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「……お嬢様。お嬢様。本日は、昨日領主様たちから献上された『幻の白桃』を、アルベルト様が自ら剥いてお待ちです。さあ、起きて咀嚼してください」
アンの声が、心地よいまどろみの底まで響いてくる。
私は「一度入ったら人間を吸着して離さない特注ソファ」の隙間に顔を埋めたまま、掠れた声で応えた。
「……アン。桃は……いいわ。でも、それを口まで運んで、噛んで、飲み込むという一連のプロセスを想像しただけで……腹筋が筋肉痛になりそうなの……」
「……。お嬢様、ついにそこまで来ましたか。もはや生物としての生存本能すら面倒くさいと」
「そうよ。私は今、光合成だけで生きていける植物になりたいの。……誰か、私の代わりに栄養を摂取してくれないかしら」
私は半分寝ぼけたまま、三白眼の焦点を虚空に漂わせた。
そこへ、エプロン姿(※ただし下は最高級の軍服)のアルベルトが、銀のトレイを恭しく捧げ持って現れた。
「エスター! 私の女神! 君が食べるのを面倒がっていると聞いて、私はこの上ない悦びを感じているよ! 君のその『存在しているだけで手一杯』という高潔な怠惰……! まさに至宝だ!」
(……。……。……この男、今日も通常運転ね。少しは引いてほしいわ)
私はリビングに広げられた、雲のようなクッションの山の上で、かろうじて上体だけを数センチ浮かせた。
「アルベルト……。桃は食べたいの。でも、手が、動かないのよ。……重力が、私の腕を拒絶しているの」
「わかっているとも! 君の美しい指先を、果汁で汚すなど万死に値する! さあ、私の手から……いや、私の魂から、この桃を受け取ってくれ!」
アルベルトは、完璧な形にカットされた白桃をフォークで刺すと、私の唇のすぐそばまで運んできた。
「さあ、エスター。あーん……だ」
「……。……。……あーん」
私は極小のエネルギーで口を開けた。
ひんやりとした桃の果肉が滑り込み、甘い蜜が口いっぱいに広がる。
「……ん。……美味しいわ」
「おおおおお……! 今のその、咀嚼するのを惜しむような、とろけるような『ん』の声! そして私の目を一切見ずに、ただ胃袋の充足だけを感じているその傲慢な瞳! 素晴らしい! 全細胞が活性化されるようだ!」
アルベルトは勝手に顔を真っ赤にし、震える手で二切れ目の桃を準備し始めた。
「エスター、もっとだ! 君が飲み込むまで、私はここで石像になって待ち続けよう! 君の顎が疲れないよう、必要なら私が君の頬をマッサージして補助してもいいんだぞ!」
「……それは流石に、自分で噛むより面倒だわ。却下よ」
私は三白眼を鋭く細め、アルベルトを牽制した。
すると、彼はさらに恍惚とした表情になり、三切れ目の桃を差し出してきた。
「……アン。お嬢様が、ついに自分では一口も動かさなくなりました。これは、我が屋敷の歴史に残る『暗黒の火曜日』ですね」
「いいえ。お嬢様にとっては『栄光の安息日』でしょう」
アンは淡々と、隣国の筆頭家臣ギュンターから届いた手紙を開いた。
「お嬢様、ギュンター様から伝言です。『エスター様が公爵を給仕係として手なずけているという噂を耳にしました。流石は我らの女王。公爵の有り余る魔力を、果物を剥くという繊細な作業に向けさせ、その闘争本能を抑制するとは……まさに平和の象徴です』とのことです」
「……。……。……。……何それ。ただの『あーん』が、どうしてそんな国際貢献みたいな話になるのよ」
私は桃を飲み込み、再びソファの海へと沈んでいった。
「アルベルト。……もういいわ。お腹いっぱい。……寝るわ」
「おやすみ、私のエスター。君の胃が消化活動を行う間、私は君の枕元で静寂の魔法をかけ続けよう。……ああ、寝顔も冷徹で美しい……!」
アルベルトは私の横に跪き、まるで聖母像でも拝むかのような目で見守り始めた。
一方、その頃。
王都のセドリック王子の元には、またしても信じがたい報告が届いていた。
「殿下! 大変です! エスター・ド・ヴァリエールが、隣国の氷の公爵を『食事の世話をさせる奴隷』にまで堕としたとの情報が! さらに、彼女はもはや自分の力では歩くことさえせず、魔力で空間を歪めて移動しているとの噂です!」
「……な、何だと!? 奴隷!? あのプライドの高いアルベルトが!? エスター……あいつ、どれだけ恐ろしい女帝になっているんだ……!」
セドリックは、誰もいなくなった広い食堂で、一人、冷え切ったスープを啜りながら震えていた。
