」を全身に纏って歩み寄ってきました。
「ニュール……。ようやく、ようやく気づいたのだ。私が本当に必要としていたのは、ミスティではなかったということに!」
王子は私の前に跪き、芝居がかった動作で私の手を取ろうとしました。
私は即座に、手元のオレンジの皮を王子の手のひらに載せて回避しました。
「……え、なんだこれは。ゴミか?」
「ゴミではありません、宝の山ですわ。それよりアインス様、膝が泥だらけになりますわよ。せっかくの金糸の刺繍が泣いております」
「そんなことはどうでもいい! ニュール、聞いてくれ。ミスティは……ミスティは刺激が強すぎるのだ!」
王子は立ち上がると、激しく首を振りました。
「あやつは毎日『誰かにいじめられた』と言っては泣き、『王子様だけが味方です』と縋り付いてくる。最初はそれが守ってやりたい本能を刺激したが、毎日、毎朝、毎晩やられると、正直……胃がもたれるのだ!」
「まあ。甘いものを食べすぎた後のような状態ですわね。お察ししますわ」
「そうなのだ! だが貴様はどうだ! 私が何を言っても『そうですか』。婚約破棄しても『プディング』。その無反応、その図太さ……今思えば、あれこそが私にとっての『休息』だったのだ!」
王子は私の肩を掴もうとしましたが、私はオレンジを盛ったカゴを盾にして距離を保ちました。
「ニュール、喜べ。私はミスティとの関係を清算することに決めた。そして、貴様を再び私の婚約者として迎え入れてやろう。どうだ、このボロ屋ともおさらばだぞ!」
王子の瞳には、「さあ、泣いて喜べ」という絶対的な自信が宿っていました。
私はじっと、王子の顔を見つめました。
「……アインス様。一つお伺いしてもよろしいでしょうか」
「なんだ! 挙式のメニューか? 貴様の好きなものを入れてやってもいいぞ!」
「いいえ。アインス様と一緒にいると、私の淹れるお茶は美味しくなるでしょうか?」
「……は? 茶? そんなもの、侍女に淹れさせればいいだろう」
私は静かに首を横に振りました。
「お断りいたしますわ」
「………………え?」
王子の口が、面白いようにポカンと開きました。
「今、なんと言った? 聞き間違いか? 喜びすぎて耳が詰まったのか?」
「いいえ、はっきりと申し上げました。復縁はお断りいたします。なぜなら、アインス様と一緒にいても、私の心は『ふっくら』と膨らまないからですわ」
「ふっくら……? 貴様、また食べ物の例えか!」
「ええ。私にとって、人生で最も大切なのは『美味しく、心地よく、自分らしく』あることです。アインス様といると、私は常に誰かの影でいなければなりませんし、何より、私の大切なティータイムがあなたの愚痴で汚されてしまいますもの」
私はオレンジのカゴを抱え直し、毅然とした態度で告げました。
「私は今の、この『ボロ屋』での生活を愛しております。ギルベルト様が沸かしてくださるお湯と、自分で摘んだハーブ。これ以上の幸せは、王宮のどこを探しても見当たりませんわ」
「……ギルベルト! またあいつか! あんな不愛想な男のどこがいい!」
「不愛想ですが、あの方はお茶の蒸らし時間を守ってくださいますの。それは愛よりも深い信頼関係ですわよ」
その時、家の扉が静かに開き、背後にギルベルト様が姿を現しました。
「……殿下。まだここにいらしたのですか。彼女の答えは、先ほどから明白だと思われますが」
ギルベルト様は私の肩にそっと手を置き、王子を冷ややかに見据えました。
「ギルベルト! 貴様、やはりニュールを唆(そそのか)したな! 私の聖域を奪うとは……!」
「奪ったのではありません。彼女が自ら、こちらの方が居心地が良いと判断したのです。……さあ、殿下。ミスティ様が馬車の影で、今にも倒れそうな顔をしてこちらを伺っておりますよ」
