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王都、第一王子のプライベートラウンジ。
かつては優雅なバラの香りが漂っていたその場所は、今や異様な緊張感に包まれていた。
「……出たわ! また出たわ! 殿下、あそこに! カーテンのタッセルの陰に不浄な影が!」
マリア様が喉を枯らさんばかりの悲鳴を上げ、ソファの上に立ち上がった。
彼女の指差す先では、丸々と太ったネズミが、高価な刺繍の施されたカーテンを器用に登っている。
「ひいっ! あ、あっちへ行け! シッ、シッ!」
ウィルフリード殿下が銀のフォークを投げつけるが、ネズミはそれを鼻先でかわし、あざ笑うかのようにキィキィと鳴いた。
「殿下! そんなものではダメですわ! もっと、こう、騎士らしくバサッとなぎ倒してくださいまし!」
「無茶を言うな、マリア! 奴らはすばしっこいんだ。それに、もし斬った後に血が飛び散ったら、私の新しいマントが汚れてしまうではないか!」
殿下は腰の剣に手をかけつつも、結局一歩も動けずに後ずさる。
そこへ、血相を変えた侍従長が駆け込んできた。
「殿下! 大変です! 厨房の貯蔵庫にネズミの軍団が押し入り、今夜のメインディッシュ用の高級チーズがすべて消失いたしました!」
「なんだと!? 私の大好物を……っ! あの不埒なネズミどもめ、もはや宣戦布告と受け取るぞ!」
「それだけではありません。マリア様が楽しみにされていた、隣国から取り寄せたシルクのドレスも、裾がボロボロにかじられておりまして……」
侍従長の言葉が終わるか終わらないかのうちに、マリア様の絶叫が響き渡った。
「私のドレスがああ!? もう嫌! こんなの耐えられませんわ! 猫よ! 猫を連れてきなさい! 一匹残らず、今すぐこの王宮に放つのよ!」
「マリア、君は猫アレルギーではなかったのか?」
ウィルフリード殿下の至極全うな問いかけに、マリア様は髪を振り乱して食ってかかった。
「アレルギーなんて、ネズミに食い殺される恐怖に比べれば、ただの鼻風邪のようなものですわ! あんな、あんなロゼル様がいつも連れ回していた不気味な獣たちが、これほど恋しくなるなんて……っ!」
「……わ、分かった。だが、猫たちはロゼルと共に辺境へ行ってしまったのだ。今、書記官がヴァルカ公爵に手紙を書いて……」
「遅すぎますわ! 特急よ! ドラゴンの早馬……いえ、早竜を出してちょうだい!」
王都が阿鼻叫喚のネズミ祭りに沸いている頃。
平和な辺境、ヴァルカ城のテラスでは。
「……ふふふ。なんだか、とっても愉快な風が吹いてきたわ」
私はレオナール様の手作り(という名の私の監修)による猫用ベッドを眺めながら、満足げに微笑んでいた。
「ロゼル。貴様、また何か良からぬことを考えているだろう。その口角の上がり方は、間違いなく誰かを陥れる時の顔だ」
レオナール様が、膝の上でくつろぐ三匹の猫を優しく押さえながら、私をジロリと見た。
「陥れるだなんて失礼な。私はただ、王都の皆さんが『自業自得』という言葉の意味を、身をもって学習されているのを祝福しているだけですわ」
「……先ほど、王都からの早馬が城門を通った。おそらく、貴様への泣き言が詰まった親書だろう」
「あら、楽しみですわね。どんなに美しい悲鳴が文字になっているのかしら」
そこへ、アンナが銀のお盆に一通の手紙を乗せてやってきた。
封蝋には、王家の紋章。ウィルフリード殿下からの直筆のようだ。
「お嬢様、届きましたわ。殿下からの『愛の告白』……ではなく、『猫を返せという強請り』でございます」
「アンナ、表現が適切だわ。さあ、見せてちょうだい」
私は手紙をひったくるように受け取り、目を通した。
『ロゼル・オーシュへ。
貴様が去ってから、王宮は少々、不測の事態に見舞われている。
具体的には、ネズミという名の害獣が少々増えた程度のことだが。
マリアが君と猫たちの不在を非常に寂しがっているので、慈悲深い私が、君たちを一時的に王宮へ戻ることを許してやろう。
今すぐ、有能な猫二十匹を選抜し、王都へ向かわせるのだ。
これは命令である。
追伸:マリアのドレスの修繕費は、君の慰謝料から差し引いておいてやるから感謝しろ』
読み終わった瞬間、私は手紙をクシャクシャに丸めた。
「……ロゼル? 何と書いてあった?」
レオナール様が恐る恐る尋ねる。
「公爵様。クロ、ちょっとこれを追いかけてちょうだい」
私は丸めた手紙を、中庭に向かって全力で投げ飛ばした。