エスター・ド・ヴァリエールのニート道。
本人はただ「食べるのが怠い」という理由で「あーん」を要求しただけなのだが、それは世界にとって「公爵の完全服従」を意味する、歴史的な瞬間として記録されていくのであった。
アンの声が、心地よいまどろみの底まで響いてくる。
私は「一度入ったら人間を吸着して離さない特注ソファ」の隙間に顔を埋めたまま、掠れた声で応えた。
「……アン。桃は……いいわ。でも、それを口まで運んで、噛んで、飲み込むという一連のプロセスを想像しただけで……腹筋が筋肉痛になりそうなの……」
「……。お嬢様、ついにそこまで来ましたか。もはや生物としての生存本能すら面倒くさいと」
「そうよ。私は今、光合成だけで生きていける植物になりたいの。……誰か、私の代わりに栄養を摂取してくれないかしら」
私は半分寝ぼけたまま、三白眼の焦点を虚空に漂わせた。
そこへ、エプロン姿(※ただし下は最高級の軍服)のアルベルトが、銀のトレイを恭しく捧げ持って現れた。
「エスター! 私の女神! 君が食べるのを面倒がっていると聞いて、私はこの上ない悦びを感じているよ! 君のその『存在しているだけで手一杯』という高潔な怠惰……! まさに至宝だ!」
(……。……。……この男、今日も通常運転ね。少しは引いてほしいわ)
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「アルベルト……。桃は食べたいの。でも、手が、動かないのよ。……重力が、私の腕を拒絶しているの」
「わかっているとも! 君の美しい指先を、果汁で汚すなど万死に値する! さあ、私の手から……いや、私の魂から、この桃を受け取ってくれ!」
アルベルトは、完璧な形にカットされた白桃をフォークで刺すと、私の唇のすぐそばまで運んできた。
「さあ、エスター。あーん……だ」
「……。……。……あーん」
私は極小のエネルギーで口を開けた。
ひんやりとした桃の果肉が滑り込み、甘い蜜が口いっぱいに広がる。
「……ん。……美味しいわ」
「おおおおお……! 今のその、咀嚼するのを惜しむような、とろけるような『ん』の声! そして私の目を一切見ずに、ただ胃袋の充足だけを感じているその傲慢な瞳! 素晴らしい! 全細胞が活性化されるようだ!」
アルベルトは勝手に顔を真っ赤にし、震える手で二切れ目の桃を準備し始めた。
「エスター、もっとだ! 君が飲み込むまで、私はここで石像になって待ち続けよう! 君の顎が疲れないよう、必要なら私が君の頬をマッサージして補助してもいいんだぞ!」
「……それは流石に、自分で噛むより面倒だわ。却下よ」
私は三白眼を鋭く細め、アルベルトを牽制した。
すると、彼はさらに恍惚とした表情になり、三切れ目の桃を差し出してきた。
「……アン。お嬢様が、ついに自分では一口も動かさなくなりました。これは、我が屋敷の歴史に残る『暗黒の火曜日』ですね」
「いいえ。お嬢様にとっては『栄光の安息日』でしょう」
アンは淡々と、隣国の筆頭家臣ギュンターから届いた手紙を開いた。
「お嬢様、ギュンター様から伝言です。『エスター様が公爵を給仕係として手なずけているという噂を耳にしました。流石は我らの女王。公爵の有り余る魔力を、果物を剥くという繊細な作業に向けさせ、その闘争本能を抑制するとは……まさに平和の象徴です』とのことです」
「……。……。……。……何それ。ただの『あーん』が、どうしてそんな国際貢献みたいな話になるのよ」
私は桃を飲み込み、再びソファの海へと沈んでいった。
「アルベルト。……もういいわ。お腹いっぱい。……寝るわ」
「おやすみ、私のエスター。君の胃が消化活動を行う間、私は君の枕元で静寂の魔法をかけ続けよう。……ああ、寝顔も冷徹で美しい……!」
アルベルトは私の横に跪き、まるで聖母像でも拝むかのような目で見守り始めた。
一方、その頃。
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「……な、何だと!? 奴隷!? あのプライドの高いアルベルトが!? エスター……あいつ、どれだけ恐ろしい女帝になっているんだ……!」
セドリックは、誰もいなくなった広い食堂で、一人、冷え切ったスープを啜りながら震えていた。
エスター・ド・ヴァリエールのニート道。
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