見れば、少し離れた場所に停まった別の馬車から、ミスティ様がハンカチを噛み締めながらこちらを睨みつけていました。
「……ひっ! ミ、ミスティ……!」
王子は顔を引き攣らせました。どうやら、彼にとっての「刺激」は、すでに恐怖に変わっているようです。
「ニュール! 覚えているがいい! 貴様はいつか必ず、王宮の豪華な晩餐会を懐かしんで枕を濡らすことになるのだぞ!」
王子は捨て台詞を残すと、逃げるように馬車へと駆け戻っていきました。
静寂が戻った庭で、私は再びオレンジの皮を眺めました。
「……ふう。騒々しい方ですね。せっかくの乾燥工程に、余計な湿気が混ざるところでしたわ」
「……あんたな。一国の王子からの復縁要請を、オレンジの皮一枚で追い払うとは」
ギルベルト様が、呆れたように、しかしどこか満足そうに微笑みました。
「復縁なんて、一度冷めた紅茶を温め直すようなものですわ。味も香りも落ちてしまいますもの。私は、常に淹れたての一杯を楽しみたいのです」
「……淹れたて、か。なら、今日のお茶は俺に淹れさせてくれ。あんたの言う『ふっくら』とやらを、試してみたい」
「まあ! ギルベルト様、腕を上げましたわね。期待しておりますわ」
私はギルベルト様の腕に自分の手を添え、温かな香りが待つ家の中へと戻りました。
過去の栄光よりも、今のオレンジ。
私のマイペースな幸せは、どんな王冠よりも輝いているのですから。
雨上がりの爽やかな朝。私は庭のベンチに座り、お隣のパン屋さんから分けていただいたオレンジの皮を、丁寧に、そして無心に剥いておりました。
これを砂糖で煮詰めて乾燥させれば、最高に香ばしい「オランジェット」が完成します。
集中力が最高潮に達していたその時、またしてもあの聞き覚えのある、派手な馬車の音が静かな下町に響き渡りました。
「……またですか。あの方の馬車、もう少し消音機能をつけるべきですわね。オレンジの繊細な香りが逃げてしまいますわ」
私が溜息をつきながら最後の一片を剥き終えると、馬車から降りてきたアインス王子が、なぜか今回は「悲壮感」を全身に纏って歩み寄ってきました。
「ニュール……。ようやく、ようやく気づいたのだ。私が本当に必要としていたのは、ミスティではなかったということに!」
王子は私の前に跪き、芝居がかった動作で私の手を取ろうとしました。
私は即座に、手元のオレンジの皮を王子の手のひらに載せて回避しました。
「……え、なんだこれは。ゴミか?」
「ゴミではありません、宝の山ですわ。それよりアインス様、膝が泥だらけになりますわよ。せっかくの金糸の刺繍が泣いております」
「そんなことはどうでもいい! ニュール、聞いてくれ。ミスティは……ミスティは刺激が強すぎるのだ!」
王子は立ち上がると、激しく首を振りました。
「あやつは毎日『誰かにいじめられた』と言っては泣き、『王子様だけが味方です』と縋り付いてくる。最初はそれが守ってやりたい本能を刺激したが、毎日、毎朝、毎晩やられると、正直……胃がもたれるのだ!」
「まあ。甘いものを食べすぎた後のような状態ですわね。お察ししますわ」
「そうなのだ! だが貴様はどうだ! 私が何を言っても『そうですか』。婚約破棄しても『プディング』。その無反応、その図太さ……今思えば、あれこそが私にとっての『休息』だったのだ!」
王子は私の肩を掴もうとしましたが、私はオレンジを盛ったカゴを盾にして距離を保ちました。
「ニュール、喜べ。私はミスティとの関係を清算することに決めた。そして、貴様を再び私の婚約者として迎え入れてやろう。どうだ、このボロ屋ともおさらばだぞ!」
王子の瞳には、「さあ、泣いて喜べ」という絶対的な自信が宿っていました。