クロが「待てー!」とばかりに猛ダッシュでそれを追いかけ、ガシガシと爪を立てて噛み砕き始める。
「……あ。俺の主君からの親書が、猫のおもちゃに」
「いいのです。あんな紙切れ、クロの爪研ぎ以上の価値もありませんわ。命令? 戻ることを許してやる? どの口がそんな寝言を吐いているのかしら」
私は冷笑を浮かべ、ペンと便箋を取り出した。
「アンナ、返事を書くわ。一文字も書き漏らさないように、しっかり見ていてちょうだい」
「はい、お嬢様。インクの準備はできております」
私は淀みない筆致で、ウィルフリード殿下への返信を綴り始めた。
『拝啓、ウィルフリード殿下。
お手紙拝読いたしました。ネズミ様たちとの賑やかな生活、心よりお祝い申し上げます。
さて、猫たちの貸し出しの件ですが、あいにくこちら辺境の猫たちは、現在『公爵様の美貌を鑑賞する会』の最中でございまして、一分一秒たりとも持ち場を離れることができません。
また、マリア様のドレスの件ですが、ネズミ様がデザインを施してくださったのであれば、それは最新の流行(トレンド)として楽しむのが、次期王妃としての器量ではないでしょうか。
猫たちは、ここヴァルカ領の澄んだ空気と、レオナール様の素晴らしいマタタビ体質をこよなく愛しており、不潔でネズミ臭い王宮には二度と足を踏み入れたくないと申しております。
以上、猫様の代弁をさせていただきました。
敬具』
書き終えた私は、最高に美しい笑顔でレオナール様を振り返った。
「いかがでしょうか、公爵様?」
「……貴様、本気で戦争を吹っ掛けるつもりか?」
「いいえ、これは『愛のムチ』ですわ。あ、公爵様。返信のついでに、クロがバラバラにした手紙の残骸も同封しておいてくださいね。猫様からの『感謝の印』として」
レオナール様は深く、深いため息をついたが、その瞳にはどこか楽しそうな光が宿っていた。
「……好きにしろ。殿下が攻めてきたら、俺がこの猫たちと共に返り討ちにしてやる。ただし、猫を盾にするのは禁止だぞ」
「もちろんですわ! 盾にするのは、公爵様のその逞しい胸板だけで十分ですもの!」
こうして、王都へと送り返された「拒絶」の返答。
それが届いた時のマリア様の悲鳴を想像するだけで、私の心は今日も「もふもふ」と温かくなるのだった。
かつては優雅なバラの香りが漂っていたその場所は、今や異様な緊張感に包まれていた。
「……出たわ! また出たわ! 殿下、あそこに! カーテンのタッセルの陰に不浄な影が!」
マリア様が喉を枯らさんばかりの悲鳴を上げ、ソファの上に立ち上がった。
彼女の指差す先では、丸々と太ったネズミが、高価な刺繍の施されたカーテンを器用に登っている。
「ひいっ! あ、あっちへ行け! シッ、シッ!」
ウィルフリード殿下が銀のフォークを投げつけるが、ネズミはそれを鼻先でかわし、あざ笑うかのようにキィキィと鳴いた。
「殿下! そんなものではダメですわ! もっと、こう、騎士らしくバサッとなぎ倒してくださいまし!」
「無茶を言うな、マリア! 奴らはすばしっこいんだ。それに、もし斬った後に血が飛び散ったら、私の新しいマントが汚れてしまうではないか!」
殿下は腰の剣に手をかけつつも、結局一歩も動けずに後ずさる。
そこへ、血相を変えた侍従長が駆け込んできた。
「殿下! 大変です! 厨房の貯蔵庫にネズミの軍団が押し入り、今夜のメインディッシュ用の高級チーズがすべて消失いたしました!」
「なんだと!? 私の大好物を……っ! あの不埒なネズミどもめ、もはや宣戦布告と受け取るぞ!」
「それだけではありません。マリア様が楽しみにされていた、隣国から取り寄せたシルクのドレスも、裾がボロボロにかじられておりまして……」
侍従長の言葉が終わるか終わらないかのうちに、マリア様の絶叫が響き渡った。
「私のドレスがああ!? もう嫌! こんなの耐えられませんわ! 猫よ! 猫を連れてきなさい! 一匹残らず、今すぐこの王宮に放つのよ!」
「マリア、君は猫アレルギーではなかったのか?」
ウィルフリード殿下の至極全うな問いかけに、マリア様は髪を振り乱して食ってかかった。
「アレルギーなんて、ネズミに食い殺される恐怖に比べれば、ただの鼻風邪のようなものですわ! あんな、あんなロゼル様がいつも連れ回していた不気味な獣たちが、これほど恋しくなるなんて……っ!」
「……わ、分かった。だが、猫たちはロゼルと共に辺境へ行ってしまったのだ。今、書記官がヴァルカ公爵に手紙を書いて……」
「遅すぎますわ! 特急よ! ドラゴンの早馬……いえ、早竜を出してちょうだい!」
王都が阿鼻叫喚のネズミ祭りに沸いている頃。
平和な辺境、ヴァルカ城のテラスでは。
「……ふふふ。なんだか、とっても愉快な風が吹いてきたわ」
私はレオナール様の手作り(という名の私の監修)による猫用ベッドを眺めながら、満足げに微笑んでいた。
「ロゼル。貴様、また何か良からぬことを考えているだろう。その口角の上がり方は、間違いなく誰かを陥れる時の顔だ」
レオナール様が、膝の上でくつろぐ三匹の猫を優しく押さえながら、私をジロリと見た。
「陥れるだなんて失礼な。私はただ、王都の皆さんが『自業自得』という言葉の意味を、身をもって学習されているのを祝福しているだけですわ」
「……先ほど、王都からの早馬が城門を通った。おそらく、貴様への泣き言が詰まった親書だろう」
「あら、楽しみですわね。どんなに美しい悲鳴が文字になっているのかしら」
そこへ、アンナが銀のお盆に一通の手紙を乗せてやってきた。
封蝋には、王家の紋章。ウィルフリード殿下からの直筆のようだ。
「お嬢様、届きましたわ。殿下からの『愛の告白』……ではなく、『猫を返せという強請り』でございます」
「アンナ、表現が適切だわ。さあ、見せてちょうだい」
私は手紙をひったくるように受け取り、目を通した。
『ロゼル・オーシュへ。
貴様が去ってから、王宮は少々、不測の事態に見舞われている。
具体的には、ネズミという名の害獣が少々増えた程度のことだが。
マリアが君と猫たちの不在を非常に寂しがっているので、慈悲深い私が、君たちを一時的に王宮へ戻ることを許してやろう。
今すぐ、有能な猫二十匹を選抜し、王都へ向かわせるのだ。
これは命令である。
追伸:マリアのドレスの修繕費は、君の慰謝料から差し引いておいてやるから感謝しろ』
読み終わった瞬間、私は手紙をクシャクシャに丸めた。
「……ロゼル? 何と書いてあった?」
レオナール様が恐る恐る尋ねる。
「公爵様。クロ、ちょっとこれを追いかけてちょうだい」
私は丸めた手紙を、中庭に向かって全力で投げ飛ばした。
クロが「待てー!」とばかりに猛ダッシュでそれを追いかけ、ガシガシと爪を立てて噛み砕き始める。
「……あ。俺の主君からの親書が、猫のおもちゃに」
「いいのです。あんな紙切れ、クロの爪研ぎ以上の価値もありませんわ。命令? 戻ることを許してやる? どの口がそんな寝言を吐いているのかしら」
私は冷笑を浮かべ、ペンと便箋を取り出した。
「アンナ、返事を書くわ。一文字も書き漏らさないように、しっかり見ていてちょうだい」
「はい、お嬢様。インクの準備はできております」
私は淀みない筆致で、ウィルフリード殿下への返信を綴り始めた。
『拝啓、ウィルフリード殿下。
お手紙拝読いたしました。ネズミ様たちとの賑やかな生活、心よりお祝い申し上げます。
さて、猫たちの貸し出しの件ですが、あいにくこちら辺境の猫たちは、現在『公爵様の美貌を鑑賞する会』の最中でございまして、一分一秒たりとも持ち場を離れることができません。
また、マリア様のドレスの件ですが、ネズミ様がデザインを施してくださったのであれば、それは最新の流行(トレンド)として楽しむのが、次期王妃としての器量ではないでしょうか。
猫たちは、ここヴァルカ領の澄んだ空気と、レオナール様の素晴らしいマタタビ体質をこよなく愛しており、不潔でネズミ臭い王宮には二度と足を踏み入れたくないと申しております。
以上、猫様の代弁をさせていただきました。
敬具』
書き終えた私は、最高に美しい笑顔でレオナール様を振り返った。
「いかがでしょうか、公爵様?」
「……貴様、本気で戦争を吹っ掛けるつもりか?」
「いいえ、これは『愛のムチ』ですわ。あ、公爵様。返信のついでに、クロがバラバラにした手紙の残骸も同封しておいてくださいね。猫様からの『感謝の印』として」
レオナール様は深く、深いため息をついたが、その瞳にはどこか楽しそうな光が宿っていた。
「……好きにしろ。殿下が攻めてきたら、俺がこの猫たちと共に返り討ちにしてやる。ただし、猫を盾にするのは禁止だぞ」
「もちろんですわ! 盾にするのは、公爵様のその逞しい胸板だけで十分ですもの!」
こうして、王都へと送り返された「拒絶」の返答。
それが届いた時のマリア様の悲鳴を想像するだけで、私の心は今日も「もふもふ」と温かくなるのだった。
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