私はじっと、王子の顔を見つめました。
「……アインス様。一つお伺いしてもよろしいでしょうか」
「なんだ! 挙式のメニューか? 貴様の好きなものを入れてやってもいいぞ!」
「いいえ。アインス様と一緒にいると、私の淹れるお茶は美味しくなるでしょうか?」
「……は? 茶? そんなもの、侍女に淹れさせればいいだろう」
私は静かに首を横に振りました。
「お断りいたしますわ」
「………………え?」
王子の口が、面白いようにポカンと開きました。
「今、なんと言った? 聞き間違いか? 喜びすぎて耳が詰まったのか?」
「いいえ、はっきりと申し上げました。復縁はお断りいたします。なぜなら、アインス様と一緒にいても、私の心は『ふっくら』と膨らまないからですわ」
「ふっくら……? 貴様、また食べ物の例えか!」
「ええ。私にとって、人生で最も大切なのは『美味しく、心地よく、自分らしく』あることです。アインス様といると、私は常に誰かの影でいなければなりませんし、何より、私の大切なティータイムがあなたの愚痴で汚されてしまいますもの」
私はオレンジのカゴを抱え直し、毅然とした態度で告げました。
「私は今の、この『ボロ屋』での生活を愛しております。ギルベルト様が沸かしてくださるお湯と、自分で摘んだハーブ。これ以上の幸せは、王宮のどこを探しても見当たりませんわ」
「……ギルベルト! またあいつか! あんな不愛想な男のどこがいい!」
「不愛想ですが、あの方はお茶の蒸らし時間を守ってくださいますの。それは愛よりも深い信頼関係ですわよ」
その時、家の扉が静かに開き、背後にギルベルト様が姿を現しました。
「……殿下。まだここにいらしたのですか。彼女の答えは、先ほどから明白だと思われますが」
ギルベルト様は私の肩にそっと手を置き、王子を冷ややかに見据えました。
「ギルベルト! 貴様、やはりニュールを唆(そそのか)したな! 私の聖域を奪うとは……!」
「奪ったのではありません。彼女が自ら、こちらの方が居心地が良いと判断したのです。……さあ、殿下。ミスティ様が馬車の影で、今にも倒れそうな顔をしてこちらを伺っておりますよ」
見れば、少し離れた場所に停まった別の馬車から、ミスティ様がハンカチを噛み締めながらこちらを睨みつけていました。
「……ひっ! ミ、ミスティ……!」
王子は顔を引き攣らせました。どうやら、彼にとっての「刺激」は、すでに恐怖に変わっているようです。
「ニュール! 覚えているがいい! 貴様はいつか必ず、王宮の豪華な晩餐会を懐かしんで枕を濡らすことになるのだぞ!」
王子は捨て台詞を残すと、逃げるように馬車へと駆け戻っていきました。
静寂が戻った庭で、私は再びオレンジの皮を眺めました。
「……ふう。騒々しい方ですね。せっかくの乾燥工程に、余計な湿気が混ざるところでしたわ」
「……あんたな。一国の王子からの復縁要請を、オレンジの皮一枚で追い払うとは」
ギルベルト様が、呆れたように、しかしどこか満足そうに微笑みました。
「復縁なんて、一度冷めた紅茶を温め直すようなものですわ。味も香りも落ちてしまいますもの。私は、常に淹れたての一杯を楽しみたいのです」
「……淹れたて、か。なら、今日のお茶は俺に淹れさせてくれ。あんたの言う『ふっくら』とやらを、試してみたい」
「まあ! ギルベルト様、腕を上げましたわね。期待しておりますわ」
私はギルベルト様の腕に自分の手を添え、温かな香りが待つ家の中へと戻りました。
過去の栄光よりも、今のオレンジ。
私のマイペースな幸せは、どんな王冠よりも輝いているのですから。
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